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- 2012年5月以降…
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『詩集 魂のぽわん』
前田美代子
『絵が動く(仮)』
弥勒祐徳
『一人芝居先生からのエール 〜人生応援歌』
福永宅司『水の話』
文・近藤等則 絵・黒田征太郎『出版屋(ほんや)の考え休むににたり(仮)』
福元満治
『織部高取の謎を解く(仮)』
小山 亘
『福岡の故地名(仮)』
池田善朗『山田新一 戦争記録画資料集(仮)』
青木 脩・編
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連載
書籍
風土・民俗既刊
- 医は国境を越えて
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アジア太平洋賞〈特別賞〉受賞
貧困・戦争・民族の対立・近代化──世界のあらゆる矛盾が噴き出す文明の十字路で、ハンセン病の治療と、峻険な山岳地帯の無医村診療を15年にわたって続ける一人の日本人医師の苦闘の記録。
【書評】国際化とは、日本とは、人間とは。
一九九三年、アフガニスタンの山岳地帯、ダラエ・ヌール渓谷一帯で悪性マラリアが大流行した。駆けつけた日本人チームは村民から大歓迎された。
キニーネを点滴すると劇的に回復する。一人分二二〇円。資金が底をついた。これを報じた日本の新聞の「人の命が二二〇円」の見出しが波紋を広げ、五年分のマラリア・流行病予算ができたと中村哲さんは喜んだ。パキスタン北西部ペシャワルを拠点に医療活動を続ける人だ。
渓谷に朝の薄明かりがさしはじめるころ、祈りの朗唱が響き、一日がはじまる。村によっては小学校もあるが、大半の村には一種の寺子屋があって、コーランを通じて読み書きを覚える。親が農業や牧畜で忙しいとき、子どもは放牧や水くみを手伝い、学校には行かない。
ある団体が日本と協力して「恵まれない子どもたちのため」村に学校を建設する案を携えて相談にきた。中村さんは答えた。子どもたちは「哀れだ」とは思っていない。ヒツジを追い、たきぎを背負う労働も、家族のきずなを強め、共同体の中で必要な協力や生活の技術を学ぶ教育ではないだろうか。
もちろん、暮らしをよくするための技術や、広く日本や世界を知る知恵を受けることは大切だろう。しかし、あの子どもたちを哀れと見る彼らは、学校にはない、日々の生活を通して自然に教えられる「教育」に気づいているとは言えないと思う。「私はこのての『国際協力』にある種の不信感を抱いている」と中村さんは『医は国境を越えて』に書いている。
八四年にペシャワルの病院に赴任してから十六年、中村さんはパキスタンの辺境から日本を見続けてきた。国際化とは、日本とは、人間とは。その一言一言が思い。きょう、『医は国境を越えて』の中村さんに第十二回「アジア・太平洋賞」特別賞が贈られる。- 355頁四六判上製
- 4-88344-049-4
- 定価2100円[本体2000円]
- 1999/12発行
- 生命の風物語
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中上健次氏絶賛!
苛烈なアフガニスタンの大地に生きる人々、生と死、神と人が灼熱に融和する世界を描き切る神話的短編小説集。「読者はこの短編小説集に興奮する私をわかってくれるだろうか」(中上健次氏)【書評】物語を読む歓び
樋口伸子詩人暑い夏に熱い本を読み、知らずに負った火傷の跡が秋風の頃になってひりひりとする。
画家として知られる甲斐大策氏が、シルクロードをめぐる本を出した。『生命の風物語』『シャリマール』という愛の物語集。いずれにも、本来〈物語〉が持つべき活力(マナ)が溢れている。生命だけでなく、死にさえも。
舞台はアフガニスタンを中心とするイスラム圏。根強く残る内外の紛争に加えて、その風土は苛酷なまでに熱く乾き、人々の営みは私達の日常から大きく隔たっている。
「ドゥシュマンダール」という一篇は、パシュトゥン部族社会の掟の一つである報復を背景にする。ある夏の宿場町で妻をからかわれた夫が手斧を二人の男に叩き込んだ。
白い埃に覆われた並木の街道筋、驟雨前のよどんだ空気と不穏な空模様の変化、苛立った心理が招いた一瞬の惨劇まで、駒落としの画面を見るようだ。血しぶきのあと、「泥色の街は完全に雨脚の中に煙ってしまった」。簡潔で引き締まった文体に魅了される。
この事件は、以後三十年の間に双方から十八人ずつの死者を出して決着したかに見えたが、さらに二十年経ち、別の事件を機に報復が蒸し返され、五人の若者たちの仇討ちの物語が始まる。非情な事件にもかかわらず、清涼感が流れるのは著者の繊細な眼差しが背後の民族性や風土、義や掟に拠る心の揺らぎにまでいき渡っているからだろう。とまれ、このようなドゥシュマンダール(仇討ち)の話が一九七〇年代末のことと聞けば血が逆流する。
さて、風は坩堝の中に渦巻くだけでなく、地を掃き、谷から谷へたゆたい流れる。「パシャイ」は寄るべなき心に添う風のような話である。厳しいヒンドゥクシ山脈の谷々にパシャイと呼ばれる男達がいる。蚊のようなという意味で、「妻も子もなく、盗まず乞わず、五、六人の群れとなってパシャイ達は谷から街道、間道から尾根筋へと漂って歩く」。
山岳事故で自分の名前さえ忘れたジャミールは、叔父に誘われ初めて下界に降りた。十日目、叔父は少年にたっぷり食わせ、必要最小の物を身につけてやると、カーブル河の対岸を見ながら怒鳴るようにいって去った。「お前はパシャイになったのだ。パシャイ達に会ったら従いて行くんだ。神のお恵みを!」
少年は雪を被った山に向かって歩いた。子供達にはやされ犬に吠えられ、怯えながらもパシャイと呼ばれると心が安らぎ、自分でもそうだと信じた。四日目の夜明け、五人の男達が太陽とともにゆっくり丘の上に現われ、横に並んでしゃがんだ。近くに寄ると皆がジャミールに微笑んだ。男達は金髪と肩衣をなびかせ滑るように丘を下り始め、少年も後に従った。悲哀を超越して輝く光景である。
この短編に限らず、境遇の転変や厳しい出自のせいで小さな社会からずり落ちていく人々が出てくる。それを悲惨と言い不幸と見るのは私たちの脆弱な精神であり、彼らはむしろ自ら下降することで、解き放たれた魂の安堵を得ようとしている感がある。私の好きな「髭婆」、寒山拾得のの拾得を彷彿とさせる「大地を掃く男」など揺れ止まぬ陽炎のような余韻を残している。
