書評

井上岩夫著作集[2]小説集

井上岩夫 詩人 鹿児島 小説 カキサウルス 石風社 豊田伸治 全集 宮内勝典
A5判上製函入517頁
4-88344-065-6
定価:本体価格5000円+税
2000/06/30発行
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井上岩夫著作集[2]小説集
zeikomi
¥0円


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井上岩夫著作集[2]小説集
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兵士にとっての「戦争」を、自意識の劇の過剰のなかに描き切る。──ひとりの詩人が、現実への深い拒絶と孤絶の果てに、知の狙撃兵となって「世界」を再創造する。「『カキサウルスの鬚』を読み、私は愕然とした。揺るぎない存在感にショックを受け、青ざめた。…小綺麗になった土地や時代の、その地層の最深部から、風化することを拒む一つの意思が恐竜のように起ち上ってくる気がしたのだ。」(宮内勝典・作家)

書評

「生き返った恐竜」に会う

宮内勝典
作家

 井上岩夫という詩人がいた。九州一円では知られているけれど、いわゆる中央詩壇とは無縁のまま、権威に対してひっそりと背を向けて生きつづけた詩人だった。古本屋、看板かき、印刷屋などを営みながら、市井の片隅にあって反時代的な姿勢をつらぬいた。

 作家・島尾敏雄は、彼についてこう記している。
 「目が鋭く光ってすべてに拒否的な気配が漂っていました。(中略)しかし彼の目の底では静かなやさしさが、表現の方法を見つけ得ずにはにかんでいることを隠せないのです。(中略)孤島の岩の上の俊寛のような彼の悲しげな目。しかし私の胸の中に焼きついているのは無口な彼の在りようです。薩摩の風土にまみれてその穴からじっと世界を伺っている目」
 まったくその通りで、これ以上つけ加えるべき言葉は何もいらない。ただ親子ほど歳のちがう者から見た印象だけを補足しようと思う。出会ったのは二十年ほど前、鹿児島市・天文館通り裏の居酒屋だった。世の中は明るく繁栄しているのに、戦時中の不発弾のようなものがそこにごろりと存在して、過去をそんなに簡単に忘れていいものかねと言わんばかりに、目を光らせている気配だった。しかも、生半可なインテリを毛嫌いしつつ、市井の片隅にひそんでいる狷介な初老の男……。
 初対面のその日、私たちはつかみかからんばかりの激しい口論となった。彼にとって私はチンピラの駆け出しであり、私のほうは屈強な父親世代に初めて全力で挑めるような高ぶりを感じていた。その出会い頭の喧嘩の後、私たちは知己となった。

 彼の小説はぶっきらぼうで、ごつごつとして読みづらかった。だが戦中派の父たちの胸の奥底にどんな思いが秘められているのか、ついに納得できた。そして私は、こう記した。
 「『カキサウルスの鬚』を読み、私は愕然とした。揺るぎない存在感にショックを受け、青ざめた。上っ面だけのっぺり小綺麗になった土地や時代の、その地層の最深部から、風化することを拒む一つの意思が恐竜のように起(た)ち上がってくる気がしたのだった」
 決して、お世辞ではなかった。不発弾にひそむ、まだ湿っていない火薬をじかに舌で味わってしまったような狼狽を感じたのだ。そして私は『カキサウルスの鬚』の作者・井上岩夫を恐竜になぞらえて、心ひそかに「イワオサウルス」と名づけた。頑固親父め、と呟きたくなる困惑と、深い畏れを込めて。
 最後に会ったのは一九八二年、早世した息子の墓参りに帰郷したときだった。まったくの偶然だが、彼は、私の息子の墓がある鹿児島市の唐湊に住んでいた。
 桜島の噴煙が見える墓地の道を、妻と私は茫然としながら下り、竹林のような仮住まいを訪ねたのだった。そこは伴侶を失ったあとの彼の隠れ家であり、仕事場でもあった。いかにも隠者の住まいらしく、殺風景で何もなかった。ただ机の上に草稿が積まれていた。その日、彼は無口だが、たとえようもなく優しかった。黒々と光る目が、子を失ったばかりの若い夫婦を慈しんでいた。それでも私は、恐竜「イワオサウルス」がまぎれもなくそこに居ると感じて正座していた。

 その後、私はアメリカに移り住み、再会する機会もないまま年月が過ぎていった。訃報に接したとき、彼の仕事が埋もれてしまうのではないかと、歯ぎしりするような無念な思いがあった。
 だが、それは杞憂だった。没後五年たって、福岡市の石風社から『井上岩夫著作集』が刊行され始めたのだ。函入り大判で、五百ページを超える大著だった。壮挙だと思った。けれど出版不況の時代だから、第一巻だけで終わってしまうのではないかと危ぶんでいた。ところが二年後の今年、ついに第二巻の「小説集」が出た。私を身ぶるいさせた『カキサウルスの鬚』も収録されている。
 恐竜「イワオサウルス」は二〇〇〇年に生き返ってきたのだ。私は嬉しくてたまらず、二冊の本を重ね、その上に夏蜜柑を供えた。

