書評

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伏流の思考 福元満治 私のアフガン・ノート 石風社 福元 満治 中村 哲 ペシャワール らい ハンセン NGO 国際化 グローバリズム アフガニスタン アフガン 石風社 伏流 思考
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伏流の思考
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伏流の思考

一編集者が、ひょんなことからNGOの責任者になって、考え続けた思考の軌跡。……人間の欲望が幻影となって、人間の存在を呪縛する世界に身を置きながら、アフガニスタンに関わり続けて二十数年。

書評

援助の独善、厳しく排す

松原新一
久留米大学教授・文芸評論家

 福岡市にペシャワール会というのがある。一九八三年九月、中村哲医師のパキスタン・アフガニスタンでの医療活動の支援を目的に結成された会である。そのペシャワール会の広報担当理事として中村医師の活動にねばり強く伴走してきた福元満治が、『伏流の思考──私のアフガン・ノート』という本を出した。その読後感を書きとめておきたい。
 福元満治は、ある時、現地でのボランティアを希望する看護婦さんと中村医師との会話の場に同席したことがある、という。「私でも何かの役に立つでしょうか」と問う看護婦さんに、中村医師は即座に「いえ、役に立ちません」といってのけた、という。この、一見冷徹ともいえる答え方に、福元満治は、長年ペシャワールという異文化の地で悪戦苦闘してきた「ひとりの人間の断固たる意志」を見た、と書く。
 中村医師はただ冷たく突き放したわけではなく、「半年か一年は寝てくらすつもりで来てください。そのうち現地の様子もおいおい見えてきて、何が必要かもわかって来ます」と言い添えるのを忘れてはいない。ただ、不幸な他者への慈善的善意に陥りがちな私どもの弱点をきびしくみすえることばとして、ここに取り出したのだが、「現地の立場に立つ」ということが、いかに困難な課題であるか。
 本書を読みながら、幾度も私の念頭に浮かんだのは、いったい他者の呼びかけに応えるとはどういうことか、という問いだった。福元満治は、中村医師はさまざまな国家や組織や個人が「援助」の美名のもとに、それぞれの利害や思惑や善意を現地の人びとに押しつけて混乱を引き起こす姿を、うんざりするほど見てきたはずだ、という。NGOなどが、お金を出してくれる「先進国」の方に顔を向けて、「識字教育」だの「女性解放」だの「人権問題」だのといった先進国好みのテーマを持ち込むのも、現地の必要という点からいえば本末転倒になりかねない、という。
 面白いのは、福元満治が中村医師に対して最初に抱いた感情は「嫉妬」だった、と告白している事実である。「中村医師のアフガニスタンの人々との関係のありかた、その深さに嫉妬したのである。ひとは、他者とこれほど深く関わりあうことができるのか」という思いだった、という。そういう悲しい感受のしかたに、おそらく六〇年代末のあの全共闘世代の一人としての福元満治の、心の傷がうずいているにちがいない。ここに本書の微妙な文学的性格もまた浮かび上がってくる道理である。

  • 272頁 四六判上製
  • 978-4-88344-104-4
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2009/10/20発行
極楽ガン病棟 坂口良 がん ガン 癌 闘病 坂口 良 肺 脳腫瘍 手術 漫画 医療 入院 再発 コバルト 転移 病院 石風社
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極楽ガン病棟
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極楽ガン病棟

敵は病か病院か? 超ポップで明るい闘病記


やっと漫画家デビューした34歳で肺ガン宣告。さらに脳に転移しての2回の開頭手術。患者が直面する医療問題(薬の知識、お金、入院)をベースに、生命がけのギャグを繰り出す超ポップな闘病記。──敵は病気か病院か、めざせ不屈のガン患者!

