書評

明治博多往来図会

明治博多往来図会 祝部至善画文集 祝部 至善 明治 博多 画 石風社 西日本文化協会 日野文雄
A4判上製175頁
4-88344-102-4
定価:本体価格5000円+税
2003/09/15発行
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明治博多往来図会
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祝部至善画文集

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明治博多往来図会
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驚嘆すべき記憶力と細密な画で再現される明治期の博多。往来で商う物売り達の声、町のざわめきの中、庶民の暮らしと風俗がいま、甦る。豪華本。

書評

「よい時代に生まれた幸せそのものだった」

服部幸雄
千葉大学名誉教授

 鉋屑(かんなくず)の三角帽子、中国服姿の飴屋がチータラチータラと紙ラッパを吹き立てて街へやってくる。手に手に錆包丁や古鍋を持った子どもたちが集まってくる。「チータラ飴」はお金で売らず、古金物と交換するのだった。
 不思議な魅力に富んだ画文集である。
 最初に色彩のある絵を見た。著者の絵に寄せた短いエッセイを読みながら、つくづく絵に見入った。次に、後にある少し長文のエッセイを読み、もう一度戻って前の絵を眺めた。おもしろい風俗、珍しい風俗、懐かしい風俗や生業が次々と現われて展開する。ここには明治という時代が生きている。人々が人間らしく、心豊かに、やさしく暮らしている。
 昭和十年代に名古屋で育った私は昔の博多の町をまるで知らない。それなのに、祝部至善の絵の世界は妙に親しく懐かしく思われる。
 祝部至善(一八八二─一九七四)は生粋の博多っ子である。明治・大正・昭和の三代にわたって博多の町を愛して生きた人だった。
 幼児から絵が好きで、野方一徳斎、太田一嘯、松岡映丘について学んだ。その彼が博多の風俗を描き始めたのは七十歳を越した昭和二十八年以後、九十二歳で亡くなるまで描き続けた。
 本書は明治時代の博多の風俗を描いた数々の絵と、それらに添えられたエッセイを集めて編集したものである。
 原画は東京国立博物館収蔵で昭和二十八年から三十年代にかけて制作されたものの全図と、雑誌「西日本文化」の創刊号(昭和三十七年)から百号(昭和四十九年)まで十余年にわたり、毎号の表紙を飾った絵の中から選んだものである。著者が幼少の頃に博多の町で見た光景を思い浮かべつつ、眼前の実景写生するように細密に描写している。人々の髪型、化粧、衣服、帯の結び方、持ち物などが実にていねいに描いてある。
 絵には、季節があり詩がある。いろんな人が登場する。門付けの芸人、曲独楽、覗き機関(からくり)、猿回しなど江戸東京をはじめ他の都市でも見かけたものが、博多でも行われていた。博多の街だけを往来した物売りもたくさんある。現代ではとても考えられない不思議な品物を売り歩く商人たちは、おもしろい触れ声を聞かせて、てくてくと歩いた。至善は「明治のよさ」に懐かしさを覚え、変わっていく街の様子、特有の行事、日用の道具、衣装や化粧、子供のあそび、暖かい人の情、博多言葉などを、絵と文でこまやかに描き出す。
 時間がゆっくりと流れている。時代の空気が匂うようだ。至善が言うとおり明治の日本は「いい時代」だったのに違いない。彼は「よい時代に生まれた幸せそのものだった」と、ふと感懐を洩らす。それが完全になくなった戦後十年を過ぎたころ、至善は記憶の中に生きている博多の街の風景を一つ一つ丹念に描き始めた。人々の記憶から忘れ去られるのを愛惜する心がある。時代は変わったのだ。私たちの考えはもはや「時代遅れ」なのだという老いの身の自覚もあり、諦めの気持ちもある。しかし、至善は描き続けた。
 絵にも文にも郷愁だけでなく、一抹の哀愁が漂う。とくに印象的な絵と文を一つだけあげるとすれば、「ごりょんさん」が毛布を引き回してまとった姿に寄せる至善の思い入れの深さである。この絵に限らず、彼が描いた女性たちはみなかわいらしく美しい。
 すべてに人間的だった明治。二十一世紀のいま、私は取り戻すことのできない、そして多分に美化された「明治のよさ」に憧れ、幻想を抱く。祝部至善が愛してやまなかったこの世界は、現代人に向かって何が本当に美しいのかを教えているともとれる。この本は、たくまずして不毛の現代を顧みる文明論的な内容を含んでいる点で、単に「昔はよかった」式に老人の郷愁を誘うばかりではなく、広い層の読者の共感を得ると思う。地方都市における明治風俗史の記録としての価値もある。
 巻末に、編者代表のフォトエッセイスト日野文雄による要を得た解説が付いている。

