2019年(平成31年)2月に、私論を「デフォルメ鏡-認知症者のもう一つの生き方」(石風社)として出版した。タイトルを「デフォルメ鏡」とした理由は、30年以上も前、病棟のホールにある洗面用カウンターの鏡に向かって高齢の入院者が話しかけているのを目にしたからだ。彼女は自分が鏡に映っているのに気づくと “ここにいたの”と言って笑顔になり、鏡に映った自分に、話しかけ、問いかけ、うなずき、両手を動かしながら、応答を何時間も続けていた。この光景は認知症の症状として知られている鏡現象だったが、認知症者の心性に興味を持つようになった時、鏡現象に認知症者の人としての心理を垣間見たような気がしたからである。

 非認知症者は顔が歪んで映る「デフォルメ鏡」でも自分を自分だと判かるが、認知症者にはデフォルメのない鏡でも映った自分の顔と認識できず他者と見なす人がいる。しかし、認知症者が鏡に映った自身を他者として反応しながらも見ず知らずの他人ではなく既知のなじみの人と見なす現象は、無意識の中にある〈なじみ〉による安心を求める人の心性ではないか。人は認知症になっても、もう一人の自分としてもう一つの生き方があるという視点に期待したからだった。

認知症者のもう一つの姿

 私が出会った認知症者に対する印象と理解は、(認知症という病理を受け入れながら)、その時々の、その人なりの、感じ方(知覚)、とらえ方(理解)、応じ方(感情、行動)を示すことで、もうひとつの生き方としてその人の精神を表現しているように思われた。認知症になるとそれまでのような生き方とは別に認知症である自分にできる、自分に合った生き方も身について、症状さえも生き方に活かされている面もある。認知症者の分かり方として、認知症が進むと、忘れるだけでなく、忘れることを忘れ、分からないだけから、分からないことが分からなくなると、間違って分かることで自分なりの納得と安心を得ることもある。認知症者の〈なじみ〉は、現実になじんできたもの(人や場など)を忘れ、分からなくなっても、そばにいる人々の中で〝よく知った人(なじみの人)だ〟と間違って分かり、安心することもある。なじみの人が見つかるのは認知症者の安心を求める心の表現とも思える。

 認知症者を生態として眺めると、動物は集団(群れ)で過ごすことで危機を回避しながら個体としても種族としても生き延びる習性がある(集まる力〔動物性と呼ぶ〕)。認知症者にも類似の行動や集合性が認められ、人間の動物性や原始性をうかがわせる側面がある。

 また人間には、選ぶ力(生物性と呼ぶ)ともいえる習性がある。人のみならず生物には相性や属性によりグループ化する習性があり、原所属性〝プロトアイデンティティー〟の概念(今西錦司)や生態を想起させる。これは〝棲み分け〟理論にも呼応して、認知症者には、〝共存〟のみならず〝並存〟という選択肢があることも示唆している。認知症者には無力で受け身ながらも与えられた状況で無理なく平衡(バランス)状態を形成する能力が残されているということである。

 変化する力(生存性と呼ぶ)として、自然界にも人間にも可塑性があり、人は多様な疾病や障害を負いながらもその人なりの生き方をしていかなければならない。認知症になっても、人は認知症になじみ、徐々に認知症モード(もう一つの生き方)に変わっていく可能性があるということである。

 治療の場面でみると、認知症者は自身の症状も生き方に活かしており、「仮性対話」はお互いが思いのまま発言する対話であり、まとまらず、内容もちぐはぐだが、これは内容(コンテンツ)の伝達ではなく、気持ち(フィーリング)の交流になっている。その時、認知症者は懐かしさや充実した気持ちを感じているようである。会話の中では現実や事実ではない内容が作話としても語られる。「鏡像現象」では、鏡に映った自分を虚像と理解できず、実像と誤認して、姿を見たり語りかけたりする現象である。その時、虚像に対して自分との関係や自分の思いを投影することにより、自分の存在を感じているように思われる。認知症が進んだ人の中には、鏡を見て自分の顔と認識できなくても、他者の顔としてではなく、見えている顔がなじみの人かどうかに関心が向くようである。

 認知症の代表的な症状である物盗られ妄想」では、記憶障害、失見当、誤認に基づき、喪失感と共に不安と被害感が募るが、自責感を和らげるための大事な人への責任転嫁でもあり、救済や注目のメッセージにもなる。「妄想」に対する心理的な対処法として、聞き手が自らの紛失体験を思いながら傾聴して、苦痛を分ち合い、感情的に緩和を図ったり、金品返済や代替品で現実的に解決を行うこともある。現状の環境では解決できない場合、入院して妄想の対象、現場から遠ざけることによって、安心で安全な場を保障することで、関心の転移、自我意識の減衰を図ることで、妄想が恰も無かったように消失することも経験する。

 認知症者の帰宅言動」は、人の素直な気持ちであり、過去の生活習慣の一端でもあり、状況が認識できない時の誤認により不安や混乱から逃れる言動でもある。自宅や生家でも帰宅言動は起こるので、回帰願望(あの日に帰りたい)や帰巣本能も連想される。この場合、その人の言い分を聴き、気持ちを受け止め、本人の関心ある話題にシフトしたり、時間をかけて関心の変化を待ったり、同伴して身体モードに切り替えることで忘れてもらうこともある。それでも治まらない時は、入院して同世代である認知症者の中で懐かしさや居心地のよさを感じ、そこを自分の居場所―心の中のアットホーム―となり、落ち着く人々も少なくない。

