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眼からウロコのノンフィクション
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われら雑草家族
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われら雑草家族

大学を中退して徒手空拳で始めた農業と平飼いの養鶏。家族五人の悪戦苦闘の日々は、格差社会もなんのその。火事にも、台風にも、世間にも負けず、大地に生きる雑草家族の日々を綴る。

書評

考えさせられる幸せの基準

松垣 透
編集委員

 最近、幸せの気分について考えることがある。格差社会だの、派遣切りといった言葉が溢れ、正しい自身の立ち位置を見失いかけているのではないかと思う。そうしたときにこの本に出会った。
 そのタイトルの「雑草」という言葉にまずひかれて、手にとって読み始めた。内容は本の装丁通り武骨で、何気ない日々の生活を書いているのだが、これがいいのだ。鶏を飼い、野菜を作るという素人農法で、「ロビンソンの日々」の毎日。自分たちの食べるものをつくり、採取し、拾い、貰う。現金収入は基本的には卵を売ることで得るが、それはごくわずかな金額でしかない。周囲からは綱渡りの極貧生活と見られていたかもしれない、と書く。その通りだろう。
「世間体などを一切気にしなければなんとかなるものだ」と、小屋のような家まで建てた。そうした生活を文章で表現している。自身のことを書くときの素直な表現もいい。素直に反省もしているのもかわいい。子供たちとの会話もいい。子供たちとの接し方もいい。なかでも妻の素直な文章がいい。手作りの家を台風に飛ばされながら、そのトタン屋根を修理する様子など、目に浮かんでくる。ユーモアもあるから、ただ苦しくて悲惨な生活には見えない。餅をネズミに持っていかれ、それを見つけて取り返すくだりは笑った。
 家族についても考えさせられる。子供たちが成長して、自分の将来の進む道を決めるときに、その「教育」が正しかったこと、両親の教えをきちんと理解していたことが分かる。それぞれの進む道はそれぞれでしっかりと選んでいる。
 幸せの基準について考えさせられたのは、何もないのにここでは豊かなのだ。お金ではないことは分かっていても、そのことにこの本を前に、厳しく気付かされる。今の世のなか、何が幸せで、何が必要で、何がいらないのか。この本ではそんなことを考えさせられ、自分の将来を見つめ直すきっかけにもなった。

  • 230頁 四六判並製
  • 978-4-88344-169-3
  • 定価:本体価格1600円+税
  • 2008/11/10発行
笑う門にはチンドン屋 安達ひでや ちんどん チンドン お笑い 安達 大道芸 イカ天 バンド CD ロック
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笑う門(かど)にはチンドン屋
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笑う門(かど)にはチンドン屋

チンドン屋定番曲収録CDつき!


「チンドン屋が天職でございます」。親も呆れる漫談小僧、ロックにかぶれ、保証もかぶって日銭稼ぎに始めた大道芸の路上から、すべては始まった──。あの「イカ天」が生んだけ稀代のチンドン・バカが綴る、因果のはての極楽をご覧あれ。

書評

ロックから転身した著者が綴るチンドン業界の今と未来

松村 洋
評論家

 昨年9月、JR総武線亀戸駅前で、久しぶりにチンドン屋さんを見かけた。お決まりの派手な着物にカツラと厚化粧。だが、チンドン太鼓にゴロスと呼ばれる大太鼓の2人だけで、管楽器演奏をカセットテープで流していた。メンバー不足は、やはり寂しかった。その後、チンドン屋さんには遭遇していない。
 昭和30年代を境に、チンドン業界は衰退の一途をたどってきた。この時代遅れの街頭宣伝業は早晩消滅するはずだ。それが、一般的な見方だろう。だが、本当にそうか? ひょっとしたらチンドン屋はしぶとく生きのびるかもしれないぞ。そう思わせてくれるのが本書である。
 著者は1964年生まれ。彼が福岡市で「アダチ宣伝社」を旗揚げし、チンドン屋の道を歩み始めたのは94年、30歳のときだった。同社のスタッフは現在、アルバイトも含めて総勢15人ほどになり、九州各地と山口県を中心に、街回りの宣伝業務のほか、さまざまなお祭り、イベントなどで活躍している。
 ところが、熊本出身の著者は、子どものころ、チンドン屋を実際に見たことがなかったのだそうだ。音楽にのめり込んだ彼は、大学を中退して博多でロック・バンドを結成した。そのバンドは、当時の人気テレビ番組「イカ天」(「イカすバンド天国」)にも出演し、なかなか人気があったという。
 その後、彼はラジオ番組のパーソナリティーに抜擢されたり、大道芸で投げ銭を稼いだり、さまざまな仕事をしたが、あるときチンドン屋の真似事をした。これが性に合っていたらしい。今では「チンドン屋が好きで、やめたくてもやめられない」と彼は書いている。
 だが、もともと音楽畑の人だから、たとえばアコーディオンの話の中に、テックスメックス(テキサス〜メキシコ系音楽)やザディコ(米ルイジアナ州の黒人音楽)なんて、マニアックな音楽の名がポンポン飛び出す。こんな人、旧世代のチンドン屋さんには絶対いないはずだ。
 じつは80年代前半に、ジャズ界からチンドン界に入った若者がいた。サックス奏者の篠田昌巳氏(92年没、享年34)である。
 同じころ関西では、立命館大学「ちんどん屋研究会」を作った林幸治郎氏が大阪の「青空宣伝社」に入り、やがて独立して「ちんどん通信社」(現「東西屋」)を起こした。ここらが、いわばニューウェイブ・チンドンの出発点で、著者は約10年遅れで彼らを追ったわけだ。
 本書には、著者がチンドン屋になった経緯、仕事のエピソード、大先輩の親方たちや後輩の話、チンドン屋の歴史、「全日本チンドンコンクール」の様子などが、素直な筆致で楽しく綴られている。チンドンやイベントの出し物を工夫する著者の柔らかな発想が面白い。
 ロックからチンドンに転身した著者は、チンドン屋を内側と外側の両方から、バランスよく見ることができる。チンドン屋の優れた知恵と技術を受け継ぎながら、広い視野からチンドン屋をとらえ直す。そうしたニューウェイブ・チンドンの発想が、よくわかる本である。
 新しい若手チンドン屋の人数は、まだ決して多くない。だが、チンドン業界の未来を担うのは、この人たちだ。ホリエモンに言われるまでもなく、これからはインターネットがますます生活の中に浸透していく。だが、そうなればなるほど、かえって生身の人間同士が直接出会うコミュニケーションもまた求められるかもしれない。とすれば、まさに「手の届くところにお客さんの喜怒哀楽がある」チンドン屋の出番ではないか。
 版元は確かな本作りで信頼できる福岡の出版社で、本書はチンドン演奏のCDが付いてこの定価。お買い得である。

その業界の姿と魅力の秘密を、自らの体験をもとに興味深く紹介していく

吉村明彦
著述家

『広辞苑』の「ちんどん屋」の項には「人目につきやすい服装をし、太鼓・三味線・鉦(かね)・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告・宣伝をする人。関西では〈東西屋〉〈広目(ひろめ)屋〉という」という具体的な解説がある。いっぽう「屋」の項には「その職業の家またはその人を表す語」と同時に「あなどりやからかいの気持ちをこめて人を呼ぶ語」の意味も並ぶ。
 文筆業ならば職業の表記には注意をはらわねばならない。なるべく「〜業」と表記してきたつもりだが、幼いときから呼び慣れてきたチンドン屋さんなど、頭をかかえる場合もある。街頭広告業ではどこか威圧的で、わくわくし、ほのぼのとするようなニュアンスが伝わらない。
『笑う門にはチンドン屋』を手に取ってみると、冒頭の「ボク、チンドン屋です。」という章のなかに早速「チンドン屋は放送禁止用語か?」という見出しがたっていた。私が気にしていることが書いてあると思って、読み進めていった。ここでおわかりのように著者はチンドン屋業を営んでいる。以前に、放送業界にいたため放送コードに対して敏感でもある。著者がテレビやラジオに出演すると、かならず「放送でチンドン屋と紹介してもよろしのですか」「別の言い方はないですか」などと懸念してきかれるという。そんなとき「チンドン屋の僕がチンドン屋と呼んでくれっていってるんだからいいでしょう」と答える。そして「チンドン屋を放送禁止用語だと考える輩は、結局のところどこかでチンドン屋を見下しているのだ」とあった。胸のつかえがとれたものの、そのとおりだろうと思った。
 チンドン屋は、軍国主義が萌芽した明治時代の軍楽隊の退職者たちが、運動会などで楽隊として演奏し、副収入として町回りの宣伝仕事を始めたことが嚆矢だとある。また、昭和6年頃、映画産業が無声映画からトーキーに変わっていくなか、映画館で演奏していた楽士が職を失ってチンドン屋に流れていったという背景もある。つまり、一般社会では、落ちぶれた仕事の象徴でもあったのだ。
 音楽社会でも同様だろう。たぶん「ちん」というのは仏壇に置かれた鈴(りん)の音の連想、「どん」のほうは唐突なやかましい音ではないかと考える。神聖な音と不快な音が重なるわけだから、よけいに不謹慎な騒音を強調するのが「ちんどん」という擬声語なのだろう。だから「ちんどん屋」とは、演奏者への揶揄にみちた表現でもある。
 だが、21世紀の現在ではどうか。1964年生まれで、幼少時から「地球の上に朝がくる」のあきれたぼういずと、ハナ肇とクレイジーキャッツが大好きだったという著者は、1980年代後半の青春期にはロックバンドを結成し、あの「イカ天(平成名物テレビ・イカすバンド天国)」で3週連続人気投票1位に輝いた過去をもつ。30歳の誕生日を転機にチンドン屋となり、現在、大活躍中。こうして顛末が本書に綴られる。
 この業界の若手には著者のように、ロックやジャズの出身者が多いという。はじめ一様に抵抗を示すものの、なぜだか、すぐに口上や踊りやビラ配りという作業に熱心になり、やがて仕事にのめりこんでいく。ロックやジャズの志望者にとっては、おそろしい話かもしれないが、いったいチンドン屋のどこに魅力があるのか。「もっともチンドン屋が力を発揮するのは路上であり、もっとも厳しく、やりがいがあるのもまた路上である」。音楽や芝居など、芸能の原点を感じさせる力強い言葉だと思う。チンドン屋は21世紀の花形職業であり、学ぶところが多いかがよくわかることと思う。
 付録の「チンドン・グレイテスト・ヒッツ!」という定番曲集を聴いてみる。楽しく侘しいのは予想どおりだが、録音もよく、まるでニューオリンズで発生したジャズのようで、録音・発表に対する自信と誇りのほどがよくうかがえる。
 そういえば、その広域な音楽と人間性でいまや誰からも信奉を得ている渡辺貞夫を思い出す。ナベサダが宇都宮工業高校時代、昔チンドン屋をやっていた駄菓子屋の親父にクラリネットの弟子入りしたのは、ジャズ・ファンの間ではよく知られた逸話だった。