運命や死に対する彼らの恬淡さともみえるものを、諦観という私達の感覚に置き換えることはできない。愛や悲しみ、幸も不幸も私達の湿り気を帯びた感度で測るのは危険だ。一切が脱水され天火に乾かされ砂よりも細かな粒子となり、漂彷と風の舞い去っていく。
そのほか、騎馬民族らしい勇猛果敢な男達やはかない女達を描いたこの巻を〈熱風・千夜一夜物語〉と呼ぶなら『シャリマール』は、白銀の月光にふさわしい愛の物語集である。
戦火の街での清清しい少年「ナフディ・ジャンの恋」を別にすれば、いずれも禁欲と官能と聖性の境で神秘的に冴え渡る。
癩に怯えながらの超俗の愛を描いた「花園」の終章は息を呑むほどに美しい。一度も肌を重ねることなく成就する逃避行の果て水中に崩れ落ちる女を、すでに同じ病に侵された男は救うこともできない。水辺に漂う花々と仰向けに浮かぶ女はまさに数々の〈水底の女〉の一人であり、ラファエル前派の絵画〈オフェーリア〉に勝イメージを与える。
無駄のない文で風景がくっきりと浮かぶのは、画家である著者の眼の確かさによるものか。そうして、富貴であれ貧者であれ、漂う品格は彼の地の民に寄せる思いの深さに負う。氏はシルクロード各地を歴訪して滞在、回教徒でもある。読み返したくなるのは、この二巻が単なる異国趣味に彩られた現代の奇譚集ではないからだ。アフガンの聖戦士(ムジャヒディン)にも似た氏の風格の奥にあるものを想う時、その精神の膂力(りょりょく)に感嘆せざるをえない。
本を閉じ一夜明ければ、私達の世界は底の浅い豊かさの中で卑小な優劣の差と意地や見栄、薄っぺらな自尊と気落ちに満ちている。目覚めてもどる場所がそこだとは、よく解っている。だからこそ、幾夜もこの本に手がのびる。これを、物語を読む歓びといわずに何といえようか。「眩暈」に陥るが如き魅力
中上健次作家アフガニスタンのカブール、カンダハル、さらに昔から蓮の花の都とされたパキスタンのペシャワール、この近辺に近代国家が定めた国境を国境と認めないように幾多の遊牧の部族が住んでいる。宗派は色々あるが、何れも敬虔なイスラム教徒であり、敵には勇猛果敢な聖戦士(ムジャヒディン)である。当然のことながら友情厚く誇り高い。農耕定住の日本から旅すれば、ことごとくが違い、たちまち眩暈(げんうん)に陥る。
甲斐大策『千夜一夜物語』の趣のある短編小説集は、この眩暈の魅力を伝えて余りある。無駄のない文体が遊牧の若者の武器を持つ肉体に似て、力がみなぎり、古代と中世、現代が混交した部族に生きる若者を現出させる。若者の昂り。屈辱。肉体。歓喜。エロス。これらどれをとってみても、日本の近代、現代小説から失せたものである。農耕定住の日本の若者は「心理」「気分」しかないのである。
読者はこの短編小説集に興奮する私をわかってくれるだろうか。乾いた土を乾いた土として描くこと、太陽を太陽として描くことは生半可な経験や修練でできるものではない。だがこの乾いた土がある。太陽がある。ペシャワールのものとものがぶつかって立ち上がる音があり、匂いがあり、何よりも今、この今、生きている聖戦士でもある、若者らが在る。
この短編集の第2巻目を、さらに長編小説集を続けて読みたい、と衝動にかられる1冊である。- 270頁 四六判上製
- 4-88344-038-9
- 定価1890円[本体1800円]
- 1999/03発行
- 井上岩夫著作集[3]エッセイ他拾遺
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著作集完結!
戦後へ続く酔中夢。批評と諧謔が人間の実相を抉り出す。戦中と戦後を隔つクレバスの闇底で、人という業に対峙し、軍隊という夢魔を撃つ詩精神の実弾。「胸底の洞(うろ)に處女のごとき含羞が隠れていて、生きることは業であるということを、これほどしんしんと悟らせる人も少ない。」(石牟礼道子・作家)。全3巻完結。【書評】〈戦争〉文学的に昇華──完結して
豊田伸治編集・出版人(予備校講師)井上岩夫を最初に知ったのは、熊本大学中退後京都に帰り、数年たったころだったかと思う。熊本の批評家渡辺京二さんから、大発見なので、ぜひ読んでみるように、という旨の手紙をいただいたのだった。薦められて読んだ「カキサウルスの鬚」と「衛門」は衝撃だった。このような〈戦争文学〉は初めてだった。私がそのジャンルにそれほど詳しいわけではない、という点を差し引いても、その二作は私の前に鮮烈な驚きとして表れた。勿論、それぞれ扱う情景も構図も異なっている。しかしどちらも、従来の、悲惨さを強調するものでも、知的高みから批判的精神で描くものでもなかった。全く違った視線で描かれていた。
それはどのような視線かを簡潔に言うのは難しい。氏の作品はどれも入り組んだ構造をしていて、容易には正体を見せない謎めいた相貌をしているからだ。その謎を解きほぐし、受けた感銘の中身を確かめるというのも、井上作品の楽しみである。
その二作品を読んですぐ、詩集『荒天用意』を注文した。この浩瀚(こうかん)な詩集も謎めいた相貌をしていた。以来、出版されるか、熊本の雑誌『暗河』に発表される作品すべてと付き合うことになった。
「井上作品の魅力を一言で言うと?」と質問されることがよくある。一言では無理なので、取材されるといつもその辺りが曖昧になる。だから、その質問への返答の代わりに(ならないかも知れないが)、私なりの謎解きを試してみよう。できるだけ短い詩で。
〈たてがみがかき分けていく/水晶空間(4文字傍点)/逸る四肢は馬腹に抱いて/反った雁列を跳び越える/ぴったり/半馬身おくれてついている/濡れたシャッター(8文字傍点)//瞼は/つねに置き去られる廐舎である/眼球のそら高く駈けぬけるたてがみを/えいごうと名づけてくしけずる/白内障(そこひ)の馬丁が立っている〉
「まばたき」というタイトルが付いている。ここから、筆者が付した傍点部分が何の比喩かは明らかだろう。時が駈けぬける瞬間が描かれている。それも「逸(はや)る四肢は馬腹に抱いて」いるのだから、本当に瞬きの間のことだ。それでも現実は「半馬身おくれ」でないと捉えることができない。ただ見ていても眼は現実を十分には認識できない。残りの半馬身は「水晶空間」の隙間をすり抜けてyく。ところが、全貌が見えている者がいる。「白内障の馬丁」だ。しかもただ見えているのではなく、その本質に触れている。「たてがみ」を「くしけず」っているのだから。
この作品に限るなら、ここまでで読んだ感触が残る。他の作品もイメージしながら、もう少し先まで行ってみよう。