生気に満ちた人間描く

前山光則
作家

 鹿児島市に住んで詩人・作家として活躍していた井上岩夫氏が亡くなって、七年経つ。早いものである。
 この著作集第二巻には長短編合わせて九編の小説が収められている。そのうち、「ごはんさんで」「衛門」「カキサウルスの鬚」「下痢と兵隊」「雁八界隈」は以前読んだことがある作品だが、以前も今回再読しても一番印象に残るのは「カキサウルスの鬚」である。
 大隅一人と小松松造という二人の男が物語の中心で、二人は互いに「カズトサア」「マッチャ」と呼び合う幼馴染み・親友だ。しかも、共に戦争で受けた心の傷や故郷での濃密な人間関係を引きずって日を送る。特にカズトサア大隅一人は、抱え込んでいる心の荷物が重すぎるがゆえに「カキサウルス」とか「デバマネキ」というグロテスクなものを幻視してしまうのだ。終いには、大隅一人は鹿児島での「荷物」の一切を振り捨てるようにして東京へ出て行く。良い歳した男が、である。人間たちはこんなにも深く心を通わせ、しかしながらすれ違い、一人一人生きるしかないものなのか、と溜め息が出てしまった。
 せまい町内での人間関係を描いた「葱」、軍馬に執着する男の話「さくら」、「餅菓子みたいなおばさん」が登場する「少佐の妻」、算数が天才的に得意な少年と言葉が喋れない母親とを物語った「四枚の銅貨」、この四編には初めて接した。それぞれ名品である。
 井上岩夫氏の小説には正直者、頑固者、ずる賢い奴、可愛い人、みっともない連中、等々、さまざまな人物たちが出てくるが、皆、人間としての輪郭をしっかり持ち、生気に満ちている。「報復から逃げおおせる為なら郷里も妻子も捨てる程の小心者である男に、鶴嘴を斜に振りかぶらせたのは何だったのか。わからんと言っても、わかると言っても嘘になる「(「カキサウルスの鬚」)、──「わからん」と「わかる」の間に身を屈(かが)め、人間に対する興味・関心を根強く持ち続けたからこそ、こうした読み応えある作品群を残し得たのではなかろうか。

鬼才の密度濃い「前衛」

渡辺京二
評論家

 歳月を重ねるにつれて、光芒を放つであろう小説集一巻がここに在る。
 著者は七年前に物故された鹿児島在住の詩人であるが、詩において、極度に凝縮された喩の切れ味と、時代を透視する思想的含蓄の深さによって、戦後詩史の一ページを飾るにたる業績を残されたばかりでない。氏は戦後どの作家も書くことがなかったような、高度に知的でしかもくるめくように豊醇な一群の小説の書き手でもあった。
 そのすべては鹿児島や熊本の雑誌に発表されたので、いまだ知られざる作家にとどまってはいるが、この一巻を読む者は、井上氏が戦後文学の中でも、ひときわ光彩を放つ一鬼才だったことをうべなわずにはおれぬだろう。
 氏の代表作は、かつて弓立社から一本として刊行された『カキサウルスの鬚』と『衛門』だろう。前者は七〇年代初頭の鹿児島を舞台として、悪夢のような戦争体験と屈折した土俗的情念をないまぜた力作であり、後者は日中戦争中の時代の暗鬱な照り返しを背景とする、近親相姦的恋愛の物語である。
 つまり氏の小説には、戦争と軍隊という日本人の巨大な経験が夢魔のようにのしかかっており、その意味では戦後文学的といっていよいし、そのような経験の処理のしかたが知的な屈折を極めている点では、昭和十年代の自意識の文学に系譜づけることもできる。
 しかし、氏の作品が戦後文学の主流をなす知識人文学にとどまるものでないのは、そのすべての隅々から、ムラの土俗のむせ返るような濃密な相貌が立ち現れることによって明かだろう。このようにムラの土俗が知的な格闘を通して思想的象徴にまで高められたのは、まさに氏のみがなしえた壮観であった。
 さらに氏の小説は仕掛けと謎にみちている点でも、まさに前衛的である。氏の小説においては、事実も筋も主題も幾重も目くらましをかけられていて、読者は密度の濃い言葉に酔わされながら、絶えず知的挑戦を受けることになる。すなわち小説読みにとって、この一巻は生涯幾度とは出会えぬ一壷の美酒なのである。

目次紹介- 抜粋 -

ごはさんで
衛門
カキサウルスの鬚
下痢と兵隊
雁八界隈

さくら
少佐の妻
四枚の銅貨 
 解題・編集後記

井上岩夫

いのうえ・いわお

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井上岩夫
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¥0円
いのうえ・いわお

1917年(大正6)9月19日鹿児島県に生まれる。
1934年青年学校電気科卒業。1946年まで九州電力社員。
その後、古本屋、看板かき、ガリ版屋など。
その間様々な詩誌の同人となり、また多数の詩誌を発行。1993年1月3日死去。75歳。
著書 詩集:『素描』『荒天用意』(共に私家版)『しょぼくれ熊襲』(弓立社)『いたましいあかりんこたち』『ことばでパチリ』(共に黙遙社)。小説:『大島遙小説集Ⅰ』(私家版)『カキサウルスの鬚』(弓立社)『車椅子の旅』(葦書房)その他、雑誌、新聞発表の作品多数。
1998年より『井上岩夫著作集』全3巻が刊行される(豊田伸治編・石風社)。

豊田伸治

とよだ・しんじ

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豊田伸治
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