  • 246頁 四六判並製
  • 4-88344-117-2
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2005/02発行
わが内なる樺太 工藤信彦 外地であり内地であった「植民地」をめぐって 樺太 国境 ソ連 石風社 工藤 信彦 詩人 歴史 サハリン 豊原 ロシア 植民 北海道 外地 内地 朝鮮 国家 北方 領土
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わが内なる樺太
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わが内なる樺太

十四歳で樺太から疎開した少年の魂が、樺太四十年の歴史を通して「国家」を問う。1945年8月9日、ソ連軍樺太に侵攻、8月15日の後も戦闘と空爆は継続、幾多の民衆が犠牲となった。──忘れられた樺太の四十年が詩人の眼を通して綴られた──

書評

樺太にかかる歴史の霧をあざやかに晴らす

テッサ・モーリス=スズキ
豪州国立大学教授(翻訳・大川正彦)

 樺太は「日本の忘れられた植民地」と言ってよい。過去の植民地の歴史への関心の高まりがあるにもかかわらず、いまだに、植民地樺太の歴史については、ほんの一握りの学術研究しかない。そればかりか、著者・工藤信彦が本書で指摘するように、『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻(一九九二年刊)のような仕事でさえ、この歴史をほとんど黙殺している。
 このように長きにわたる当惑せざるをえない黙殺という文脈のなかでは、工藤の『わが内なる樺太』の刊行はとりわけ喜ばしい。戦前・戦中に樺太に生まれ育った著者は、教育と日本文学の著述に人生を費やし、教師としての身を退いたのち、日本の歴史・記憶・文化における樺太の在り処に関心をむけた。本書に収められたエッセイ群をとおして、樺太の植民史にかかわる著者の丹念な研究と、工藤自身の個人的な記憶、そして植民地樺太における教育生活・文学生活におけるひときわ優れた人物である父の記憶とがひとつに結びあわされる。
 ひょっとすると、いま述べた植民地という語には引用符が付されるべきかもしれない。それというのも、本書の中心テーマは日本の植民史における樺太の奇妙で両義的な位置そのものでもあるのだから。樺太は日本の唯一の真の「入植者植民地」であった。ここでは、「内地」からの移民の数が、先住民や、日露戦争での日本の勝利の後に残った数少ないロシア人の数をはるかに上回っていた。したがって、帝国秩序における樺太の在り処は、朝鮮や台湾といった他の主要な植民地の場合とは異なっていた。工藤が強調するように、樺太の日本人入植居留民たちは自分たちが植民地で生活していけるとはけっしてみなさず、むしろ日本の他地域から北海道(これもまた同様に、「植民地化される」と同時に「植民地化する」ものとみてよい島である)に移り住んだひとたちと類似した地位をもつと考えていた。
 樺太の場合、この地位は次の事実によってことさらに混乱させられる。すなわち、日本が支配した樺太の南部は、公式には三十年のあいだ「外地」として遇されていたが、一九四三年には、拓務省から内務省に移管され、こうして公式には「内地」の一部になった、という事実である。このように配置替えがあったにもかかわらず、日本はアジア太平洋戦争の終結時にポツダム宣言を受諾したとき、樺太は侵攻するソビエト軍に対して放棄された。今日でさえ、日本の検定教科書や公式の出版物では、この島は樺太と名づけられ、北緯五十度の線に沿って国境が引かれ分断されている。とはいえ、他の争点が浮かぶ実際上では、「ロシア・サハリン」と認定されているようである。つまり、『わが内なる樺太』があざやかに示すように、樺太は、日本の植民史の重要な局面を(今日ですら)包みこんでいる、両義性と忘却という奇妙で、公式に作られた濃霧のもっとも鮮明な具体例となっている。
 工藤信彦によるこの本を繙くなら、樺太史にかかわり文書史資料にもとづいた研究と、工藤個人とその家族にかかわる個々具体的な記憶とが織り込まれていることで、そのような濃霧は消え去り、この霧がかくも長きにわたって覆ってきた魅力あふれる歴史が明らかにされるだろう。『わが内なる樺太』は樺太史にかかわる数少ない既存の学術研究を綿密に分析しているばかりではない。植民地樺太の創出、樺太の教育システムと文化制度の展開、アジア太平洋戦争での日本の敗北の後に同島から大量に帰還した入植者たちに関する豊富な情報を提供している。
 しかし、本書はたんなる歴史物語りをはるかに越えるものでもある。熱情と詩情あふれる感受力によって綴られ、なんといっても、自らが探査する歴史にによって全実存そのものが形づくられてきた人物の手になるものである。『わが内なる樺太』は、国家・国民、植民地主義、アイデンティティということの意味への洞察に充ち溢れている。読者が本書から息吹を受けとり、戦前・戦中の樺太という目を瞠るけれども、あまりに長く無視されてきた物語を探究されるよう、評者はつよく希望する。

国境 忘れられた「存在」

岩下明裕
北大教授・ユーラシア国境政治

 国境とは何か。本来、それは国家の権力が物理的に及ぶ空間の境界(ライン)であると同時に、その空間に暮らす人々が心のなかで一体感を共有する認識の境界でもある。
 しかし、現実には物理的なラインとこの認識上のラインは往々にして一致しない。それでも「領土問題」として国境をめぐる係争が顕在化している境界は、多数の国民に意識される。北方領土と竹島。例えば、政治化した境界をめぐるこのズレの問題は、係争の当事者からみれば、不十分に感じられるとしても、それは確かに「存在している」。
 国境をめぐる問題の真の所在は、その「存在」が認識されていないところにある、と評者は考える。国家が支配する権力空間のなかで、多くの国民に忘れ去られている境界に近い島嶼(とうしょ)。今では、与那国、対馬、小笠原など国境島嶼の存在がそれだ。その存在がメディアや国民の注目を浴びるのは、せいぜい、外国の「脅威」が強調されるシーンにおいてに過ぎない。国境地域の現実に普段は関心も興味ももたない人々の過剰な国境への想像力とロマンは、しばしば現地に暮らす人々を傷つける。
 この「内地」の人々の国境地域に対する無自覚ぶりを反転させた象徴的な事例が、樺太をめぐる問題といえる。工藤信彦は本書で、日本国家が喪失した領土、樺太の存在にかかわる議論を整理し、その意味を読者に突きつける。工藤によれば、「樺太」問題の真の悲しみとは、戦後にその物理的存在が喪失したことにあるのではない。ソ連との間に北方領土問題を抱えるがゆえに、日本国は樺太の喪失を追認することができず、存在はあえて「空白」とされ続けた。そして今日、「空白」としての存在もまた忘却の彼方にある。
「存在」耐えられない軽さ。「平穏」な国家にとって、国境問題とは重荷でしかないのだろう。

  • 四六判上製・311頁
  • 978-4-88344-170-9
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/11/20発行
ローン・ハート・マウンテン ハート・マウンテン 日系人 強制 収容所 エステル 石郷 古川暢朗 アカデミー賞 待ちわびる日々
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ローン・ハート・マウンテン
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ローン・ハート・マウンテン