病む者、欠落を抱えた者、いらなくなった者、最後尾の者にだけ投影される現実がある。この世界の至る所に隙間があるからだ。日常生活の中にも、人間関係の中にも、その見えない隙間、存在をよろめかす隙間が、クレバスのように待ち構えている。氏は〈戦争〉でそれを見た。踏み込んでしまったと言ってもよい。人はそれぞれ戦争からつらい体験や消し難い苦悩を持ち帰っただろう。しかし、そういうものは、いかに痛烈であろうと、文学としては成立しない。氏が抱え込んだものが存在基盤の隙間だったからこそ、社会的戦後は終わったと白書が宣言しても、内面的戦後はまだ始まってもいない、と呟かずにはいられなかった。先の詩の視点の低さに注目してほしい。馬は「そら高く」「雁列を跳び越え」ても、視線は低い所から出ている。その足元の、サツマの土俗を引きつれて、〈戦争〉が文学的に昇華された時、戦争体験などない私のような世代にも訴えかける作品に結実したのである。
井上氏は戦後文学の正当な位置を占めるべき作家である。あまりにも時間がかかったが、この著作集が再評価、あるいは新発見の引き金になればと思う。それが地元鹿児島で起こればなおうれしい。- A5判上製函入670頁
- 978-4-88344-165-5
- 定価7350円[本体7000円]
- 2008/06/30発行
- 井上岩夫著作集[1]全詩集
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「ああまだこの世に詩人が生き残っていた」島尾敏雄(作家)
戦争と土俗とモダニズムを引き連れて孤高の詩精神が甦る。苦いユーモアとともに、世界の核心に垂鉛を降ろす。──「私の前にはまぎれもない詩人・井上岩夫が居た。ああまだこの世に詩人が生き残っていた、という強烈な衝撃を私は受けたのだった。」(島尾敏雄・作家)【書評】- 人は「そのた」でしかない-廣瀬晋也
- 透きとおった抒情の絶唱-岡田哲也
- 洞の底の含羞 『井上岩夫著作集』刊行に寄せて-石牟礼道子
- 井上岩夫著作集を編集して──その詩を読み解く-豊田伸治
- 文学に映した戦争-松下純一郎
人は「そのた」でしかない
廣瀬晋也鹿児島大学教授井上岩夫の「荒天用意」(一九七四年)は、「あとがき」によれば、著者三十年にわたる詩業のなかから選んだ新旧の作品で構成した詩集である。序詩以下、長短七十七編の詩が収録されている。この中に、「そのた」(一九七二年)と題する一編がある。
〈そのた/そのほかではない そのた/備考でもない 備忘でもない/いちばん右はしの/あろうがなかろうがどうでもよい そのた/空白のままがよいところにもあるそのた/(中略)/そのた そこに在っても所詮/在らされている そのた/どのような項目にも属さず あらゆる項目を包括する/自在な隷属の残忍なよび名/人々とひとびとの間を埋め/野次馬とヤジウマの断れ目をつなぐ/等身大のただの空間/空間の中のただのチェックマーク〉
押さえたつぶやきから伝わってくるものは、独自性などとは無縁の、なにものでもない「そのた」であることへの怒りといらだちだが、それだけではない。永井龍男の小説「一個」の主人公が思い起こされる。定年退職を間近にひかえた彼は、自分は代替可能の「一個」にすぎないという意識にとらわれ、将来への不安から錯乱に陥る。これに対して、井上の「そのた」には、「そのた」であることをひきうける者の覚悟がうかがえる。この「そのほかではない そのた」だと語る人物が不敵な面構えをしていることは確かである。
人が「そのた」であり、「そのた」でしかないという思いを、井上はその長い軍隊生活からひきずっているのであろう。「荒天用意」には、「戦争」「照門は見た」「止まるな丸田」など、戦地の体験に基づく作品がある。井上と同年、一九一七(大正六)年生まれの島尾敏雄は、詩集末尾に「井上岩夫さんの詩集に添って」という一文を寄せている。島尾は「『後列の後尾にしか並んではいけない』『そのた』としての不動の位置が、彼の詩にたじろぎのない強さを与え」たと評する。
井上は同詩集中「声」(一九六四年)においても、人が戦後社会を生きるなかで置き忘れてしまったことを問い、執着や断念や失意が交錯する日常を冷徹に見つめ、耐える。
〈はげしい雑踏の流れの中で/ふと くびすをかえす男がある/釘をうってしまった棺桶の蓋を/もう一度明けねばならない女がある/何度も確かめた空家の戸をどやしつけ/そのまま佇ちつくす男がある/聞きそびれたものは何なのか/撃ち落した山鳩のまだあたたかい胸に/耳をあてがう老いた猟人がある〉
井上岩夫は復員後、鹿児島市で印刷工房を経営するかたわら、相次いで詩誌を創刊し、また「南日詩壇」の選者をつとめるなど、鹿児島詩壇の中核にあって詩活動をつづけた。透きとおった抒情の絶唱
岡田哲也詩人作家井上岩夫といっても、知る人は少ないだろう。彼は一九一七年、鹿児島県の片田舎に生まれ、応召されて大陸に渡り、捕虜となり、帰還して来た。その後、鹿児島市でガリ版による印刷所を始め、そのかたわら詩を書き、さらに小説を書き、一九九三年亡くなった。詩集に「荒天用意」や「しょぼくれ熊襲」などがあり、小説に「カキサウルスの鬚」や「車椅子の旅」などがある。
鹿児島県の北部、出水市に住むわたしは、年に一、二度彼と会うことがあった。酔えば誰にでも突っ掛かってゆく彼と焼酎を飲みながら、私も生意気なのだが、やるせなくまたやりきれなくなることが幾度かあった。田舎わたらいをしながら、いたずらに〈中央〉にこびず、〈地方〉をあなどらず、師にもつかず師ともならぬ人の生き方とはこんなものか、と思う時もあった。
しかし、奥様に先立たれたあと、晩年はひっそりとしたものだった。見るにしのびなかった。
その井上岩夫の著作集全三巻のうち、詩集を収めた第一巻が刊行された。版元もだが、ここまでこぎつけた編集者の豊田伸治氏の情熱と執念に、ただ脱帽のほかない。なつかしさに駆られて読みながら、わたしはいつしか素直に、その作品を味わっていた。戦後間もない頃の作品に、「作品2」というのがある。
「こんこんと眠るのはかなしい。屈辱は死にまで垂れている。不逞くされて、白眼をむいて/ごうごうと眠るのもかなしい。生は脚光によごれ/死は苦役によごれている。」
戦争によって彼が見たものは、化けの皮がはがされた時代であり人間であり、そして自分自身であった。
彼の詩は、その化けの皮をはがす行為そのものであり、彼の小説は、はがされたあとの自分をしゅうねく注視しつづける行為であった。
戦後、彼の人生は、脚光に汚れた生よりも、苦役によごれた死よりも、シャバの苦労とインキと焼酎にまみれた人生だった。ただそのなかから上澄みのようにしみあがってくる透きとおった抒情があった。酔っぱらったら、「かなわないな」と思わせるところがあったが、次のような作品にも、遙かに「かなわないな」と思わせるところがあった。