庶民の風俗、生き生きと

錦織亮介
北九州市立大教授・日本仏教美術史

 この度西日本文化協会より祝部至善氏の『明治博多往来図会』が刊行されました。東京国立博物館所蔵の51点の絵画と、雑誌「西日本文化」掲載の表紙画と解説を中心に編集されています。
 この本には明治・大正の博多の庶民の生活風景が生き生きと描かれています。人々の話し声、物売りのふれ声、街の喧騒さえ聞こえてくるようです。これらの市井の風俗は今はもう見ることができません。博多が近代都市になる過程で失われたものです。それだけに懐かしさにあふれています。

 祝部氏は、明治26(1883)年11歳のとき、博多の浮世絵師野方一得斎(のがたいっとくさい)について絵を学びはじめ、また同じ頃に矢田一嘯(やだいっしょう)にも油絵を学んでいます。しかし本格的に絵を学んだのは、櫛田神社社司の祝部家に入夫婚姻した後、大正7(1918)年36歳で上京して松岡映丘に師事してからです。同12(23)年関東大震災のため帰郷するまでの6年間、映丘のもとで新しい大和絵を学んでいます。
 博多に戻ってからは、家業の櫛田裁縫専門学校校長をつとめる傍ら、福岡県展などの地元の公募展への出陳のほか、新聞雑誌にも多くの挿絵を描くなど、作画活動を続けていました。
 今日では、祝部氏と言えば明治の風俗画を思い起こしますが、祝部氏が博多の古い風俗を描きはじめたのは70歳ごろ(昭和28〈53〉年ごろ)からと思われます。ただ、風俗画を描きはじめた動機については、はっきりとは述べていません。
 本書の編集者日野文雄氏は、地域差はあるが触れ売りや門付けの姿が街から消え始めたのが昭和28年から30年ごろであり、祝部氏にとっても明治が終りを遂げた時期ではなかったか。内なる明治の終焉を感じた時、明治を懐かしむだけではなく、明治の博多を記録しておかねばという決意から、71歳の翁は風俗画の筆を執ったのではないかと推測しています。これを裏付ける事実は、祝部氏が明治・大正博多風俗図を2セット描き、1セットは手元に置き(現在は福岡市博物館の所蔵)、もう1セットを昭和38(63)年に東京国立博物館に寄贈していることです。これは、自分が描いた風俗画が、確実に後世に伝えられることを意図したものと思われます。
 いま一つのきっかけは、鏑木清方が昭和23(48)年の第4回日展に出品した「朝夕安居(ちょうせきあんご)」図です。明治20年ごろの東京の下町風景を絵巻物風に描いたもので、失われ行く東京の下町風景が詩情豊かに描かれ、おおいに評判になった作品です。氏は画作の動機を「今私がしきりと画きたいもの、またかいておきたいものは、昭和なかばまで続いて来た市人のおだやかな暮らし、それはもう二度とめぐって来ないように思はれるのを心ゆくまで写しとどめたく願う心にほかならなかった」と述べています。また清方は、展覧会のための大画面の作品とは違った、卓上で眺めて楽しむ絵巻、画冊などの卓上芸術の支持者でもありました。
 祝部氏は、この清方の態度に共感するところが多く、博多版の風俗画制作を思い立つきっかけの一つも、この「朝夕安居」図にあったと私は考えています。祝部氏の風俗画は、作品の形式、画題、画風のすべてが、師の映丘より清方に、そしてこの図に近いことに驚きます。両者の違いは、清方が詩情を主にしたのに対し、祝部氏は風俗の正確な記録に重きを置き、各図に解説を付した点でしょう。

 祝部氏はこの風俗画を描き上げたあと、ありし日の福博の往還の様子をさらにこまかく「西日本文化」の表紙画に描きました。昭和37(62)年から氏が没する49(74)年まで、100号にわたっています。各号に付した解説文も興味深く、博多の庶民の暮らしが見事に回想され、活写されています。侍が曳馬の訓練と称してかき山の列に馬を乗り入れていた時代があったことなど、誰も知らなかったことでしょう。また画中の女性の装束、帯の結び方、髪形などの詳細な記述は、さすが裁縫学校長ならではの観察とおもわれます。
 祝部氏は、日本画のほかに、和裁はもちろん、博多おきあげ(押し絵)技術者、茶道南坊流会員、郷土研究会会員、弓道範士など多芸多忙の人でもありました。この出版が祝部氏の再評価につながればと願います。