「パール・ハーバー」に対する報復として、日系人11万人が強制収容所に抑留された。収容から50年、アメリカを内部から静かに告発する本書は、紆余曲折を経て、日本と日本人にとっても両刃の剣として甦る。──もう一つのアメリカ。アカデミー賞受賞作品「待ちわびる日々」原作。

書評

アメリカの収容所に入れられた日本人たち

「朝日新聞」天声人語

 さきの大戦中に、米国は、日本人の血が流れているものを強制収容所に入れた。そして一昨年、それについて大統領が謝罪し、補償を始めた。そのことは、広く知られている。
 あまり知られていないことだが、収容所に入った白人の米国人女性が、その生活を何百枚もの絵に描き詳細な文につづっていた。日系二世、アーサー・シゲハル・石郷さんの妻エステルさんである。その絵と文をまとめた本が訳された。古川暢朗訳『ローン・ハート・マウンテン』だ。
 エステルさんは、夫とともに収容所に赴いた。最初はカリフォルニア州ポモナ、ついでワイオミング州ハート・マウンテン。三年四ヶ月に及ぶ、苦しい日夜である。一家族が一室の原則。水道も便所も食堂も離れた棟にある。老人や幼児には大変な生活だ。
 女性用便所の前にはドアがない。男性用には横の仕切りもない。男性の浴室はシャワーだけだ。人々は板を拾い集め、シャワーの下に湯船を組み立てる。絵が伝える情景が生々しい。音楽や演劇の好きな人々がショーを開く。特技を生かした勉強のクラスもできる。
 医療経験者が、にわか仕立ての病院もつくった。肩を寄せ、助け合う生活を線画が的確にとらえている。この政策は間違いだとエステルさんは確信していた。当時、一世には市民権を得るすべはなかった。「十年もすればみんな死んでしまう」と当局者が軽く言う。
 戦争が終わる。収容所を去る日、凍った土から亀を掘り出して荷物に入れる子がいた。石郷夫妻はカリフォルニア州にもどる。夫は五七年に、妻は九〇年に亡くなった。「敵意と危険の中に置かれた時、愛する者と一緒にいたいとだれでも思う」とエステルさんは言っていた。
「山々と海原が幾重にも横たわってお前たちを隔てようとも、この空のもと、大地の上では、人間は皆同じなのだ」と本は結ばれている。

収容生活通して描かれた人間への信頼感

石川 好
作家

 北米大陸への日本人移民上、最大の事件は、1941年12月に開始された日米戦争と、それによってもたらされた、日本人および日系米人の強制収容であろう。その強制収容より今年は数えて50年に当たり、去る2月全米の日系人は、大々的にこれを取り上げ、各地で記念(?)式典が催された。
 アメリカに生まれながら、正当な法的手続きを経ずして収容された日系米人と、祖国日本と生活しているアメリカが戦争に突入するという一大事に出合った日本人移民の物語は、古くは藤島泰輔が『忠誠登録』で、そして山崎豊子が『二つの祖国』で、また日本人写真家の宮武東洋の写真集でなど、これまでにも多く紹介されてきた。
 全米10カ所に収容された日本人および日系米人は合わせて11万強。この中には、同じ東洋人の顔をしていたのでは日本人と間違えられるおそれがある。それなら収容されていた方が安全だと、韓国人で日本語の話せる人も入っていたとの話もあるが、全ては日本人及び日系米人であると思われていた。
 ところが、ここに紹介する著書の作者エステル・石郷さんは、れっきとした白人女性である。主人が日系二世であったため、ラストネームが石郷だったにすぎない。1920年代当時カリフォルニア州では異人種間の結婚が州法で認められていなかったので、2世の石郷氏、著者エステルさんはメキシコのティワナにまで出かけ結婚している。そうしたことまでして結婚した二人であるがゆえにか、日米開戦となり、主人の石郷氏が強制収容された時、エステルさんも(アメリカ人女性である彼女はその必要はなかったのだが)収容所に同行する決意をする。かくして、ここに、白人女性で、唯一日系人強制収容所を体験することになる人間が現われることになる。
 これだけの話なら、歴史は彼女の存在を世に伝えることはなかったはずだが、エステルさんは絵描きであったため、アメリカ史上、まれなこの体験を、絵筆にして残しておいたのである。それが、今回、刊行された、本書である。
 エステルさん夫婦が収容されたのはワイオミング州のハートマウンテン収容所。夏は暑く、冬は寒い砂漠地帯で、エステルさんのスケッチは見事なまでに、ワイオミングの荒涼とした風景を描き、同時にそれに収容された人々の日常生活のディテールをも描き込んで、資料的な価値も十二分にある。収容された人々の生活をこれほどよく描いたものは他になく、著者の人間に対する信頼感が伝わってくる。告発の書である以上に、これは画家の作品集となっている。彼女をテーマにした映画で日系3世の監督スティーブン・岡崎がアカデミー賞を受賞したことは記憶に新しいだろう。

  • A4変型並製138頁
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1992/08/15発行
ラバウル日記

旧帝国陸軍の官僚制としぶとく闘いつづけた一予備役軍医の二千枚に及ぶ日記文学の傑作。──降伏時、総司令官から出された責任逃れの「極秘通達」に憤り、英訳して豪州軍に提出。裏切り者と指弾されながらも、同僚を死刑より救う。

  • 725頁 A5判上製
  • 4-88344-047-8
  • 定価:本体価格5800円+税
  • 1999/12/25発行
ヨーロッパを読む 阿部謹也 石風社 中世 阿部 謹也 ヨーロッパ 賤民 宇宙 世間 個人 デューラー 歴史 西洋史 個 中世史 社会学 近代 知識 智 史学 日常 ポリフォニック
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ヨーロッパを読む
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ヨーロッパを読む

「死者の社会史」から「世間論」まで、ヨーロッパにおける「近代の成立」を鋭く解明しながら、世間的日常と近代的個に分裂して生きる日本知識人の問題に迫る、阿部史学の刺激的エッセンス

書評

キリスト教的な宇宙観とのずれ

高橋義人
京都大学教授

 農村部の日本人は今日でも自分の家や村を小宇宙、その外側に拡がる山や海、さらにはそのなかに潜む霊や死を大宇宙と捉えている。そしてこの小宇宙と大宇宙とは同心円をなしていると信じている。本書によると興味深いことに、中世までのヨーロッパ人も同じような宇宙観を有していた。このような宇宙観の下では、時間は円環をなしていた。一年は春に始まり、夏、秋、冬を経てふたたび春に戻る。同じく人は死んで「あの世」に行ってからも輪廻転生によって「この世」に甦る。
 ところが中世になってキリスト教が次第に普及してくるとこうした普遍的な宇宙観、時間観は否定されるようになった。そこに賤民身分というものが成立するにいたったと著者は言う。
 大宇宙の要素である火とか水とか性などと関わる職業は本来は神聖な仕事であり、畏敬されこそすれ、賤視されることはありえなかった。彼らは小宇宙と大宇宙のいわば「間」に暮らしている人々だった。彼らが「賤民」となったのは、キリスト教が二つの宇宙の存在を否定したときから始まる。
 日本について同じ問題を論じた網野善彦氏の仕事とともに、本書は新しい見方を呈示してくれている。
 キリスト教はさらに直線的な時間観(救済史観)を導入した。歴史はアダムとエヴァに始まり、救世主イエス・キリストの登場を経て、ついには終焉(最後の審判)を迎えるのだ、と。しかしクリスチャンであるにもかかわらず、日本人と同じように今でも輪廻転生や円環的な時間を信じている西欧人はかなりいる。このように西欧人の心の深層に流れている古代的な宇宙観や時間観と、西欧人の建前をなすキリスト教的なそれとの間には明らかなずれがある。このずれを読むこと、それが「ヨーロッパを読む」ことなのだ。
 その他、死者の見方、ボスやデューラーの絵の解釈、交響曲の成立、娼婦論など話題は多岐にわたっている。
 今年、これほど興奮して読んだ本、教えられることの多かった本はない。