書評

面白くてためになる闘病記

 福岡市の石風社から刊行の「極楽ガン病棟」は、面白くてためになる闘病記だ。けれども、笑いは軽薄でなく、〈いやし〉の安売りはないから、誤解なきよう。
 ガン家系の私が、もし入院することになったら、迷わずこの本を持っていく。自分のためだけでなく、医療関係者の眼につく枕元に置くだろう。
 第一に入院生活の指南書として明るく具体的である。闘病日誌が、検査や薬、手術の前後の様子から医者や看護婦、同室者とのやりとりにまで及び、笑いと共感をもって読むうちに、病院暮らしのノウハウと勇気を得ることがことができる。気掛かりな治療日数と費用、その還付金まで教示の本はめったにない。
 第二に読み物として優れている。多くの闘病、看病記は、頭を下げるのみで書評ご法度というのが礼儀であろう。が、本書の自己を含めた人間描写の鋭さとユーモアのセンス、その知力、筆力にはただ、脱帽。
 著者の坂口良氏は「免疫力アーップ」が口癖の「不屈のガン患者」。若き漫画家で、カットの自画像はトホホホ感のボケ顔だが、顔写真は青年僧のように端正。この誠実なサービス精神もお見事。

  • 306頁 四六判並製
  • 4-88344-020-6
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1997/05/01発行
戦後誌 光と影 記憶 戦後 朝日新聞 西部本社 力道山 長崎 西鉄 九州
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戦後誌
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戦後誌

戦争直後から、がむしゃらに生き抜いてきた。ふりかえれば茫々たる光景。筑豊・水俣・海峡の力道山──

書評

事件と人々のいまを浮彫りにする書

松下竜一
作家

 戦後五十年目の今年、その半世紀をふりかえるさまざまな企画がマスコミを賑わせたが、本書もその一つといえる。朝日新聞西部本社が九州・沖縄・西中国の戦後の五十年からピックアップしたおおきなできごとを、記者の足で辿り直した記録である。本書構成の四本の柱として選んだのが〈炭鉱・水俣・原爆・沖縄〉で、そのいずれも重く深く西日本域に根を降ろしたテーマとなっている。
 このメインテーマにそって、さまざまなできごと、人物、場所が登場してくる。長崎原爆直後の報道。「長崎の鐘」の永井隆とその娘茅乃。敗戦直後の別府の町に生まれた野球チーム星野組。朝鮮人であることを最後まで秘した力道山。筑豊の子どもたち。三池闘争。炭塵爆発事故とCO中毒。水俣病。蜂の巣城攻防。指紋押捺拒否のチォエ・チャンホア、ソンヘ父娘。基地の島沖縄。基地の町佐世保。九大ファントム墜落事件。イエスの方舟。ライブハウス「照和」等々……。
 五十八歳の私にとってはどの項目をとってみても忘れ難く記憶に刻まれていることで、読みつつ「ああ、共に同時代史を生きてきたのだなあ」という感慨が尽きない。
 そんな感慨のままに私事をはさませてもらえば、私の処女作『豆腐屋の四季』は一九六九年四月に講談社から刊行されたが、石牟礼道子さんの『苦界浄土』はそれに先立つ三カ月前に、同じ編集者の手によって世に送り出されている。私は『苦界浄土』によって「水俣」と出逢い、おのが生き方を問い直されることになる。一九七〇年七月三日、東京の役者砂田明さんらが白装束で水俣へ向けての告発の巡礼行に出発するが、私が豆腐屋を廃業しペン一本の生活へと転身するのは七月九日である。小さな豆腐屋の暮らしに閉じこもっていた自分を解き放ち、おそまきながら社会へと踏み出していきたいという私の決意を促した”衝撃“の一つは「水俣」であったといっていい。やがて私は足元の周防灘開発に反対し豊前火力発電所建設反対運動へと没入していくが、それはまた孤立への道でもあった。そのとき私のすがるような眼に見えたのが、十余年前蜂の巣砦にたてこもって国家権力と対峙した室原知幸翁であった。自らを励ますために、私は蜂の巣城主の孤高の闘いの軌跡を辿って『砦に拠る』を書き始める……。
 同時代史を生きるということは、こんなふうに至るところで交錯し、意識的にも無意識的にも響き合っていくことなのだろう。
 本書の手柄は、できごとにかかわった人々のいまを記者が訪ねていることだろう。たとえば、一九六〇年の三池闘争の中で生まれた団結労働歌として著名な「がんばろう」の作詞者森田ヤエ子さんの現在を、私は本書で初めて知った。七〇歳に近い彼女が失対事業で働きつつ、いまも詩を作り「語り部」たらんとしていることを知らされるのだ。
 本書にとりあげられたできごとはいずれも大きく重く、それにかかわった者たちには一生の十字架となっていかざるをえない。いまを訪ねることで、そのことが浮彫りとなってくるのだ。
 きわめて個人的理由で、私は「再訪『出ニッポン記』」を興味深く読んだ。私が兄事した記録作家上野英信さんは、閉山の続く筑豊を捨てて南米へと移住した同朋のその後に心を痛めて、一九七四年に一人一人を探し訪ねて行く。その記録が『出ニッポン記』である。それから二十年を経て記者が再訪する。
 哀切なエピソードが語られている。塵肺を病む老人は、記者が土産に持参した石炭のかけらには手を触れず、「上野さんはお元気でしょうか」と問う。八年前に亡くなりましたと告げると、黙りこみせきこんだ彼は記者には何も答えず寝室に引きこもってしまう。様子をのぞきに行った家族が戻って来て、「上野さんが亡くなったと知って、よほどショックだったのでしょう。泣いていました」と告げる。私にも、こみあげるものがあった。