明治の博多 日常を活写

松尾孝司
編集委員

 明治という時代の暮らし、往来のにぎわいが伝わってくる。
「あぶってかもは、よござっしょう」
 これはスズメダイを売りに歩く物売りのふれ声だ。「炙って咬んで食べる魚」という意味がある。博多の味「おきうと」売りは、
「おきうとワイ、とワイ、きうとワイ」
とやってきた。辻芸人、アメ売り、とうがらし売り……街は人と人との出会いの場だった。

時事を織り込み
 この秋、刊行された日本画家祝部至善さん(一八八二─一九七四年)の画文集「明治博多往来図会」には、江戸時代のなごりが残ったそんな明治の博多が描かれている。
 博多の井戸水は塩分が多いため、現在、福岡県庁のある千代松原の大井戸からくんで、たるに入れて、車力(大八車)に積まれて売られていた。街でバイオリンを弾く「艶歌師」の姿がモダンな時代の到来を告げる。人力車に乗って壮士芝居をPRする書生風の男性は、もしかしたら川上音二郎一座の役者かもしれない。結婚して初めて里帰りする花嫁の姿が初々しい。
 時事を題材にした絵もある。一八九四年、日清戦争・旅順港陥落を伝える、福岡日日新聞の号外を配る男。頭の鉢巻きに小さな国旗を挟み、腰には鈴。戦勝に高揚する時代の気分がよく伝わってくる。てんびん棒にかついで小包を配っている人や伝染病患者搬送の現場を伝える絵もある。
 祝部さんの視点は、ニュース感覚にあふれている。江戸の浮世絵師が博多にいたら、題材になったかもしれない庶民の生活の現場を鮮やかに描き出している。今の新聞ならば、さしずめ生活感を伝える「社会面」のような世界だろう。

風俗をリアルに
 祝部さんは、福岡市博多区の櫛田神社前にあった櫛田裁縫専攻学校の校長を務めた。祝部家は代々、櫛田神社の神職の家だったが、実家は中洲の中島町。この町からは独立美術協会で活躍した小島善三郎や「筑前名所図会」を描いた奥村玉蘭らが出ている。商人の町・博多から川を隔てたこの地域は文化の香りが強かった、と画文集の「解説」を書いた日野文雄さん(写真家)。
 町絵師野方一得斎に日本画を習い、博多人形師の指導に当たった矢田一嘯(いっしょう)に油絵を学んだ。上京後は、大和絵の松岡映丘に師事する傍ら、洋画彫刻塾でデッサンに励み、ヌードデッサンの画塾にも行った。この時代に基礎を築いたデッサン力が、細い筆の線で明治の風俗をリアルに描く素地となった。和洋を問わず絵を極めようとするおう盛な好奇心は図絵の豊かなバラエティーに直結しているだろう。
 収められたエッセー風の文章も、貴重な証言だ。
 たとえば七月の博多山笠。現在の追い山は、前を走る山笠がスタートしたあと、一定の時間を置いて後続の山笠が境内の「清道」の旗を目指してスタートする。ところが、明治二十三年までは、前を走る山笠が神社から東へ五百メートルほど離れた東長寺の前まで走ってからスタートを切っていた、と書き残している。「追いつけ追い越せ」と、むやみやたらと無理なスピード競争はしていなかったという記録である。

「わが町を残す」
 収録された絵は、一九五三年から十年足らずの間に描かれた彩色画が五十二点と、西日本文化協会の機関誌「西日本文化」の表紙のために描いたモノクロの作品約百点。
 五〇年代は、福岡大空襲後の焼け野原から少しずつ復興が進んでいた時代。が、老舗の商家がほとんど焼失し、博多の町には、板付米軍基地の兵の姿が目立った。日本社会全体が急速に欧米化していった時代でもあった。祝部さんにとっては、古里が消えてしまった。他人の町になってしまったのだ。
 絵には、「わが町・博多を残さねばならない」という強い決意がにじんでいる。遠い所へ去ってしまった「博多」を呼び戻そうという意地がひしひしと伝わってくる。祝部さんは、博多を語る会の会員としても博多人形師の小島与一さんらとともに「博多」を語り継ぐ活動を続けた。
 博多の町は、六六年の町界町名変更で、長い時間をかけて形成された地域コミュニティーが分断された。この本は、失われた博多を見つめることで、変わり続ける博多を問い直す機会を与えてくれる。