キリスト教が西欧を変えた根源の解説へ

芹沢俊介
評論家

 私にとってこの本の面白さは、キリスト教がヨーロッパに与えた根底的で巨大な影響について、日本との比較で明らかにしてみせてくれたことにある。ヨーロッパを読むことは同時に、日本を読むことなのである。
 ヨーロッパが現在のヨーロッパになったのは、キリスト教の浸透以後のことであり、それ以前のヨーロッパ、つまり十、十一世紀以前のヨーロッパは今の我々と同じであったというように阿部は述べている。つまり今の日本は一千年前のヨーロッパだと言うのである。阿部はそのことをさまざまな角度からとらえて行くのだが、この認識には目を洗われたような新鮮な驚きがあった。たとえばこんな箇所がある。見知らぬ者どうしが団体を組んだ場合、その会の幹事の決め方は日本ではまずくじ引きかジャンケンである。ヨーロッパでは決してそうはならない。必ず誰かが自発的に手をあげる。この違いについて阿部は、日本人は日常生活であらゆる機会にこのようなかたちで神判=神の意志(呪術、迷信などを含む)に頼るのだが、なぜこうなるかと言えば聖と俗、大宇宙と小宇宙、死後と現世といったものの境界があいまいなためだというふうに説明する。ヨーロッパにおいてこの境界を明確に分離したのがキリスト教であった。
 この点に関連してさらに二つの点で日本はキリスト教と無縁であった。日本には無償の贈与という考え方が現実に根付いていないという点が一つ。「タダより高いものはない」という互酬性の論理が生きて力をふるっている。ヨーロッパにおいてはその相互贈与の慣行のなかにキリスト教によって無償の贈与という観念が持ち込まれたとき、大きな転換点を迎えた。もう一つは個人という観念が現実に根付いていないという点で。
 第一のポイントについて阿部の主張はおおよそこうなる。それまでの習いでは、ヨーロッパにおいてもモノを贈られたら必ずモノでお返しをしなくてはならなかった。この互酬関係をキリスト教が壊した。教会はモノを贈られても現世では返さない。天国(死後の世界)で返すという回路をつけた。これは正確には相互贈与の慣習を壊したというよりも、その習慣が成立する時間・空間を現世から天国にまで拡張して、一元化したことを意味した──このことはさらに二つの宇宙、家を中心とした世界(世間)である小宇宙とその外に広がる大宇宙を、キリスト教が一元化したことをも告げていた──。また、天国(地獄)という観念を持ち込むことによって、現世の生の世界と死後の世界を分離した。現世では一度死んだら、死にきりという考え方はキリスト教が入ってきて以後に生まれた。そうしておいて死後の幸福は、生前の善行(教会への贈与である寄進を主とする)いかんにかかっているという考え方を生み出して行く。善行を積むことが天国への切符になるという発 想を断ち切るにはルターの登場を待たねばならなかった。ルターは人間が救われるか否かは生前の善行とはまるで関係がない、救いにかかわるのは信仰だけだと主張した。
 個人という観念についてはこう述べられている。日本人とヨーロッパ人の決定的に違う点は罪の意識の問題である。阿部は罪の意識が出てきたということと個人の形成とは深い関係にあること。具体的に言えば、キリスト教の権力によって、成人男女全員が罪の告解というものが強制されたこと、それによってヨーロッパの人は自分が自分(の罪)について語らざるを得なくなり、そかも告解された罪はその個人が自己の責任として引き受けなければならなくなったこと、このことが重要な契機になったと指摘している。キリスト教は告解制度が作られたときとほぼ並行して神判に関与するのをやめた。これに対して日本では罪の意識はいまも、世間という現世共同体との関係のなかでしか存在しないのである。日本人のほぼ全員が世間の中で生きているゆえに、社会を構成する個人としてよりも、自己決定を避け、世間に対して受け身にふるまうのである。なるほど、だからくじ引きをしたりジャンケンをしたりするのか!
 この本は一九八三年から十年間にわたる連続講演の記録で、読みながら私はしばしばキリスト教の根付かなかった国に生まれた幸と不幸をこもごも味わったのである。

人々の顔や気持が見える歴史学

樋口伸子
詩人

■庶民の心性にまで省察
 私達にとってヨーロッパとは何だろうか。日本の近代化はヨーロッパを手本として進められた。本、映画、芸術などから憧憬を交えて影響を受けた人も多い。駆け足旅行であれ、行けば随所で中世にできた建造物や町並みを見ることができる。〝まるで中世を旅するような〟という旅行者のうたい文句そのままに、西欧の歴史に触れた気になるが、あくまでも表面を撫でただけという思いが残る。それらの町にどんな生活があったのか知りたいと思う時に、「ヨーロッパを読む」は当時の人々の暮らしにまで分け入り西欧中世の深層に読者を伴い、そこから現在を逆に照らし出してくれる。
 第一章「死者の社会史」から「アルブレヒト・デューラーの自画像について」までの八章からなり、各章が一冊の本になる程に密度濃く多岐にわたる内容をもっている。どの章でも読者を引きつけるのは歴史学者としての著者の視点のせいである。その視線は為政者の歴史にでなく、常にその時代の庶民の暮らしや、人の心の動きに向けられており、時間・空間・モノという三つの枠の中での人と人との関係の歴史が説明される。
 不勉強にして私は人の心性にまで省察を及ばした歴史家をこれまで知らない。また歴史はあったことの叙述であり、なべて事例の列挙に終わる教科書歴史に魅力がないのは、歴史が想像を許さないせいだと思っていた。
■幾何学の証明にも似る
 氏は若い時にドイツ農村の史料を調べ、村の風景は目に浮かぶが、そこの道を歩く農民の顔と気持が見えてこないのに愕然としたという。当時の農民の顔や気持が見えるまでに歴史を掘り起こす。氏の魅力的で斬新な歴史研究の基本はここにあると思う。
 膨大で広範囲な記録史料が縦横に駆使され、資料は想像と発見を伴って読み取られていく。一見意表をつく仮説とみえることでも、細部まで論証する氏の明晰さは幾何学の命題を証明する鮮やかさに似ている。どこにどんな補助線を引くかが想像力の問題だ。
 この人の補助線は神話・伝説、伝承、グリム童話から文学作品にまで及ぶ。その方法が特に生彩を放つのは「笛吹き男は何故差別されたか 中世絵画にみる音の世界」の章である。ここで用いられるのは十五世紀の画家ヒエロニムス・ボスの絵である。
■中世世界に新しい視点
 前章の「中世賤民成立」では、迷信俗習が生きていた古ゲルマンの世界をキリスト教が一元化して取り込む過程で、差別された職業と差別を生む畏怖という心の動きが二つの宇宙という新しい視点から論じられた。その各論として差別された放浪音楽師をあげて、キリスト教が音楽をどう捉え器楽を排除したかが「最後の審判」、「音楽地獄」などの怪奇な絵から読み解かれる。またボスの皮肉な教会観も描かれている。
 ボスの細密で百鬼夜行的な地獄・天国の絵の中には、差別の発端となった人間狼、大宇宙と小宇宙、動物との関係、男女の性愛、これまで著者が中世世界を開けた際の鍵がびっしりと描かれていて刺激的である。
 「ヨーロッパ中世における男と女」の章では、牧師と姦通した女性を描いたホーソンの小説『緋文字』と、中世フランスの神学者アベラールとエロイーズの往復書簡集があげられる。ここにはキリスト教の説く聖性の規制に縛られず、欲望からの交わりも神聖な行為であるという、「愛の誇りのために生き」る女性がいた。著者はエロイーズに十二世紀ヨーロッパ社会のなかでようやく姿を現わした個人をみる。宗教をもたない私達が〈個〉を考える上で深い示唆にとむ章である。
■真摯で開かれた学究
 これはヨーロッパ礼賛の本でもないし、学会に囲い込まれた歴史書でもない。謎にみちた中世ヨーロッパ史から、私達が生きる世間論にまでわたる本書は福岡市の出版社・石風社で行われた著者の講演記録集である。
 つとに知られた一人の歴史学者が十余年にわたってほぼ毎年、目下研究中の初穂を百人内外の一般聴衆に披瀝する。公開講座は多いが、このような例は稀有なことだろう。石風社レクチャーのなりたちは人々の縁であるが、それが続いたのは阿部氏の真摯で開かれた学究の魅力のせいである。
阿部史学という言葉があるならこれまでのその流れが辿られる貴重な一冊といえよう。読者その河の支流で足を止めたり、また本流に戻ったりしつつ、ヨーロッパを遠く近く感じながらいま自分が生きる河口に導かれるのである。

  • 507頁 四六判上製
  • 4-88344-005-2
  • 定価:本体価格3500円+税
  • 1995/10/01発行
ヤップ島 ヤップ 放送局 乾杯 南島日記 ゆるゆる 石風社 渡辺考 重松清
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ヤップ放送局に乾杯!
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¥0円
ヤップ放送局に乾杯!