「海がふと黙りこむ/臆病なヤドカリが/こっそり殻を脱ぎかえているのです//地球の足どりがふと鈍る/いちじくの葉っぱのカタツムリが/むきをかえているのです//雨はいつだってふっています/カタツムリの葉っぱに ヤドカリの海に/ひっそり やさしく 降っています/だが人々の心にまでは届かない/そこは遠すぎる砂漠なのです」(雨)
説明も解釈も不用な絶唱だと思う。月並みな言葉だが、良いものは良い。いつ読んでも、その時その時の味わいがある。
あるいは彼は、作品「岩」のなかで「君は荒海をみたことがあるか/あの底知れぬ静謐に対峙したことがあるか/アラナミでもドトウでもない/あれは ふと絶句したり吃ったりする(中略)きれぎれの痛む記憶を渚にうちあげる/あれは 許し続ける怒りの本質だ」と書く。
井上岩夫は、なにを許し続けたのだろうか。そして、なにに怒り続けたのだろうか。
おそらく、ひんむいた時代や自分の化けの皮に裏うちされていたものが、許し続ける怒りの本質であったのだろう。
島尾敏雄と交友があった彼は、同年ということも手伝ってか、特攻隊長としての彼と、その他大勢の一兵卒としての自分を、面白おかしく語ることがあった。「島尾さんは高貴、俺は卑小」、そんなことを口走ったが、むろん誰も信じていなかった。戦後の社会も、またぞろ顔や看板や毛並みがもてはやされるようになって来たが、彼はそういう後ろだてがない所で、良く頑張ったと私は思っている。
だから、井上岩夫の現代的意義などと言われても、困るのだ。私は好きですが、あなたも読んでみませんか、ということにつきる。洞の底の含羞 『井上岩夫著作集』刊行に寄せて
石牟礼道子作家亡くなった鹿児島の井上岩夫氏の、分厚い詩集が世に出た。
『井上岩夫著作集1・全詩集』である。あと二巻が用意されていると聞く。
いわゆる出版人ではない青年が京都で学習塾と営みながら、井上さんの詩にほれこみ、友人たちを尋ね、散逸していた詩稿を探し出して編集し、装幀も立派な本に仕上げた。
出版までのいきさつを多少は知って、待っていた一人としては、今どき珍しい壮挙ではあるまいかと思う。
「九州一円では知られた詩人」だったが、「文学の世界もそれなりの根拠を持って東京を中心に動いてい」る中で「井上さんが一部の目の見える人たちを除いて『無名』だったのはある程度という保留付き」であり、死後ではあるが「新人」として世に問いたいのだと、資力をなげうってこの挙を成した、豊田伸治さんの編集後記にある。
読み進むうちに背筋が伸びてくるのは、詩人とこの編者の、今どき希な古典的な矜持にうたれるからであろう。それに何より読者として心性の高いこの詩的事業に参画するよろこびを与えられる。
生前、井上さんは、自分の没後こういう奇特な青年があらわれて、全集を編んでくれるとは、思われなかったのではないか。霊あらば羞かみ哭きをなさるのではあるまいか。
自ら蟇左衛門と名乗っておられたにしては痩身であった。あたりはばからぬ狷介さを発揮しつつ、あと一杯、焼酎が足りないと書く人でもあった。胸底の洞(うろ)に處女のごとき含羞が隠れていて、生きることは業であるということを、これほどしんしんと悟らせる人も少ない。自分のことを詩人はこんなふうにいう。
足の先の凶暴な靴
の中からまた徐々に逼いのぼって帰る俺。
素足の足の裏が知っている人間の現在について、わたしも記憶が戻ることがあるけれども、靴について、この人のように考えたことはなかった。
あそこに
やくざな靴が待っていて
客を拾った
歩きだした
それがジンルイの疲労の
はじまりだった
それゆえこの靴は戦場にも行かされた。
軍靴の中から戦後、「徐々に逼いのぼって帰る俺」の夢枕に、陸軍二等兵丸田四郎という「大飯くらい」が出てくる。要領の悪い二等兵が、戦場においていかに悲惨であるか。薩摩の旗印を俗に十の字というけれども、別名マルニギュウノジというこの兵隊の死を描き出して、「止まるな丸田」と題した長い一篇は、詩人の無念さを私たちも共有させられる。
お前の軍靴が償った不毛の距離
あの日落伍した俺の辿り残した道程に
俺はたおやかな白い野菊を植えた
蛍を放った
雪を舞わせた
三十五年!
お前の死が償った中支江蘇省のまっかな落日の下に
再び軍服を着た牛追いをお前は見ただろう
それにして、消費物資並みにだぶついている文学とやらもセールで売られている。一行の詩語をかくとくするのに、この詩人が払っている人生の対価が、いかなる埋蔵量の中から掘り出されているのか、わたしたちは、ちらりとぐらいはおしはかることができる。
たぶん焼酎も足りて機嫌のよい時、詩人の手つきも、あのこまやかなきりぎりすの「さわりひげ」に似てくるのだなと想像することもできる。次のような美しい一聯から、それを教えられる。
草のやかたのきりぎりす
露から生まれた時の天敵
すり合わす翅で月を回して
のこぎりの手でのこぎりの足で
黒い鞠を回している
ちなみにこのきりぎりすは、父父父父父、と鳴いているのだそうだ。父という字だけで三行もあるこの一聯を読みながら、わたしは生命の連続性を探ってゆくには、妣というのが糸口になるのかと考えていたのを少し補足した。こんなふうに音声化されたかぼそい虫の声は、やはり、妣に対応しているのかと思い出し、悪かったなあと立ち止ったのである。
御魂あれば焼酎を献じて申し上げたい。
蟇左衛門とは、自意識も過剰すぎると存じますが。井上岩夫著作集を編集して──その詩を読み解く
豊田伸治「井上岩夫著作集」編者どうして京都に住む私が、生前それほど交際があったわけでもない井上岩夫さんの「著作集」を出されたのですか、という趣旨のことを何度も聞かれます。埒があかないと『惚れた作家への情熱・傾倒』などという常套句が登場します。否定するわけではないのですが、何か面映ゆい気がします。そもそも傾倒する作家は大抵本になります。困難でも手に入るし、少なくとも図書館で読めるのに、井上さんだけがその全貌を見ることが出来ない、という事実に駆り立てられた、という側面はありました。それにしても、どうして私が駆り立てられたのかということになると、話は元に戻ってしまうことになるわけですが。井上さんの作品は纏まった形で残す価値があるし、誰もしないなら自分がするしかない、と自分で自分に言い聞かせたわけで、いわば道楽のようなものです。
■難解の裏にあるもの
第一巻が「全詩集」なので、ここでは詩について書きます。平易だと言う人もいますが、難解だと言う人の方が多いようです。勿論平易なのもあれば、意味を探るより言葉の流れに身をゆだねていれば、胸を打つものもあります。ただ井上さんは詩はリズムの心地よさだけで歌おうとはしません。選び抜いた語句の配列と、綿密に計算された比喩の組み合わせが難解に見せているのです。そこをうまく見付けるのが理解の第一歩です。紙幅の都合があるので、できるだけ短い詩で、試してみましょう。
