井上岩夫という詩人がいた。九州一円では知られているけれど、いわゆる中央詩壇とは無縁のまま、権威に対してひっそりと背を向けて生きつづけた詩人だった。古本屋、看板かき、印刷屋などを営みながら、市井の片隅にあって反時代的な姿勢をつらぬいた。
作家・島尾敏雄は、彼についてこう記している。
「目が鋭く光ってすべてに拒否的な気配が漂っていました。(中略)しかし彼の目の底では静かなやさしさが、表現の方法を見つけ得ずにはにかんでいることを隠せないのです。(中略)孤島の岩の上の俊寛のような彼の悲しげな目。しかし私の胸の中に焼きついているのは無口な彼の在りようです。薩摩の風土にまみれてその穴からじっと世界を伺っている目」
まったくその通りで、これ以上つけ加えるべき言葉は何もいらない。ただ親子ほど歳のちがう者から見た印象だけを補足しようと思う。出会ったのは二十年ほど前、鹿児島市・天文館通り裏の居酒屋だった。世の中は明るく繁栄しているのに、戦時中の不発弾のようなものがそこにごろりと存在して、過去をそんなに簡単に忘れていいものかねと言わんばかりに、目を光らせている気配だった。しかも、生半可なインテリを毛嫌いしつつ、市井の片隅にひそんでいる狷介な初老の男……。
初対面のその日、私たちはつかみかからんばかりの激しい口論となった。彼にとって私はチンピラの駆け出しであり、私のほうは屈強な父親世代に初めて全力で挑めるような高ぶりを感じていた。その出会い頭の喧嘩の後、私たちは知己となった。
彼の小説はぶっきらぼうで、ごつごつとして読みづらかった。だが戦中派の父たちの胸の奥底にどんな思いが秘められているのか、ついに納得できた。そして私は、こう記した。
「『カキサウルスの鬚』を読み、私は愕然とした。揺るぎない存在感にショックを受け、青ざめた。上っ面だけのっぺり小綺麗になった土地や時代の、その地層の最深部から、風化することを拒む一つの意思が恐竜のように起(た)ち上がってくる気がしたのだった」
決して、お世辞ではなかった。不発弾にひそむ、まだ湿っていない火薬をじかに舌で味わってしまったような狼狽を感じたのだ。そして私は『カキサウルスの鬚』の作者・井上岩夫を恐竜になぞらえて、心ひそかに「イワオサウルス」と名づけた。頑固親父め、と呟きたくなる困惑と、深い畏れを込めて。
最後に会ったのは一九八二年、早世した息子の墓参りに帰郷したときだった。まったくの偶然だが、彼は、私の息子の墓がある鹿児島市の唐湊に住んでいた。
桜島の噴煙が見える墓地の道を、妻と私は茫然としながら下り、竹林のような仮住まいを訪ねたのだった。そこは伴侶を失ったあとの彼の隠れ家であり、仕事場でもあった。いかにも隠者の住まいらしく、殺風景で何もなかった。ただ机の上に草稿が積まれていた。その日、彼は無口だが、たとえようもなく優しかった。黒々と光る目が、子を失ったばかりの若い夫婦を慈しんでいた。それでも私は、恐竜「イワオサウルス」がまぎれもなくそこに居ると感じて正座していた。
その後、私はアメリカに移り住み、再会する機会もないまま年月が過ぎていった。訃報に接したとき、彼の仕事が埋もれてしまうのではないかと、歯ぎしりするような無念な思いがあった。
だが、それは杞憂だった。没後五年たって、福岡市の石風社から『井上岩夫著作集』が刊行され始めたのだ。函入り大判で、五百ページを超える大著だった。壮挙だと思った。けれど出版不況の時代だから、第一巻だけで終わってしまうのではないかと危ぶんでいた。ところが二年後の今年、ついに第二巻の「小説集」が出た。私を身ぶるいさせた『カキサウルスの鬚』も収録されている。
恐竜「イワオサウルス」は二〇〇〇年に生き返ってきたのだ。私は嬉しくてたまらず、二冊の本を重ね、その上に夏蜜柑を供えた。