海外青年協力隊として太平洋の小さな島ヤップへ。日本の戦禍の残る島。だがヤップ式超スローライフへ誘われる。重松清氏推薦「飾ることのない喜怒哀楽に満ちた旅の記録は、狭苦しいニッポンで、せかせかした毎日を送っている僕たちに、とても大きなことを教えてくれているような気がする。」

  • 四六判並製272頁
  • 978-4-88344-148-8
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2007/08/01発行
明治博多往来図会 祝部至善画文集 祝部 至善 明治 博多 画 石風社 西日本文化協会 日野文雄
booktitle
明治博多往来図会
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¥0円
明治博多往来図会

驚嘆すべき記憶力と細密な画で再現される明治期の博多。往来で商う物売り達の声、町のざわめきの中、庶民の暮らしと風俗がいま、甦る。豪華本。

書評

「よい時代に生まれた幸せそのものだった」

服部幸雄
千葉大学名誉教授

 鉋屑(かんなくず)の三角帽子、中国服姿の飴屋がチータラチータラと紙ラッパを吹き立てて街へやってくる。手に手に錆包丁や古鍋を持った子どもたちが集まってくる。「チータラ飴」はお金で売らず、古金物と交換するのだった。
 不思議な魅力に富んだ画文集である。
 最初に色彩のある絵を見た。著者の絵に寄せた短いエッセイを読みながら、つくづく絵に見入った。次に、後にある少し長文のエッセイを読み、もう一度戻って前の絵を眺めた。おもしろい風俗、珍しい風俗、懐かしい風俗や生業が次々と現われて展開する。ここには明治という時代が生きている。人々が人間らしく、心豊かに、やさしく暮らしている。
 昭和十年代に名古屋で育った私は昔の博多の町をまるで知らない。それなのに、祝部至善の絵の世界は妙に親しく懐かしく思われる。
 祝部至善(一八八二─一九七四)は生粋の博多っ子である。明治・大正・昭和の三代にわたって博多の町を愛して生きた人だった。
 幼児から絵が好きで、野方一徳斎、太田一嘯、松岡映丘について学んだ。その彼が博多の風俗を描き始めたのは七十歳を越した昭和二十八年以後、九十二歳で亡くなるまで描き続けた。
 本書は明治時代の博多の風俗を描いた数々の絵と、それらに添えられたエッセイを集めて編集したものである。
 原画は東京国立博物館収蔵で昭和二十八年から三十年代にかけて制作されたものの全図と、雑誌「西日本文化」の創刊号(昭和三十七年)から百号(昭和四十九年)まで十余年にわたり、毎号の表紙を飾った絵の中から選んだものである。著者が幼少の頃に博多の町で見た光景を思い浮かべつつ、眼前の実景写生するように細密に描写している。人々の髪型、化粧、衣服、帯の結び方、持ち物などが実にていねいに描いてある。
 絵には、季節があり詩がある。いろんな人が登場する。門付けの芸人、曲独楽、覗き機関(からくり)、猿回しなど江戸東京をはじめ他の都市でも見かけたものが、博多でも行われていた。博多の街だけを往来した物売りもたくさんある。現代ではとても考えられない不思議な品物を売り歩く商人たちは、おもしろい触れ声を聞かせて、てくてくと歩いた。至善は「明治のよさ」に懐かしさを覚え、変わっていく街の様子、特有の行事、日用の道具、衣装や化粧、子供のあそび、暖かい人の情、博多言葉などを、絵と文でこまやかに描き出す。
 時間がゆっくりと流れている。時代の空気が匂うようだ。至善が言うとおり明治の日本は「いい時代」だったのに違いない。彼は「よい時代に生まれた幸せそのものだった」と、ふと感懐を洩らす。それが完全になくなった戦後十年を過ぎたころ、至善は記憶の中に生きている博多の街の風景を一つ一つ丹念に描き始めた。人々の記憶から忘れ去られるのを愛惜する心がある。時代は変わったのだ。私たちの考えはもはや「時代遅れ」なのだという老いの身の自覚もあり、諦めの気持ちもある。しかし、至善は描き続けた。
 絵にも文にも郷愁だけでなく、一抹の哀愁が漂う。とくに印象的な絵と文を一つだけあげるとすれば、「ごりょんさん」が毛布を引き回してまとった姿に寄せる至善の思い入れの深さである。この絵に限らず、彼が描いた女性たちはみなかわいらしく美しい。
 すべてに人間的だった明治。二十一世紀のいま、私は取り戻すことのできない、そして多分に美化された「明治のよさ」に憧れ、幻想を抱く。祝部至善が愛してやまなかったこの世界は、現代人に向かって何が本当に美しいのかを教えているともとれる。この本は、たくまずして不毛の現代を顧みる文明論的な内容を含んでいる点で、単に「昔はよかった」式に老人の郷愁を誘うばかりではなく、広い層の読者の共感を得ると思う。地方都市における明治風俗史の記録としての価値もある。
 巻末に、編者代表のフォトエッセイスト日野文雄による要を得た解説が付いている。

庶民の風俗、生き生きと

錦織亮介
北九州市立大教授・日本仏教美術史

 この度西日本文化協会より祝部至善氏の『明治博多往来図会』が刊行されました。東京国立博物館所蔵の51点の絵画と、雑誌「西日本文化」掲載の表紙画と解説を中心に編集されています。
 この本には明治・大正の博多の庶民の生活風景が生き生きと描かれています。人々の話し声、物売りのふれ声、街の喧騒さえ聞こえてくるようです。これらの市井の風俗は今はもう見ることができません。博多が近代都市になる過程で失われたものです。それだけに懐かしさにあふれています。

 祝部氏は、明治26(1883)年11歳のとき、博多の浮世絵師野方一得斎(のがたいっとくさい)について絵を学びはじめ、また同じ頃に矢田一嘯(やだいっしょう)にも油絵を学んでいます。しかし本格的に絵を学んだのは、櫛田神社社司の祝部家に入夫婚姻した後、大正7(1918)年36歳で上京して松岡映丘に師事してからです。同12(23)年関東大震災のため帰郷するまでの6年間、映丘のもとで新しい大和絵を学んでいます。
 博多に戻ってからは、家業の櫛田裁縫専門学校校長をつとめる傍ら、福岡県展などの地元の公募展への出陳のほか、新聞雑誌にも多くの挿絵を描くなど、作画活動を続けていました。
 今日では、祝部氏と言えば明治の風俗画を思い起こしますが、祝部氏が博多の古い風俗を描きはじめたのは70歳ごろ(昭和28〈53〉年ごろ)からと思われます。ただ、風俗画を描きはじめた動機については、はっきりとは述べていません。
 本書の編集者日野文雄氏は、地域差はあるが触れ売りや門付けの姿が街から消え始めたのが昭和28年から30年ごろであり、祝部氏にとっても明治が終りを遂げた時期ではなかったか。内なる明治の終焉を感じた時、明治を懐かしむだけではなく、明治の博多を記録しておかねばという決意から、71歳の翁は風俗画の筆を執ったのではないかと推測しています。これを裏付ける事実は、祝部氏が明治・大正博多風俗図を2セット描き、1セットは手元に置き(現在は福岡市博物館の所蔵)、もう1セットを昭和38(63)年に東京国立博物館に寄贈していることです。これは、自分が描いた風俗画が、確実に後世に伝えられることを意図したものと思われます。
 いま一つのきっかけは、鏑木清方が昭和23(48)年の第4回日展に出品した「朝夕安居(ちょうせきあんご)」図です。明治20年ごろの東京の下町風景を絵巻物風に描いたもので、失われ行く東京の下町風景が詩情豊かに描かれ、おおいに評判になった作品です。氏は画作の動機を「今私がしきりと画きたいもの、またかいておきたいものは、昭和なかばまで続いて来た市人のおだやかな暮らし、それはもう二度とめぐって来ないように思はれるのを心ゆくまで写しとどめたく願う心にほかならなかった」と述べています。また清方は、展覧会のための大画面の作品とは違った、卓上で眺めて楽しむ絵巻、画冊などの卓上芸術の支持者でもありました。
 祝部氏は、この清方の態度に共感するところが多く、博多版の風俗画制作を思い立つきっかけの一つも、この「朝夕安居」図にあったと私は考えています。祝部氏の風俗画は、作品の形式、画題、画風のすべてが、師の映丘より清方に、そしてこの図に近いことに驚きます。両者の違いは、清方が詩情を主にしたのに対し、祝部氏は風俗の正確な記録に重きを置き、各図に解説を付した点でしょう。

 祝部氏はこの風俗画を描き上げたあと、ありし日の福博の往還の様子をさらにこまかく「西日本文化」の表紙画に描きました。昭和37(62)年から氏が没する49(74)年まで、100号にわたっています。各号に付した解説文も興味深く、博多の庶民の暮らしが見事に回想され、活写されています。侍が曳馬の訓練と称してかき山の列に馬を乗り入れていた時代があったことなど、誰も知らなかったことでしょう。また画中の女性の装束、帯の結び方、髪形などの詳細な記述は、さすが裁縫学校長ならではの観察とおもわれます。
 祝部氏は、日本画のほかに、和裁はもちろん、博多おきあげ(押し絵)技術者、茶道南坊流会員、郷土研究会会員、弓道範士など多芸多忙の人でもありました。この出版が祝部氏の再評価につながればと願います。

明治の博多 日常を活写

松尾孝司
編集委員

 明治という時代の暮らし、往来のにぎわいが伝わってくる。
「あぶってかもは、よござっしょう」
 これはスズメダイを売りに歩く物売りのふれ声だ。「炙って咬んで食べる魚」という意味がある。博多の味「おきうと」売りは、
「おきうとワイ、とワイ、きうとワイ」
とやってきた。辻芸人、アメ売り、とうがらし売り……街は人と人との出会いの場だった。