  • 四六判並製403頁
  • 4-88344-007-9
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1995/10/20発行
東アジア 新時代 海図 朝日新聞 西部本社 社会部 グローバル アジア 経済 石風社
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東アジア
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東アジア

グローバル・スタンダード(世界金融攻勢)を前にアジアは真実、危機に瀕しているのか? アジアの底流を読み、経済のみでなく、人々の日々の営みから、明日のアジアを展望する。

書評

下からの東アジア論

河村誠治
国際東アジア研究センター主任研究員

 本書は、主として、朝日新聞西部本社が一九九七年初めからつい最近まで同社新聞に掲載してきた東アジア現地ルポを加筆・編集したものである。その目的は、変化の激しい東アジアの「いま」を書き留め、新しい時代につなげたい、とある。第一線で活躍する記者たちの執筆だけあって、わが国を含めた現地(地域)の人々に焦点が当てられている。われわれ読者とも深くかかわる現実の問題が軽快な語り口で述べられており、全二六九ページは一気に読み終えられる。
 表題の「東アジア」は、「九州・西中国・沖縄と密接につながる身近な地域」で、「東シナ海や黄海に面した国・地域」であり、主たる対象国・地域として、日本、韓国、中国、台湾が挙げられている。大方の脈絡はこうである。
 東西冷戦時代に固く閉ざされ分断されていた黄海・東シナ海がすっかり開放され、地域住民の相互交流が拡大したが、他方で漁業、漁業資源、漁民の生活、経済水域の線引き、領土・領海問題などをめぐる激しい対立も生じている(第1章「荒れる二〇〇カイリ」)。ともあれ、その東アジアの国・地域を結びつけてきたのは、ハブ港湾、航路、海運業者、船員である(第2章「港と海運をめぐる攻防」)。黄海・東シナ海が狭くなった結果、密航から外国人労働者の就業のあり方までの新たな社会問題が日本、韓国、台湾に突きつけられるようになった(第3章「回流する外国人労働者」)。東アジアの文化・芸能・スポーツ界に生きる人々に目を当てれば、ハングリーな直向きさと向上心がよくわかる(第4章「クロスオーバー文化芸能」、第5章「越境するスポーツ」)。東アジアの多くの人々の心は、いま、夢と現実のはざまで大きく揺れている(第6章「漂泊するアジアの心」)。その対極にあるのがわが国の海上保安官たちであり、領海を守ろうという使命感と苦労は積もる一方である(第7章「第七管区海上保安本部」)。今後の東アジアの行方を占う上で、開発独裁型の経済成長が行きづまった韓国の動向はとくに目がはなせない(「危機の韓国経済報告(経済部編)」)。東アジアでの交流の姿をアジアで活躍の三氏に聞くと、エコノミストは直接投資が中国大陸だけに集中しないことを、女優は東アジアの違いを認めることを、歴史家は東アジア史に見られた都市間交流の復活を説いている(終章「新時代のアジア」)。
 私が編者であれば、とくに大切な終章は、外部の識者にゲタをあずけるようなことはせず、それまでの全8章をベースに結んだはずである。識者の意見が必要なら別章を設ければよい。実際、終章の識者の発言からは、交流の具体的姿がほとんど見えてこない。いくら東アジアのいまを「書き留め、新しい時代につなげたい」と言っても、一冊の著書である以上、また単なる新聞記事の寄せ集めと寄せ集めと誤解されぬためにも、脈絡をもっとはっきりすべきであったし、今日の東アジアを総括する自己主張があってしかるべきであった。
 そうだからと言って、本書を過小評価するわけにはいかない。最後になったが、他にはない本書の特長を四つ挙げておく。一、個々の記事が現実に忠実で、また普通の学術書にはない新鮮さがあり、多様な東アジアの方向性を探る上で有益である。二、わが国を東アジアの一員とし、東アジア域内からわが国の存在を見いだそうとしている。ちなみに、多くの経済統計(但し書き)では、経済発展段階の違いと称し、「日本を除く東アジア」と明記しているが、それは東アジアの独自性を否定し、環太平洋地域構想に加担する考えの表れである。三、経済成長や金融・通貨危機などの経済問題に偏ることなく、各種の社会問題を拾い上げている。それは、歴史、社会、風俗、習慣、文化などを重視していることの表れでもある。四、目指そうとするところは、開発独裁という「上からの東アジア論」ではなく、地域住民の視点から見た「下からの東アジア論」であり、ユニークである。

