1882(明治15)年中島町(現福岡市博多区中洲中島町)に生まれる。
1904(明治37)年日露戦争に出征。戦功により勲八等瑞宝章受領。
1918(大正7)年祝部サタと入夫婚姻。社家町(現同区冷泉町)の祝部家へ入る。
1919(大正8)年新興大和絵運動の提唱者松岡映丘に師事するため東京へ遊学。
1921(大正10)祝部卯平から祝部至善と改名。
1923(大正12)年博多へ帰郷。櫛田裁縫専攻学校の3代目校長となる。
1953(昭和28)年博多の風俗画を描き始める。
1962(昭和37)年財団法人西日本文化協会発行の「西日本文化」の表紙絵を描き始める(創刊号から100号まで)
1970(昭和45)年文功により、勲五等瑞宝章受領。
1974(昭和49)年4月2日発行の「西日本文化」100号に刀研師の絵と随筆を発表、最後の作品となる。
1974(昭和49)年逝去。享年92歳。没後大日本武徳会から弓道の功により大師範の位を授かる。
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