時事を織り込み
 この秋、刊行された日本画家祝部至善さん(一八八二─一九七四年)の画文集「明治博多往来図会」には、江戸時代のなごりが残ったそんな明治の博多が描かれている。
 博多の井戸水は塩分が多いため、現在、福岡県庁のある千代松原の大井戸からくんで、たるに入れて、車力(大八車)に積まれて売られていた。街でバイオリンを弾く「艶歌師」の姿がモダンな時代の到来を告げる。人力車に乗って壮士芝居をPRする書生風の男性は、もしかしたら川上音二郎一座の役者かもしれない。結婚して初めて里帰りする花嫁の姿が初々しい。
 時事を題材にした絵もある。一八九四年、日清戦争・旅順港陥落を伝える、福岡日日新聞の号外を配る男。頭の鉢巻きに小さな国旗を挟み、腰には鈴。戦勝に高揚する時代の気分がよく伝わってくる。てんびん棒にかついで小包を配っている人や伝染病患者搬送の現場を伝える絵もある。
 祝部さんの視点は、ニュース感覚にあふれている。江戸の浮世絵師が博多にいたら、題材になったかもしれない庶民の生活の現場を鮮やかに描き出している。今の新聞ならば、さしずめ生活感を伝える「社会面」のような世界だろう。

風俗をリアルに
 祝部さんは、福岡市博多区の櫛田神社前にあった櫛田裁縫専攻学校の校長を務めた。祝部家は代々、櫛田神社の神職の家だったが、実家は中洲の中島町。この町からは独立美術協会で活躍した小島善三郎や「筑前名所図会」を描いた奥村玉蘭らが出ている。商人の町・博多から川を隔てたこの地域は文化の香りが強かった、と画文集の「解説」を書いた日野文雄さん(写真家)。
 町絵師野方一得斎に日本画を習い、博多人形師の指導に当たった矢田一嘯(いっしょう)に油絵を学んだ。上京後は、大和絵の松岡映丘に師事する傍ら、洋画彫刻塾でデッサンに励み、ヌードデッサンの画塾にも行った。この時代に基礎を築いたデッサン力が、細い筆の線で明治の風俗をリアルに描く素地となった。和洋を問わず絵を極めようとするおう盛な好奇心は図絵の豊かなバラエティーに直結しているだろう。
 収められたエッセー風の文章も、貴重な証言だ。
 たとえば七月の博多山笠。現在の追い山は、前を走る山笠がスタートしたあと、一定の時間を置いて後続の山笠が境内の「清道」の旗を目指してスタートする。ところが、明治二十三年までは、前を走る山笠が神社から東へ五百メートルほど離れた東長寺の前まで走ってからスタートを切っていた、と書き残している。「追いつけ追い越せ」と、むやみやたらと無理なスピード競争はしていなかったという記録である。

「わが町を残す」
 収録された絵は、一九五三年から十年足らずの間に描かれた彩色画が五十二点と、西日本文化協会の機関誌「西日本文化」の表紙のために描いたモノクロの作品約百点。
 五〇年代は、福岡大空襲後の焼け野原から少しずつ復興が進んでいた時代。が、老舗の商家がほとんど焼失し、博多の町には、板付米軍基地の兵の姿が目立った。日本社会全体が急速に欧米化していった時代でもあった。祝部さんにとっては、古里が消えてしまった。他人の町になってしまったのだ。
 絵には、「わが町・博多を残さねばならない」という強い決意がにじんでいる。遠い所へ去ってしまった「博多」を呼び戻そうという意地がひしひしと伝わってくる。祝部さんは、博多を語る会の会員としても博多人形師の小島与一さんらとともに「博多」を語り継ぐ活動を続けた。
 博多の町は、六六年の町界町名変更で、長い時間をかけて形成された地域コミュニティーが分断された。この本は、失われた博多を見つめることで、変わり続ける博多を問い直す機会を与えてくれる。

雑踏の声が聞こえてくる

矢野寛治
コピーライター

 戦後の団塊としては、いささか古いことにも知悉しているつもりでありしが、頁を繰る毎に、私の知識なんぞは、おととい来やがれの心境にさせられた。
 物心ついたころに、往来で目の当たりにしたのは、せいぜい虚無僧、富山の薬売り、傷痍軍人さん、あさりシジミ売り、竹ざお売り、たくあん売り、アイスボンボン売り、こうもり傘ナベ釜修繕屋、ポンポン菓子屋、山伏、豆腐屋、占い師、新聞少年、紙芝居屋のおじさん、正月の獅子舞い、ああそういえば時々新内流しくらいのもので、この図会を見ますと、いやはや明治の博多往来は、多種多様。
 旅順口陥落の号外配りは、鉢巻に小国旗を二本挿している。小包郵便配達の臀部は張って大きく、踏み切り番の乳飲み子を背負ったお母さんの乳房は胸からポロリと露わになっている。高校生は弊衣破帽、女専は紫袴、警察と兵隊の衣装は妙に立派。されども、最も興味を惹くのは行商人と物売り、門付けや庶民のいでたちである。いなせ有り、粋あり、概してみな粗衣だが、どことなくユーモラスで活気がある。祝部至善さんの絵を見ていると、明治の雑踏の音と声が聞こえてくる。

  • A4判上製175頁
  • 4-88344-102-4
  • 定価:本体価格5000円+税
  • 2003/09/15発行
ムツゴロウの遺言

防災と農地造成の旗印の下、世界有数の「生命の海」が危機に瀕している。死に行く干潟は何を警告しているのか。──海を殺す公共事業。その矛盾と欺瞞の干拓事業を検証する。

書評

いのちの思想をつなぎ戻せるか

米田綱路
図書新聞編集

「生態系の食物連鎖の中でしか生きられず、しかも生態系の頂点に立つ人間という生き物が生存できるかどうかは、地球とそこに生きている生物たちと共存する以外に方法はないことを知るべきだ。戦後の繁栄に目が眩み『自然を捨てた日本人』に未来はない」。
 長崎県諫早市に住み、昨年七月に亡くなられた「諫早干拓緊急救済本部」代表の山下弘文氏は、本紙一九九九年一月一日号への寄稿にこう記された。すでにその時点で、九七年四月一四日に行なわれた潮受け堤防一二〇〇メートル区間の閉め切りから、早くも二年近くが経過していた。山下氏はここで、乾燥し干上がった干潟の水辺で生き延びている生物たち、そのいのちの姿を伝えている。冬眠に入っている、前年に生まれた三センチ位のムツゴロウの幼魚。深い穴を穿って生き延びている、特産種のアリアケガニなどのカニ類。「こうした生き物たちを目にすると、そのしたたかさに感動するとともに、人間のあさはかさを見る思いがする」。山下氏はこう記していた。
 潮受け堤防の閉め切りに際して執り行われた「記念式典」では、長崎県知事や県議、諫早市長など一一人が、紅白の幕のなかで一斉にボタンを押し、鋼板二九三枚が次々に下ろされたという。ボタンが押されてから「閉め切り完了」まで、その間わずか四五秒。潮流を遮断するために落とされた鋼板は、あたかも「ギロチン」の如くに、干潟というかけがえのない生命の宇宙上に打ち落とされた。本書『ムツゴロウの遺言』によれば、水圧装置を作動させる一一個のボタンにはダミーも含まれていたという。著者はこう書いている。「死刑執行の際もだれのが決め手になったか分からなくするためにダミーが用意されるそうだが、潮受け堤防の仮閉め切りの場合も、形は死刑執行と似ていて責任逃れのように見えた」。
 わずか四五秒で「ギロチン」に閉め切られた水域の面積は、過去六〇〇年間に積み重ねられた干拓地の広さと同じになるという。著者は、この二つの時間の違いにさまざま問題が隠されている、と指摘する。人間が長い時間をかけ、少しずつ営々と広げてきた干拓地、それに対し一瞬にして自然の風景と生命のいとなみを激変させ、一挙に進められていく「干拓事業」。そこには人間と自然の関わり合いの、あまりに大きな位相の変化が浮き彫りになってはいないか。
 戦後初期に計画された食糧増産を目指す干拓事業が、国の減反政策や海外からの食糧輸入急増によってその目的の変更を余儀なくされ、また干潟を生業の場とする漁民の反対と抵抗で事業化が宙に浮くなかで、干拓の名目は「防災対策」「優良農地造成」へと掛け替えられた。つまりそれは「洪水や高潮から住民の暮らしを守り、収益性の高い農業を営む優良農地の確保を目指す」というものだ。しかし、名目と唱えられたお題目の変化とは裏腹に、この「事業」を通して変わらぬ人間のすがたが本書にはリアルに描き出されている。果たして、この干拓で得られるものはいったい何なのか。その「成果」は、住民のみならず、後の世を生きる世代に届くのか。そうした問いを増幅させながら、私はそこに、干拓事業のみならず、二〇世紀の人類が生み出してしまった取り返しようのない「倒錯」を映し見たのであった。
 干上がった土地に累々と転がる生命の亡骸、その凄惨な光景を象徴として、私たちが喪失したものは何か、本書はその意味を読む者に問うている。それはムツゴロウやカニ、貝などの生き物たちだけに止まらない。人類を生かしていたはずの「いのちの思想」もまた、そこで喪われたのだ。私は本書を読み、人類が自らの幸福を標榜して二〇世紀犯した「自然へのジェノサイド」、それが引き起こした果てしない喪失の前に、一瞬気が遠のく。人々の暮らしの利便と生活の向上を、自らもその内に抱かれているはずの自然に結びつけることに失敗し果てた二〇世紀の「倒錯」を、私たちはこの先、取り返せるのか。いのちの営みを切り刻んだその「倒錯の光景」を、私は干上がった干潟に累々と転がる生き物の亡骸と、その背景で進む「事業」の行く末に見ざるを得ないのである。
 干拓工事が始まり、潮受け堤防外側の漁場は激変した。いや、それ以前から、有明海の漁場は人間の身勝手さに抗するかの如く、変化し始めていたのだ。魚は死に、不漁が続き、漁民の暮らしは逼迫して、干拓事業の工事現場で働かなければならないという皮肉な構図がそこにはできた。しかし国の出先機関は、干拓工事と魚の死との「因果関係は不明」との態度を変えていない。さらには潮止め後も、大雨によって諫早市街が度重なる水害に見舞われた。「防災」という名目は、それではいったい何だったのか。それは「不測の事態」として処理される類のものか。
「防災」は新たな、自然のみならず人間の生命系をも蝕んでいく「人災」を生んだのだ。本書に記された、潮受け堤防のすぐ側の小長井町漁協の理事の言葉に、私は干潟とともに人間が何を喪ったかを聞く思いがした。「干拓事業の影響で人間関係も壊れてしまった。生活の形態が変わってしまった。干拓工事に行く方がいいみたいになり、組合員数もそちらが多く漁業で飯を食う人の力がなくなってきた。少数意見で動くわけにもいかない。漁を続けるか、迷っている」。
 諫早湾奥部の広大な干潟、それ自体が天然の「下水処理場」であったと著者は言う。そこにはゴカイや貝、カニ、それを餌にする渡り鳥たち、ムツゴロウなどの多くの生き物が、水質の浄化を助ける浄化槽を生み出していたのだ。だが、「ギロチン」によってこの天然の「下水処理場」は破壊された。閉め切られた堤防内部には下水道が流れ込み、生命は殺され水質が悪化していく。渡り鳥の飛来する干潟は、こうして潰されていった。動いた行政は水質浄化策に乗り出すが、天然の「下水処理場」である生命の宇宙、すなわち干潟を潰し、人口の水質浄化策のために巨費の税金を投入するという発想の転倒と、そこに立ち現れる「倒錯の光景」に、私は山下弘文氏のいう「人間のあさはかさ」の実態を感じないわけにはいかなかった。
 干拓事業については、諫早平野の農家などで推進論が根強いという。名目に掲げられた「防災対策」「優良農地造成」が必要だというのがその理由だ。干拓事業の見直しを求める自然保護運動に対し、行政は「一度決まったら、見直し中断は無理」との姿勢を崩さない。さらには、「地元のことによそ者が口出しするな」という意識の根強さを本書は伝えている。こうして、死にゆく干潟をよそに、地域利害が絡み人間関係の軋轢や住民の利害対立が続いていく。そして、生命系の破壊と「不測の事態」が打ち続いて、さらにはますます事業費が膨らみ、干拓という公共事業に依存する住民が増え、「地域振興」の旗印のもと自然環境保護の施策は抑制され、のちの世代に干潟という生命の豊饒さを語り継ごうとする取り組みは阻止される。住民には、経済的のみばかりではなく精神的にも、さらには生命的にさえ、負担、負荷が増し続けるのだ。
 去る八月二八日、農水相は干拓縮小と一部に干潟を「再生」させると発表した。しかし、人間の身勝手さをよそに、いったい自然の、そして人間の何が「再生」されるというのか。
「大切なのは住民の立場でいまの時代に何をなすべきかを考えることだ」。本書はそう問いかける。なぜ干拓地をつくるのか、つくることそれ自体が目的化していないか──。それは人類の、自然に内包された生命に対する想像力を試される問いである。それを問い切り、いのちの思想を日々の生活に繋ぎ戻すKとはできるか。これからの時代へ向けて、私たちを包む生命系を回復する未来が、そこにこそ賭けられているのである。