雑踏の声が聞こえてくる

矢野寛治
コピーライター

 戦後の団塊としては、いささか古いことにも知悉しているつもりでありしが、頁を繰る毎に、私の知識なんぞは、おととい来やがれの心境にさせられた。
 物心ついたころに、往来で目の当たりにしたのは、せいぜい虚無僧、富山の薬売り、傷痍軍人さん、あさりシジミ売り、竹ざお売り、たくあん売り、アイスボンボン売り、こうもり傘ナベ釜修繕屋、ポンポン菓子屋、山伏、豆腐屋、占い師、新聞少年、紙芝居屋のおじさん、正月の獅子舞い、ああそういえば時々新内流しくらいのもので、この図会を見ますと、いやはや明治の博多往来は、多種多様。
 旅順口陥落の号外配りは、鉢巻に小国旗を二本挿している。小包郵便配達の臀部は張って大きく、踏み切り番の乳飲み子を背負ったお母さんの乳房は胸からポロリと露わになっている。高校生は弊衣破帽、女専は紫袴、警察と兵隊の衣装は妙に立派。されども、最も興味を惹くのは行商人と物売り、門付けや庶民のいでたちである。いなせ有り、粋あり、概してみな粗衣だが、どことなくユーモラスで活気がある。祝部至善さんの絵を見ていると、明治の雑踏の音と声が聞こえてくる。

目次紹介- 抜粋 -

◉往来の楽しみ、その触れ声
  蓄音機  手品屋さん  かざ車うり・飴さいく  子供相手の煮豆売り・チータラ飴  いなせなすし売り・辻占うり  もぐさ売り・オ一チ二の薬  役者の顔見せ  ほか
◉往来の人々、仕事と服装
  新聞号外  小包郵便・郵便くはりさん  伝染病患者担送  とんがらりの粉売り・大竹うり  水売り・水ふり  あぶってかもう売り・おきうと売り  牛の肥料とり・わかめうり  ランプのホヤ売り・鍋釜の修繕  高校生・女専の生徒 ほか
◉往来の四季と出会い
  愛宕様の馬参り・はだか参り  嫁御の一番あるき  おいなりさん・山伏さん 放生会参り・幕持出し  相撲とりの場所入り ほか
◉街のざわめき
  人形つかい  明治時代のすきやき屋  かくうち  自転車のはじまり  人力車と辻まちぐるま  夏の流行病  おいなりさん・猿まわし  あめゆ売り  肴売り  だいどう芸人・かたなのみ ほか
◉博多歳時記
  明治時代の正月の街頭風景  春のあそび  消防出初式  十日えびす様まつり  博多おきあげ  明治女性の髪結い  博多のじゃおどり  一番太鼓  櫛田神社  八朔のさげもん  博多のばんこ将棋  かつろう写真  ささぐりまいり  冬の夜のごりょんさんと夜廻り ほか
◉解説『明治博多往来図会』の楽しみ方(日野文雄)

祝部至善

ほおり・しぜん

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祝部至善
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ほおり・しぜん

1882(明治15)年中島町(現福岡市博多区中洲中島町)に生まれる。
1904(明治37)年日露戦争に出征。戦功により勲八等瑞宝章受領。
1918(大正7)年祝部サタと入夫婚姻。社家町(現同区冷泉町)の祝部家へ入る。
1919(大正8)年新興大和絵運動の提唱者松岡映丘に師事するため東京へ遊学。
1921(大正10)祝部卯平から祝部至善と改名。
1923(大正12)年博多へ帰郷。櫛田裁縫専攻学校の3代目校長となる。
1953(昭和28)年博多の風俗画を描き始める。
1962(昭和37)年財団法人西日本文化協会発行の「西日本文化」の表紙絵を描き始める(創刊号から100号まで)
1970(昭和45)年文功により、勲五等瑞宝章受領。
1974(昭和49)年4月2日発行の「西日本文化」100号に刀研師の絵と随筆を発表、最後の作品となる。
1974(昭和49)年逝去。享年92歳。没後大日本武徳会から弓道の功により大師範の位を授かる。

財団法人西日本文化協会

ざいだんほうじん・にしにほんぶんかきょうかい

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財団法人西日本文化協会
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ざいだんほうじん・にしにほんぶんかきょうかい

日野文雄

ひの・ふみお

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