〈たてがみがかき分けていく/水晶空間/逸る四肢は馬腹に抱いて/反った雁列を跳び越える/ぴったり/半馬身おくれてついている/濡れたシャッター//瞼は/つねに置き去られる厩舎である/眼球のそら高く駆けぬけるたてがみを/えいごうと名づけてくしけずる/白内障の馬丁が立っている〉
「まばたき」という詩です。傍点を(この転載では太字で表記)つけた部分はタイトルからも、最後の「瞼」という部分からも、何の比喩かは明らかです。そこを「かき分けていく」馬は、見える対象物ということになります。一瞬一瞬に見えているものは、「半馬身おくれて」つまり後ろ姿しか見えていない、と書いてあります。人はものの本質は半分しか、然も過ぎてしまったものしか見えない。だからといって、『眼あきは不便なものだ』などという塙保己一の逸話のようなことが書いてあるわけではありません。見えているのは白内障の馬丁なのです。井上さんの作品には、時にこういう病や障害を背負わされた人物が主人公として出てくるのですが、この詩でそこまで読みとる必要はありません。でもただ見えているのではなく、「たてがみをくしけず」っていることは見ておかなければなりません。病(この詩では眼)に犯されたもののみが捉える本質とでも言うのでしょうか。それが「えいごう」です。この詩でその内実まで入り込む必要もありません。
まだすべてに触れているわけではありませんが、このぐらいでよいでしょう。難解とされる詩はこのように比喩が響き合っています。そのあたりを読みとれば、読んだ感触が残ります。
■底に漂う「悲」
一つの詩作品には、それなりの世界に対する一つの切り口があります。井上さんの作品はその切り口から見える世界が深いのです。その底には「悲」が漂っています。悲壮でも悲観でもありません。悲歌とでも言えばいいのでしょうか。勿論それが表立って登場することはないのです。それは恥ずかしげに身をよじり、韜晦し、時には戯画となって、時には嗔(いか)りとなって表現されます。また時には小さきものへの哀歌となります。それは資質と、戦争体験と、「薩摩」という土地に暮らすことになるモダンな精神が、くぐらなければならなかったものを暗示しています。その全貌はやはり小説やエッセイが揃って明らかになるのですが、少しずつでもかいま見ることが出来るのが詩の強みなのでしょう。
井上さんにとっての未知の読者に届くことを願いながら。京都にて。文学に映した戦争
松下純一郎熊本日日新聞文化生活部記者井上岩夫。鹿児島に生きた詩人、作家。だが、その存在を知る人は少ない。今回、熱心な一読者の手で出版された著作集からは、詩への熱い情熱と、孤独を恐れぬ凄絶な生きざまが、重く伝わってくる。その根底にあるのは、紛れもなく戦争体験だった。
○
著作集第一巻は全詩集。第二詩集「素描」(一九五四年)はじめ、「荒天用意」(七四年)「しょぼくれ熊襲」(七九年)などを収めた。いずれも推敲を重ね、余分な語句を削り落とした作品群。「捨てるだけ捨ててみると、残りは十二篇になっていた」 (「しょぼくれ熊襲」あとがき)と、言葉への厳しさと自戒がのぞく。
生前交友のあった同世代の作家島尾敏雄さんは、昭和三十年代初め、井上さんの経営していた印刷所で出会う。島尾さんは、その時の印象をこう記した。「私のまえにはまぎれもない詩人・井上岩夫が居た。ああまだこの世に詩人が生き残っていたという衝撃を私は受けたのだった……」(「荒天用意」跋)
○
〈戦争について語ることも、書くことも、今は空しい。殺し合いの現場に行きもしない人々によって、戦争はあらかた語られ尽くしたようだ。唯一つ、これだけをつけ加えておこう。どうしても読解できない緊急作命によって一つの部隊が行動に移ることがあるということを。//わたしは覚えている。あの後尾の一人が誰であったか。あたりまえのように装具を着け、砲をひき出し、前の男が歩くとおり次々に歩いて消えていった、あの行く先を誰も知らない、そして誰かが知っていると信じている、長い縦隊の後尾の一人が誰であったかを。〉(「荒天用意」)
「後尾の一人」とは誰か。評論家渡辺京二さん(六二・熊本市)が読み解いている。
渡辺さんは昭和五十年代初め、井上さんの作品に触れて心動かされ、自ら編集していた文芸誌「暗河」を紹介。以後、井上さんは同誌に発表し続けた。「『後尾の一人』とは何の個性的特徴も持たぬ一個の無名者なのです。(略)戦争とは、行き先も知らぬ縦隊の後尾にたしかにひとりの男が歩いていたということなのだよ、と作者はいっています。作者が戦場から持ち帰ったのは、こういう『一人の実在』に関する譲渡できぬ思い込みでした」(「土俗としての戦争──井上岩夫論」=『暗河』二四号)
出水市に住む詩人岡田哲也さんは、三十年の世代差を超え、「本物の詩人として見ていた」と言う。岡田さんの言う詩人とは「徒党を組まず、一人でその世界に立ち向かう人」。あたかもドン・キホーテ。「鹿児島も地方文化人みたいな人が跋扈している。井上さんはそれを拒んだ。偉そうなことを言ってなんだい、という生き方」「戦争を体験したことで、化けの皮をはがした人間の生身を見てしまったんだと思う 、自分の姿も含めて。この目で見たぞ、この耳で確かめたぞ、と」(岡田さん)
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井上さんは優れた小説も残した。渡辺さんが最初に触れたのも小説「カキサウルスの鬚」だった。入り組んだ手法、洗練された文章。モダニズムを踏襲する一方で強烈に「鹿児島」のにおいをふりまいていた。「鹿児島特有の階層感情、そして土俗せいがほとばしっていた。南米文学にも通じる前衛性を感じた」という。
井上さんはその後、二度目の応召(昭和十八年)の後の体験を基にした小説「下痢と兵隊」を「暗河」に発表した。部隊の同僚や部下たちのこと、ささいな会話、心理の葛藤などが二百二十枚につづられた。締めくくりはこうだ。「何だ、これだけのことか、何もなかったじゃないかと舌うちする人もあるだろう、凄惨な死闘や飢餓や意表を衝く作戦などが出て来なければ人々はもうセンソウに出会ったとは思わないだろうから。そんな戦記や小説に比べればこれは屁のようなものには違いないが、ゴミでしかなかった一人の兵隊にもまたゴミなりのセンソウがあったことを観て戴ければそれでいいのである」
「後尾の一人」がここにいる。