  • 四六半並製285頁
  • 4-88344-070-2
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 2001/05/01発行
水俣病事件と法 富樫貞夫 石風社 水俣 水俣病 公害 法律 証言 裁判 チッソ 熊本 熊本大学
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水俣病事件と法
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¥0円
水俣病事件と法

水俣病事件における企業・行政の犯罪に対して、安全性の考えに基づく新たな過失論で裁判理論を構築。工業化社会の帰結である未曾有の公害事件の法的責任を糾す。──水俣病事件と共に生きてきた一法律学者の二十五年におよぶ渾身の証言集。

書評

徹底した被害者の視点

原田正純
熊本大学医学部助教授

「最初の水俣訪問でもっとも深い印象を与えられたのは、植物人間の状態で入院中の松永久美子さんと、同じように重篤な胎児性患者である上村智子さんの無言の姿であった。二人の無残な生きざまに接して、はじめて水俣病の重い現実を見たという思いがした」
 最近出版された『水俣病事件と法』の中で、富樫貞夫さんは水俣病との出会いをこう述べている。それがその後の彼の行動を決定づけた。ここにも出会いを大切に、見たことによって責任を背負った学者がいる。
 四大公害裁判の中で水俣病事件ほど多種多様な裁判をしたものはない。損害賠償請求訴訟だけでも第一次、第二次、第三次と続き、さらに福岡、大阪、京都、東京地裁と地域的な拡がりをもみせた。原告は二千人を超えた。ほかに棄却取り消し、不作為違法確認、待たせ賃などの訴訟、水俣湾ヘドロ仮処分、救済仮処分など行政に対する訴訟や請求があり、さらにわが国初の公訴棄却となった川本事件や暴圧裁判など水俣病被害者が起訴された事件、チッソの元幹部が被告となった刑事事件など驚くほど多くの事件が法廷に持ち込まれた。
『水俣病事件と法』はその時々の裁判の争点や判決について富樫さんが加えた解説と批判の論文集である。最初の論文が一九六九年十一月、最新のものが九五年十月に書かれているから、実に二十六年間の考察の集積ということになる。
 論文ではあるが、患者支援の機関誌や新聞、一般の雑誌に掲載されたものが主であるので難解さはない。それでいて質は高い。これを読むと富樫さんが寄り添うように被害者の側に立ち、冷静だが熱情をもった眼差しで被害者を見つめているのを感じる。そして明確に被害者の側に立ってみると、司法が必ずしも被害者の側に立っているとは限らないことが見えてくる。
 そうした司法の判断に対し富樫さんは「裁判所に課せられた任務はこれまでの事件の経過、認定に必要な基礎的データが欠落した事情、されには疫学的条件を含めた医学的知見などを総合的に判断して原告らが救済の対象とすべき水俣病の被害者であるかどうかを裁判所の責任において認定することである。しかし、大阪地裁は実にあっさりとこうした任務を放棄してしまった」、「本件の特質を考え合わせつつ、法の趣旨を探究し、慎重に利益考量を行うという姿勢が微塵もない。これはまさに官僚法学的思考の典型といってもよい。このような法解釈はおよそ説得力を持ち得ない」と厳しい調子で批判を加えていく。
 水俣病に関しては医学をはじめあらゆる学問がその狭い概念だけでは捉えきれないところがあった。この本からも既存の法概念の枠組みから抜け出そうとする試みが読み取れる。その典型が第一次訴訟の時に論理構成された「安全性の考え方」である。既存の法概念からではなく原子物理学者、武谷三男氏の放射線の安全性に対する考え方からヒントを得て組み立てられたものだ。
「どんな微量の放射能でも有害は有害だが、それをどこまで我慢するかというのが許容量という概念だということ。それは自然科学的概念ではなく、むしろ社会的ないし社会科学的概念である。有害の証明はないというがむしろ有害と証明された時はもう手遅れである。したがって、無害と証明されない限り安全ではない」「既成の法論理をわれわれの観点からどうとらえ返していくかということが問題になる」「この考え方は安全性が問題になるあらゆる場合に適用されるべきだ」……。現在問題になっているエイズ薬害なども、ここでいう安全無視の最も悲劇的な典型例であろう。誤りは繰り返されたのである。
 認定をめぐっては、医学に対しても厳しい目を向ける。例えば「認定制度に関する医師は患者に対して大変疑い深い態度をもって臨んでおられます。認定申請をする患者のなかには嘘をつく者がいるといわんばかりの態度です」「先生は感覚障害というのは自覚的なものだから患者が感覚が鈍いといえばそれが嘘だと見抜かない限りそのまま信用するしかないし、ここに問題があるといわれます。そのため、感覚障害だけの所見で水俣病だと認定するのは問題だと考えておられるのではないでしょうか。先生をはじめとして水俣病認定に関わる医師たちは、なぜこれほどまでに患者を疑ってかかられるのでしょうか。私にはどうしても分かりません」(T教授への公開書簡より)
この本の特徴は徹底して現場の被害者の視点に立って法律を捉えていること、そして、ほとんどの水俣病に関する裁判の中身が実にコンパクトにわかりやすくまとめられていて事典的機能を持っていることである。この一冊で水俣病に関わる法的な問題点はわかるといっても過言ではない。
 水俣病が発見されて四十年目の今年、国の責任も、ニセ患者よばわりされた被害者たちを水俣病と認めるかどうかも曖昧なまま決着がはかられようとしている。私たちは医学や法律が果してきた功罪をこの機会に検証しなければならないと考えている。いいタイミングの出版である。