私が経験した代表的な事例

〈なじみ〉により安心できる居場所を得る人々

 アルツハイマー型認知症の70代女性は、 近所に住む娘の死後、その家族を泥棒呼ばわりするようになった。頻回に徘徊しては近所から米を借りていたので、県外の家族と同居したが、一人で無断帰省中に保護され入院した。当初は置いていかれたと訴え、ドアの前で迎えを待ち続けていたが、数日後、病棟で話し相手ができると安心して帰宅のことは忘れた。

 アルツハイマー型認知症の70代女性は、出漁する家族の出迎えを長年の生活習慣としていた。

 認知症になってからも毎晩深夜に出歩き保護されて入院した。当初、家族を心配して帰宅要求を繰り返していたが、テーブルメイトと過ごす中で病棟生活が安心な日常となり、帰宅要求は希となり病院にも泊まれるようになった。

 アルツハイマー型認知症の80代女性は、隣人が物を盗ると警察に執拗に通報するため、隣人とトラブルになったので入院した。入院当初、物が失くなったと訴え、終日探し回っていたが、病棟でテーブルメイトと寝食を共にする日々の中で安心して盗られるという不安は忘れ、本来の快活で世話好きな性格から、病棟でも人気者になった。

〝誤認〟により安心できる拠りどころを得る人々

 レビー小体型認知症の70代男性は、毎朝、現役のつもりで強引に出勤して、行く先や用件忘れのため妻が付き添っていた。外来での面接で、初対面にも関わらず私を高校の先輩と呼び、親しみと安堵の表情を示した。入院後、日付、場所などの確認が頻回であったが、出社は言葉だけとなり、私と高校時代の話をすると落ち着いていった。

 レビー小体型認知症の80代女性は、事実として子供が7歳時に行方不明になっていた。認知症による幻覚の中で、その子と友達が現れ、家に遊びに来るようになった、面接では、そのことに加え、その子の仏壇の写真に水を上げると口が動くなどといとおしく語り、本人なりに、50年以上の思いに対する慰めを得たようであった。      

 前頭葉型アルツハイマー型認知症の80代女性は、浪費と対人トラブルにより施設入所したが、わがままで易怒的なため退所になった。自宅訪問した私の勧めで嫌々入院して、直後は「騙された、帰る」と叫んでいたが、その日のうちにテーブルメイトに〝同級生〟がいると言い出し、病棟が気に入って、テーブルメイトの世話役となり入院生活に満足していた。

 認知症者における、〈なじみ〉のみならず〈誤認〉は、人が不要な不安を緩和するために、経験したこと、見知ったもの、親しい人々により安心を得る心性と思われる。不安や当惑は、子供の頃に親からはぐれた時、大人なっても見知らぬ土地で迷子になった時の心理に似て、なじみの人に出会ったり、外国なら日本人というだけで安心するようなものである。認知症が進むと記憶や見当識障害などのため、その場や時間が不確かとなり、見知らぬ時間と空間の中に迷い込んだ感覚にもなりやすい。そんな時、〈なじみ〉は認知症の人にとって安心で懐かしく居心地の良いものとなる。それは、なじみの関係として個人的な安心だけでなく、その集団(場)にも和やかな落ち着きをもたらし、認知症の人々には〝心のアットホーム〟ともなる。〈なじみ〉は人の安心の元にもなるものであり、科学的な解釈では、〈なじみ〉の感受性〝レセプター:受容体〟は残るが、それに対応する現実のもの〝リガンド:基質〟が認識不良となるため偽陽性反応でも安心できるのではないかと理解している。

認知症者のもう一つの居場所

 精神科病棟への入院はネガティブ「否定的」な面が強調されているが、そこもまた〈社会〉と見なせば、家庭や社会の中で居場所や人間関係が難しくなった認知症者のための一時的安息の場であり、再び現実に直面して生きていかなければならないための一時避難所でもある。当初、認知症者が入院という未知の環境に対して不安を感じ抵抗するのは当然の反応や感情(初期反応)であり、新しい環境を受け入れるまでの違和感や不安と共に帰宅心も募ってくる。しかし、同じ世代で同じ認知症者集団の中で時代感を共有しながら、安心して居心地の良さを感じるようになると自分の居場所が病棟の中にも見つかる。これは、無意識のレジリアンス「復元力」やコーピング「対処力」とも考えられ、生活の質の指標でもある 「well being:ウェルビーイング」 という理念もあるがままとして身に着けているようで、童心のような無心の境地に近いものではないかと想像している。

 認知症者は集団の中で集いとつながりの安心が生まれ、人のためという心地よさとで自分の存在を感じる人が少なくない。無意識に思うままの自由や孤独ではないと感じる人もあり、頼れる人がいると自分を強くできる人もいる。友情によりその人の良さが現れることもある。入院した病棟がアウェイからホームにもなりうる。また、病棟では、職種も個性や関係も異なる人々が働いており、これら全ての人が治療という「情況劇」の参加者であり、認知症者もスタッフも家族も治療共同体の一員になり、各々が必要な人材となっている。

 メンタルケアでは家族の力も活かしており、重度の認知症者でも家族と共有する話題や語りかけに活気が生じることがある。認知症者に影響を与えるものとして集団の精神力動はなお有用な治療原理でもある。料理の味を決めるスープに例えると、当事者を含む参加する人を素材として活かしながら旨いスープにすることであり、ただの箱としての病棟が玉手箱にもなる。集団でのなじみの心性は、熊本地震時の集団での避難環境や病棟での新型コロナ感染防止のための集団隔離状況でも、一時的には心理的危機をやり過ごすことにもなった。

(つづく)

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