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井上さんの生涯の友は酒(しょうちゅう)だった。三男の巨器(なおき)さん(五〇・鹿児島市)は父の家業を継ぎ同居していたら、夜もおちおち寝ていられなかったという。「夜になるとふらりと出掛け、どこそこで見知らぬ客に声を掛けてはけんかしていたようだ。夜中の二時、三時、飲みつぶれているから迎えに来てほしいと店から電話があるんです。それも知らない店から」一時は父を嫌悪していた巨器さんだが、「誇り高かった」父を今は許せる、という。
厳しさは鹿児島の文学仲間にも容赦なく向けられた。その裏に、作品を理解してくれないもどかしさや憤りが、突き上げていたとも見られる。
今回、企画編集した豊田伸治さんは熊本大在学中に「暗河」に参加、その後井上さんを知った。会ったのは一度きり。「作品や資料を散逸させたくなかったし、全国的には無名の詩人だが、その優れた仕事をまとめることで現代日本文学の中での位置を問いたかった」。著作集はこの語、小説集、エッセー集と続く。
地方に生きた詩人の戦後が、やっと明らかになっていく。- A5半上製函入487頁
- 4-88344-030-3
- 定価5250円[本体5000円]
- 1998/07/30発行
- 医者、用水路を拓く
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「百の診療所より1本の用水路を!」
白衣を脱ぎ、メスを重機のレバーに代え、大地の医者となる。──パキスタン・アフガニスタンで1984年から診療を続ける医者が、戦乱と大旱魃の中、1500本の井戸を掘り、13キロの用水路を拓(ひら)く。「国際社会」という虚構に惑わされず、真に世界の実相を読み解くために記された渾身の報告。【書評】- アフガンで苦闘、ついに緑が蘇る-志葉 玲
- 人間として何をなすか-上野 朱
- 素人が治水工事6年半の記録-池田香代子
- 旱魃に立ち向かう驚くべき行動力-養老孟司
- 「国際協力」在り方示す-佐高信
- 先ずパンと水を確保せよ!-吉村慎太郎
アフガンで苦闘、ついに緑が蘇る
志葉 玲ジャーナリスト残念ながら、現在ほど「国際貢献」という言葉が欺瞞を伴って使われる時は無かっただろう。二十年余りもアフガニスタン支援に携わってきた著者の中村医師は、本書で繰り返し訴える。「殺しながら救う援助はない」「自衛隊の派遣は有害無益。大旱魃で飢える人々を救うことこそ必要だ」と。米軍がモスクや学校への「誤爆」を続ける一方、懐柔策としての援助を行うことで、本来の援助団体までも、現地の人々から不審の目を向けられ、襲撃される。筆者自身、イラクでの取材中に「自衛隊を送った日本は敵だ!」と罵声を浴び、地元の若者達に銃を突きつけられたことがあるが、同様の問題は、アフガニスタンでもやはり起きていたのだ。
だが中村医師は卓上の議論ではなく、その行動で欺瞞を打ち破り、現地の人々の信頼をかちとっていく。それが本書の主題である用水路建設だ。地球温暖化の影響で、急速に失われた水を、農地に戻す。「百の診療所よりも一本の用水路を」と、全てを捨てて奮闘する著者の姿にはただただ敬服するしかない。
工事は決して容易なものではなく、大雨や土石流、水路の決壊など数々の困難に直面する。その上、中村医師を含め作業チームは皆、大規模工事の経験は無く、日本でのような資金・物量に頼る工法も使えない。自然に翻弄され、無い無い尽くしの中、悪戦苦闘する中村医師らは、現地の人々の知恵や技術、そして日本の伝統の治水技術に活路を見出していく。そして、ついには荒廃した大地に見事、緑を蘇らせるのだ。
本書を読む人は、真の「国際貢献」とは何か、いかに平和を創り出すのか、考えさせられるだろう。絶望に抗い、未来を切り開く勇気を与えられるだろう。そして、自然の偉大さと恐ろしさ、地球環境の破壊が何をもたらすかを知るだろう。これは人間・中村哲の物語であるだけではない。迷走する日本社会に活を入れる好著なのである。人間として何をなすか
上野 朱古書店主「ドクター・サーブ」こと、中村哲医師。パキスタン北西部のペシャワールを拠点とした医療活動や、『医者井戸を掘る』ほか多くの著書でも知られる人物だが、その中村医師がいまだ紛争絶えぬアフガンで、今度は井戸ではなく全長十三キロの灌漑用水路(第一期工事として)を切り拓くという難事業に挑んだ「我々の武器なき戦」の記録である。
なぜ医者が井戸や用水路を掘るのかについて中村医師の答えは根源的且つ明快だ。安全な飲み水が確保され、灌漑で農地が甦って食糧が自給できるようになれば病気は減る、と。そこには「○○国を民主化する」や「わが国の援助は感謝されている」といった「……してやる」式のおごりや押しつけは微塵もない。
その地には何が必要か、人々が真に求めるものはなにかを見極め、困難に臨んで「気力ヲ以テ見レバ竹槍」と、自ら矢面に立って実行する肝力溢れる人間の姿は、正しい意味での任侠道を見る思いだ。どこの世界に米軍ヘリの機銃弾の下や濁流寄せる中洲に立ち、ユンボで巨石を運んでいる医者があろうか。
当然の事ながら中村医師は治水工事の専門家ではなく、現地には機材や資材も不足している。あるのは二十余年にわたる活動で得た信頼と、その信頼の下に集まる人材である。その主体はなんといってもアフガン人自身。そうでなければ支援もひと時のブームにすぎないとの指摘には、耳の痛い向きも多かろう。
造っては崩れ、崩れては補強しながら水路は伸びていく。工事の要衝に、筑後川・山田堰(せき)の知恵が活かされているのも嬉しい。人の苦労を面白いといっては申し訳ないが、読んでいる自分まで、シャベルのひとつも握っているような気にさせられたのも事実である。
工期四年、ついに命の水は貯水池に到達する。歓喜して水と戯れる子どもたちの群の中にドクター・サーブは何を探したか。これは読者のためにとっておこうと思う。「地の塩」を実践する人には頭を垂れるしかない。本書を貫くのは、「日本人として」ではなく「人間として」なすべきことは何か、なのだ。素人が治水工事6年半の記録
池田香代子翻訳家アフガニスタンで二十年以上医療に携わっている医師が、気候変動に伴う大旱魃に直面し、広大な土漠の一大灌漑事業に挑んだ。その六年半の記録である。開始は二〇〇一年九月。その翌月からこの国は、米国を襲った9.11テロへの「報復」として、攻撃にさらされることになる。
そんな戦争やいわゆる復興支援を含む国際政治を、著者は「虚構」と呼ぶ。そこには軽蔑と絶望、そして決意がこもっている。なぜなら、著者の前には、二千万国民の半数が生きるすべを失った現実が広がっているのだから。日本の振る舞いには気疎さが募るばかりだ。