被害者たちの闘いの軌跡

最首 悟
恵泉女学園大講師

「法」とは、物ごとを処理するときの「ルール」である。「ルール」は必要だ。このことはみんなわかっている。でも、そもそも「ルール」なるものを初めてつくったり、「ルール」を追加するときはどうするんだろう。その状態を想像したり、考えようとすると、だんだん頭が痛くなってくる。

■そんなバカなことが…
 それで、もっと簡単に、すでに決まっている「ルール」をあてはめる形で、ある物ごとの是非を判断する場合を考える。五十人の人を選び、半分ずつイエスとノーのグループに分ける。議論開始の合図で論戦を闘わし、イエスの組が勝った。つまり言い負かしたわけである。「じゃあ、立場を入れ替えて」という合図で、第二ラウンドの論戦に入る。イエスの組がやはり勝った。これはわかる。人によらずイエスに普遍妥当性があり、ひるがえって諸「ルール」はやはり普遍妥当性があったのだということになる。ところが、第二ラウンドでノーの組が勝ったとなると、さあ、困る。最初イエスで次に一転してノーの立場で、いずれも相手を言い負かしたとなると、単に口がうまいだけが勝負の分かれ道ということにならないか。現実はどうやらこっちの方で、そして法の専門家は「口がうまい」からなれたのではないか、というかんぐりをぬぐい去ることができないのである。
「法」はいかようにも使われてしまう。そのような術にたけている者を三百代言という。そしてその本質からして、三百代言は新しい「法」を必要としないだろう。そしてさらに、三百代言をいっぱい長期にわたって雇えるのは、金と力がある「法人」なのだ。しかも裁判では、「法人」と、金も力もなく病人であったり障害者であったり
する「私人」は全く同格に争うんだそうだ。そんなバカなことがあるか。
 水俣病加害という問題には、現代社会がかかえる問題は全て入っていると言われる。
 とりわけ裁判は、一九六九年から二十七年間にわたって、下級審、上級審をそれぞれ一つと数えると、三十を超える訴訟が争われ「法」の諸問題はことごとく露呈したといったも過言ではない。しかも現在、関西訴訟の控訴審がはじまったばかりという進行形であることも忘れてはならないことである。

■公訴棄却は政治的判断
 富樫貞夫氏(熊本大学教授)による『水俣病事件と法』(石風社)は、まさにそのような諸問題を、緊迫したスタイルで、そしてわかりやすく伝えてくれる。大著になってしまうことも納得される。結論からいうと「そんなバカなことがあるか」という私達の素朴な実感は、その通りだと諾(うべ)なわれる野である。そして、「バカなこと」が暴かれ、是正されるのは、ひとえに苦しむ人々の闘いによるということが、圧倒的に迫ってくる。
 典型例を挙げる。水俣病裁判では、日本の司法上、空前のことが二つ生じた。一つは胎児を人間と認めたこと、一つは公訴棄却がなされたことである。後者について述べる。チッソの回答を求めて、水俣病患者がチッソ東京本社前に一年半にわたって座り込んだ。その過程でリーダー格の川本輝夫さんが傷害罪で起訴されたのである。一審は有罪だったが、二審は公訴棄却の判決が出た。そもそも検察が川本さんを起訴したことそのものがいけないということである。
 そして最高裁は、本の一ページに納まるくらいの判決文で、起訴は妥当としながら、検察側の上告を退けた。つまり二審の公訴棄却を支持したのである。そんなバカな。まるっきり論理が通っていない。
 富樫さんはこの判決に対して、「法的判断というより政治的判断」と言いきる。川本さんは勝った。しかしそれは「弱々しい理屈」を並べた最高裁決定を手にしたからでなく、警察・検察の意図を「はね返し、逆に国家もまた加害者であることをあきらかにしえた」という意味で勝利なのだ、と富樫さんは説く。
 そこにいたるまで、水俣病の被害者たちはどれほどの闘いを強いられたのであろうか。

■いぜん責任認めない国
 今、ここに、「川本輝夫、この土気色にやつれ果てた人間をとらえて罰するだけでことがすむものでございましょうか」という最高裁長官にあてた昭和五十二年(一九七七年)七月十五日付の、石牟礼道子他一同の嘆願書がある。「国というものは奈辺にありや」という血を吐くような叫びがひびく。たしかに法の番人がゆらいだこともあった。しかし、そこに加害者としての姿を現わした国は、水俣病について、あいかわらず責任を認めていないのである。
 国が責任を認めざるをえないような「法」を私たちは生み出せていないのだ。そのことを私たちは苦く受け止める。しかし「法」や「法造り」は圧倒的に「法人」や「金持ち」に味方しているのだ。そのことをはっきり見据えて、私たちは行動しなければならないと思う。富樫さんの本を読んで、八分の苦汁と二分の活力剤を共に飲むようである。まことに若い人たちに薦めたい本である。

法と政治の無自覚を糾す

宇井 純
沖縄大教授(公害論)

 世界の第一線に立っているインドの環境運動家でエンジニアでもあるアニル・アガルワルから一本の手紙を受け取って、私は返事に困ってしまった。「今日本から水俣病の和解による解決が進められていると聞くが、発見以来四十年近くもなぜ解決しないのか教えてほしい。われわれもボパールのユニオンカーバイト工場のガス爆発という困難を抱えているために参考にしたいのである」
 この、何とも説明のむずかしい問題を解く緒を与えてくれるのが、最近出版された富樫貞夫著『水俣病事件と法』である。富樫氏は水俣病患者の運動とともに歩んできた水俣病研究会の中心メンバーの一人として、法学者の立場から、時にはその立場をこえて一市民として、節目の折々に水俣病をいかに考えるべきかを鋭く指摘してきた。市民としての発言も、常に法学者としての論争に参加できる水準であることがその特徴である。水俣病をめぐる市民運動の中で、氏が常に運動と法学の世界の橋渡しを果たしてきたことは、水俣病の運動に関係した者には周知の事実だが、こうして二十五年の業績が一つの本にまとめられてみると、その重みには打たれるものがある。
 チッソ水俣工場の過失責任を第一次訴訟で立証するためには、武谷三男著『安全性の考え方』から導き出された工場の注意義務を、つきつめて考えた富樫氏の提案があって初めて、前途に光が見えてきたのであった。そしてだれの証言でそれを立証するか、この困難もまた「工場の全体がわかるのは工場長しか居ない」という氏の一言から解かれていった。この事実は本書にはさらりと間接的に書かれていて、行間から読みとるしかない。
 水俣病の歴史をこの本を前にして振り返ってみると、つくづく政治に振り回された四十年であると痛感させられる。初期の因果関係をめぐる論争も、そのあとずっとつづく認定制度も、たくさんの裁判の経過も、専門家と自称し、政治とは関係ないと主張する医師たちや、裁判官たちが、実はなまぐさい力関係の政治の世界で一定の役割を果たしてきた事実のあらわれであった。その事実を、豊富な実例とその精密な分析によって本書は繰り返し明らかにする。
 特に裁判の政治性が鮮明に表れるのは水俣病の行政責任をいかに判断するかの場面である。国の行政責任を認めた熊本第三次訴訟の第一審と、国には全く責任がないとする新潟第一審、関西第一審の対照的な判決をくらべてみると、同じ歴史を対象としてこれほど正反対の判決ができるものかと驚くほかはない。
 一九六〇年代の日本国には、公害問題を直視し、それと取り組む姿勢など、全くなかったのである。そのことを調べようとしなければ、そこに責任があることなど認められるはずがない。環境庁の担当者が、この時期の水俣病を調べていた私のところへ調べに来たことは一度もないし、今夏調べることがあって私が訪れた特殊疾病対策室でも、室長は在席しながらあいさつすらしなかったほど、日本の官僚は自分の仕事についてさえ怠慢なのである。このような組織が、自分の責任を自覚することなど、あり得ないではないか。裁判官がそのことに気づかないとすれば、それは明白な政治的姿勢である。
 認定制度と水俣病像論のからみ合った現状についても、
本書はそこに作用した政治的圧力による認定基準の動揺を詳しくたどっている。認定制度が最初から補償と結びついていたことが、認定審査会を補償処理の道具とし、患者をモノとして取り扱う状況をもたらした。この手詰まりから抜け出すために和解が求められているが、それは病像も責任も放り出すものとして批判的である。
 水俣病ほど裁判の多い公害はほかにない。ほかに打つ手のなかった被害者が最後に司法に期待をかけたからであったが、現在の司法の水準、その背後にある日本社会の人権思想の水準は、残念ながらこれまで期待にこたえたとは言えない。その重みを教える本として、法律家だけでなくジャーナリストにも読んでもらいたいと感ずる。

  • 483頁 A5判上製
  • 4-88344-008-7
  • 定価:本体価格5000円+税
  • 1995/11/30発行
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