鹿児島市に住んで詩人・作家として活躍していた井上岩夫氏が亡くなって、七年経つ。早いものである。
 この著作集第二巻には長短編合わせて九編の小説が収められている。そのうち、「ごはんさんで」「衛門」「カキサウルスの鬚」「下痢と兵隊」「雁八界隈」は以前読んだことがある作品だが、以前も今回再読しても一番印象に残るのは「カキサウルスの鬚」である。
 大隅一人と小松松造という二人の男が物語の中心で、二人は互いに「カズトサア」「マッチャ」と呼び合う幼馴染み・親友だ。しかも、共に戦争で受けた心の傷や故郷での濃密な人間関係を引きずって日を送る。特にカズトサア大隅一人は、抱え込んでいる心の荷物が重すぎるがゆえに「カキサウルス」とか「デバマネキ」というグロテスクなものを幻視してしまうのだ。終いには、大隅一人は鹿児島での「荷物」の一切を振り捨てるようにして東京へ出て行く。良い歳した男が、である。人間たちはこんなにも深く心を通わせ、しかしながらすれ違い、一人一人生きるしかないものなのか、と溜め息が出てしまった。
 せまい町内での人間関係を描いた「葱」、軍馬に執着する男の話「さくら」、「餅菓子みたいなおばさん」が登場する「少佐の妻」、算数が天才的に得意な少年と言葉が喋れない母親とを物語った「四枚の銅貨」、この四編には初めて接した。それぞれ名品である。
 井上岩夫氏の小説には正直者、頑固者、ずる賢い奴、可愛い人、みっともない連中、等々、さまざまな人物たちが出てくるが、皆、人間としての輪郭をしっかり持ち、生気に満ちている。「報復から逃げおおせる為なら郷里も妻子も捨てる程の小心者である男に、鶴嘴を斜に振りかぶらせたのは何だったのか。わからんと言っても、わかると言っても嘘になる「(「カキサウルスの鬚」)、──「わからん」と「わかる」の間に身を屈(かが)め、人間に対する興味・関心を根強く持ち続けたからこそ、こうした読み応えある作品群を残し得たのではなかろうか。