巨大な暴れ川と過酷な気象を相手に、ずぶの素人が治水工事にあたる。資金は日本からの浄財のみ。機材も資材もごく限られている。著者は、出身地の九州各地を歩いて江戸時代の治水を研究し、現代アフガンにふさわしい技法を考案していく。現地が保全できない現代工法は採るべきではないとの考え方だ。非業の死を遂げた先人の多いこともさらりと書きしるす。水は諍(いさか)いの種だった。
著者も、治水を巡る対立の矢面に立つが、長年培った交渉術で味方を増やしていく。著者のまなざしには、石や土を相手の伝統的な技量をごく自然にもちあわせ、愚直なまでに信念を貫くアフガン農民への尊敬の念と、弱く愚かな人間への、ちっとやそっとでは断罪に走らない懐の深さとユーモアが感じられる。
「人を信ずるとは、いくぶん博打に似て」と達観する著者は、激高した老人に投げつけられる土埃にまみれながら、「おじちゃん、落ち着け! 話せばわかる」と声をかけるのだ。
去る者、終始離れぬ者。あるときは敵対し、またあるときは協力を惜しまぬ者。さまざまな人間たちのただなかに、著者は命がけで立っている。その姿は著者の祖父、玉井金五郎をほうふつとさせる。この名親分を小説「花と龍」に活写した火野葦平は著者の叔父。著者には、弱きを助けるという本来の任侠の血が流れている。
決壊また決壊、予期せぬ出水。重責を引き受けての難しい決断。過酷な労働。人はここまで捨て身になれるのか。土木工事の顛末を夢中で読んだのは初めてだ。旱魃に立ち向かう驚くべき行動力
養老孟司著者はもともと医師である。二度ほど、お目にかかったことがある。特別な人とは思えない。いわゆる偉丈夫ではない。
最初にお会いしたとき、なぜアフガニスタンに行ったのか、教えてくれた。モンシロチョウの起源が、あのあたりにあると考えたという。その問題を探りたかった。自然が好きな人なのである。
そのまま、診療所を開く破目になってしまった。診療所は繁盛したが、現地の事情を理解するにつけて、なんとかしなければと思うようになった。アフガン難民を、ほとんどの人は政治難民だと思っている。タリバンのせいじゃないか。それは違う。旱魃による難民なのである。二十五年間旱魃が続き、もはや耕作不能の畑が増えた。そのための難民が、ついに百万人の規模に達した。それを放置して、個々人の医療だけにかかわっているわけに行かない。
海抜四千メートルほどの山には、もはや万年雪はない。だから川も干上がる。しかし七千メートル級の山に発する流れは、いまも水を満々とたたえて流れてくる。そこから水を引けばいい。水を引くといっても、医者の自分がどうすればいいのか。
驚くべき人である。寄付で資金を集め、故郷の九州の堰(せき)を見て歩く。現代最先端の土木技術など、戦時下のアフガンで使えるはずもない。江戸時代の技術がいちばん参考になりましたよ、と笑う。必要とあらば、自分でブルトーザーを運転する。この用水路がついに完成し、数千町歩の畑に水が戻る。そのいきさつがこの一冊の書物になった。
叙述が面白いも、面白くないもない。ただひたすら感動する。よくやりましたね。そういうしかない。菊池寛の「青の洞門」(『恩讐の彼方に』)を思い出す。必要とあらば、それをする。義を見てせざるは勇なきなり、とまた古い言葉を思い出す。
だから書評もごちゃごちゃいいたくない。こういうことは、本来言葉ではない。いまは言葉の時代で、言葉を変えれば世界が変わる。皆がそう信じているらしい。教育基本法を変えれば、教育が変わる。憲法を変えれば、日本が変わる。法律もおまじないも、要するに言葉である。「おまじない」を信じる時代になった。
外務省は危険地域として、アフガンへの渡航を控えるようにという。著者はアフガンに行きませんか、と私を誘う。危険どころじゃない、現地の人が守ってくれますよ。そりゃそうだろうと思う。唯一の危険は、用水路現場を米軍機が機銃掃射することである。アフガンでの戦費はすでに三百億ドルに達する。その費用を民生用に当てたら、アフガンにはとうに平和が戻っている。米国に擁立されているカルザイ大統領ですら、そう述べた。著者はそう書く。
国際貢献という言葉を聞くたびに、なにか気恥ずかしい思いがあった。その理由がわかった。国際貢献と言葉でいうときに、ここまでやる意欲と行動力の裏づけがあるか。国を代表する政治家と官僚に、とくにそう思っていただきたい。それが国家の品格を生む。
同時に思う。やろうと思えば、ここまでできる。なぜ自分はやらないのか。やっぱり死ぬまで、自分のできることを、もっとやらねばなるまい。この本は人をそう鼓舞する。若い人に読んでもらいたい。いや、できるだけ大勢の人に読んで欲しい。切にそう思う。「国際協力」在り方示す
佐高信評論家「外国人によってアフガニスタンが荒らされた」という思いは、官民を問わず、党派を超えてアフガニスタンに広がっているという。
そんな中で、井戸を掘り、用水路を拓く著者の試みは例外的に支持を受けている。それはなぜなのか? まさにいま問題になっているテロ対策特別措置法が国会で審議されていた時、参考人として招かれた著者は「現地の対日感情は非常にいいのに、自衛隊が派遣されると、これまで築いた信頼関係が崩れる」と強調し、自衛隊派遣は有害無益で、飢餓状態の解消こそが最大の課題だと訴えた。
しかし、この発言に議場は騒然となり、司会役の自民党の衆院議員は取り消しを要求する始末だった。時計の針を六年前の著者の発言時点に戻せば日本はどこでまちがったかが明らかになる。
その意味でも、この本は実に「タイムリー」な本である。
自衛隊派遣は著者たちのようなNGOの活動を危険に陥れるだけであり、まさに「有害無益」なのだ。「給油活動」なるものもその延長線上でしかとらえられないことは言うまでもない。
評者は著者を〝歩く日本国憲法〟と言っているが、平和憲法の下でこそ「どんな山奥に行っても、日本人であることは一つの安全保障であった」という著者の指摘は成り立つのである。
喜ばれないものを派遣して、喜ばれているものを危うくすることが「国際協力」であるはずがない。医師である著者が「百の診療所よりも一本の用水路」を合言葉に現地で奮闘する姿は、これこそが国境を越えた協力の姿だということを示す。
一つ一つ地に着いた言葉でつづられる「報告」に読者は粛然とさせられると思うが、著者が病気で二男を失う場面には、思わず、神はどうしてそんな試練を著者に与えるのかと叫ばずにはいられなかった。幼い子を亡くして著者は、空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちがいっそう分かるようになったという。先ずパンと水を確保せよ!
吉村慎太郎政情不安と厳しい自然環境で知られ、日本では省みられることの少なかったアフガニスタンの大地に、誰が用水路建設計画を思いつくだろう。いや、思いついたとしてもその実行と完成までに多くの障害が立ちはだかることは容易に想像できる。しかし、この計画を実現したのが、1984年以来特にアフガン難民救済の医療事業を行ってきた中村哲医師率いる「ペシャワール会」である。
何故、医師が治水事業に従事したのか? との素朴な疑問が湧くかもしれない。「飢餓と渇水の前に医療人は無力で、辛い思いをする。清潔な飲料水と十分な農業生産があれば、病の多くは防ぎ得るものであった」とは、こうした疑問を直ちに解消してくれる。著者とペシャワール会スタッフたちは現地アフガン人を含めて、「百の診療所より一本の用水路を!」を合言葉に立ち上がった。本書は、主にアフガニスタン東部クナール川を利用した用水路計画工事が着工される2001年9月から、第一期工事(マルワリード用水路、総距離一三キロメートル)が終わる2007年4月までの約5年半に及ぶ活動記録である。
この計画の開始はもちろん、「米国同時多発テロ」事件と重なる。アフガニスタンは、米国ブッシュ政権によりその実行犯と目された「アル・カイーダ」と緊密な関係を持つタリバーン政権支配の国として、その一ヵ月後に激しい空爆に曝された。日本を含め、国際的な「反テロ戦争」の大合唱とその後の戦争状態や不安定な政治情勢が続く中、しかしこの計画は進められた。障害はそれだけに止まらない。素人集団による土木技術の限界、約10億円にも達する工事資金調達の難しさ、襲い来る洪水、土石流、地盤沈下や旱魃といった自然の猛威、「復興支援ラッシュ」による物価高騰、工事や土地所有をめぐる現地人との争いなども、計画推進を阻んだ。どれひとつ取っても、決して解決は容易ではない。
この難工事も「誰もやりたがらぬことを為せ」との基本方針に加え、「アフガン問題は先ずパンと水の問題である」との現実認識や政治的中立の堅持、それまでに一五〇〇本もの井戸を掘ったことに見られる著者の指導力と協力者のエネルギッシュな活動、現地人との粘り強い対話を通じて漸く完成を見た。それだけなら、異国での苦労話に過ぎないが、現実の不条理や虚飾を目の当たりにした著者の言葉は、各々異なる文脈で語られながら、「錯覚」に陥った世界の実態を鋭く衝いている。「平和とは決して人間同士だけの問題ではなく、自然との関わり方に深く依拠している」、「『デモクラシー』とはこの程度のもので、所詮、コップの中の嵐なのだ」、「『ピンポイント攻撃』の実態は、無差別爆撃であった」など。
今から七〇年前に同じアフガニスタンで農業指導に奔走した尾崎三雄(『日本人が見た‘30年代のアフガン』石風社)は著者の先例となる日本人だ。さらに医療活動の傍ら、カメラを手に発展途上国六〇ヵ国以上を旅した山本敏晴『アフガニスタンに住む彼女からあなたへ──望まれる国際協力の形』(白水社)も現実と葛藤する真摯な日本人の基本姿勢を教えてくれる。- 377頁 四六判上製
- 978-4-88344-155-6
- 定価1890円[本体1800円]
- 2007/11発行
- アフガニスタンの大地とともに
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「現地に行かなければ何も始まらない」
アフガニスタンの農業復興を夢みながら、08年8月、志半ばで凶弾に斃れた1青年の遺した深き心。彼と行動を共にした日本人ワーカーによる追悼文と多数の写真で綴る遺稿・追悼集【書評】〝菜の花畑の笑顔〟が広がる世界へ
古居みずえジャーナリスト「アフガニスタンを元の緑豊かな国に戻したい。子どもたちが将来食べ物に不自由しないようにしたい」。そう志した日本の若者、伊藤和也さんが、武装グループに殺された事件はまだ記憶に新しい。
伊藤さんの参加していたペシャワール会は中村哲医師(現地代表)を中心にアフガニスタンの村々で水源確保事業のための井戸掘削作業など、長年地元に根付いて支援活動をしているNGOの団体だ。
本書は伊藤さんの書き残した会報と会の仲間たちのメッセージで構成され、彼のひたむきな姿が伝わってくる。伊藤さんは二〇〇三年、会の活動に参加し、五年間アフガニスタンの大地で働いてきた。私自身、パレスチナという所へ二十数年通い続けている。NGOとジャーナリストという違いはあるが、いずれも現地の人たちとの信頼関係がなければ成り立たない仕事だ。
しかも伊藤さんたちの仕事は、人々の生活に直接、関係するだけにもっと厳しい現実があったと思う。そんな中で「僕に何かあったら、アフガニスタンにこの身を埋めてくれ」とご家族にも話すほどの志を持ち、活動を続けていた伊藤さんが、三十一歳の若さで凶弾に倒れたことは無念としかいいようがない。
救われるのは仲間の人たちの「伊藤さんが描いていた未来をあきらめないこと、伊藤さんが(写真に)残した菜の花畑の女の子のような笑顔が広がる世界を作っていく努力を続けること」という言葉だ。
伊藤さんが危険で、地道な仕事を続けることができたのは、何よりもアフガニスタンが好きで、アフガニスタンの人々、特に子どもたちを愛していたからにほかならないと思う。彼の生き方は、国際支援とは本来どうあるべきか、日本にいる私たちはどう生きるべきかということをあらためて考えさせてくれる。農業復興にかけた一生を凝縮
鎌田 慧ルポライターアフガニスタンで誘拐され、殺害された若きNGOスタッフの遺稿と追悼文を集めた一冊。
伊藤和也さんは、三十一歳で無念の死を遂げたのだが、中学生当時すでに「将来農業関係の仕事をしたい」と書いていた。その志を戦乱で疲弊したアフガニスタンの農業復興にかけた、短い、しかし充実した一生がこの本に凝縮されてある。
彼の死が報じられたあと、彼が撮ったアフガンの子どもたちの笑顔が新聞に掲載されていた。そのまっすぐな、信頼しきった眼差しをみて、わたしは彼の仕事が、アフガンの大地に根付いているのを感じさせられた。
それらの写真が、この本のカラーグラビアになっていて、伊藤さんが荒れ地に育てた、豊かな実りを確認できる。
「子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になればと考えています」
この控えめな言葉は、彼がNGOペシャワール会に参加したときの志望動機だった。その中断させられた夢をささえるかのような、彼とともに働いたひとたちの悲しみと痛みのこもった文章がこころを打つ。
世界のあっちこっちで、自己犠牲的に働いている伊藤さんのような若いスタッフと、わたしは旅先で出会って、心強い思いをしてきた。そのなかでも彼がユニークなのは、農業という専門技術で、ひとつの国の復興に役立ってきたことである。
たとえば、収穫量の多い日本米の栽培を成功させ、その脱穀のために図面を見ながら「千歯こき」を試作し、現地の人たちの労力を軽減させた。作物を植え、育てるというたしかな営みが、彼の死後もアフガンの大地に残され、その遺志が子どもたちに受け継がれる。
息子の不慮の死を受け入れている両親の文章もいい。父親は「アフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません」と書いている。- 263頁 A5判並製
- 978-4-88344-172-3
- 定価1575円[本体1500円]
- 2009/04/10発行
(66件中) 61〜66件目


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