  • 四六判並製271頁
  • 4-88344-031-1
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 1998/06/20発行
身世打鈴 シンセタリョン 姜琪東 大山 姜 差別 在日 韓国 朝鮮 俳句 石風社 俳句集 パンチョッパリ
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身世打鈴(シンセタリョン)
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身世打鈴(シンセタリョン)

燕帰る在日われは銭湯へ──「本書はいわゆる〈句集〉ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ(半日本人)と呼ばれる男の精いっぱいの抗いである。/考えてみれば、韓国人の私が日本語で考え、話し、書くという行為は決して自然な姿ではない。だが、この不自然な姿こそが私の姿そのものであり、私の俳句である」(本書あとがきより)

書評

折々のうた

大岡 信
詩人・評論家

  河豚の座の韓の悪口(あっこう)吾(あ)を知らず  姜琪東
『身世打鈴』(平九)所収。題名は身の上話の意味の韓国語。昭和十二年高知県生の韓国人。加藤楸邨に傾倒し「寒雷」同人となる。楸邨に最も信頼された門弟の一人。
 句はむろん在日韓国人として受けてきた屈辱の一こま。河豚に舌つづみをうちながら、韓国人がいるとも知らず韓国の悪口を言い合うありふれた日本人像。楸邨没後俳句への情熱も急速に冷え、思いたって句集二冊をまとめた中の一冊。

俳句で綴る「在日」の哀歓

姜琪東
俳人(自著を語る)

 在日韓国人が俳句という最も日本的な表現様式で己の生きざまを鮮烈に詠む。そのねじれの中に、その慟哭の中に、人間が存在する──『身世打鈴』の新聞広告のコピーである。「そのねじれ」とは、韓国人でありながら日本固有の文芸である俳句をつくることに対する私自身の複雑な心情をさしているのである。
「趣味は?」と訊かれて「俳句です」と答えると、たいていの人が驚いたような顔で私を見返す。口にこそ出しては言わないが「在日韓国人のあなたが、どうして?」という表情である。
 俳句を作るようになって二十六年。この間「よりによって、なぜ俳句なのか」という目に見えない詰問に取り囲まれてきた。先の広告文ではないが「最も日本的な表現様式である」俳句に深入りすることは、韓国人の魂を奪われることであり、民族的アイデンティティーを喪失することではないか、という自虐の念がいつも頭の片隅に潜在していた。

  ビール酌むにつぽん人の貌をして
  燕帰る在日われは銭湯へ
  草笛や韓の歌とは気づかれず

韓国人(朝鮮人)でありながら日本に生まれ、祖国の文化圏からへだたったまま■異国日本■の文化にどっぷり浸かって生きているのが〈在日〉なのである。日本のテレビを見、日本の新聞・雑誌を読み、年がら年中日本語の中で暮らしていて、それでも日本に同化しないで韓国人の矜持をたもちつづけることは、伝染病の病室に閉じこめられて感染するなと言われるようなものである。
 在日韓国人・朝鮮人社会では、日本に同化することをいさぎよしとしない風潮が根強く残っている。もしも在日の若い女性が日本の振り袖でも着ようものなら、一世の年寄りたちは「哀号!(アイゴウ)」と声を上げて嘆き、親のしつけが悪いと言ってののしることになるだろう。韓国人にとって日本への同化は屈服なのである。

  帰化せよと妻泣く夜の青葉木菟(あおばづく)
  帰化せぬと母の一徹火蛾狂ふ
  冬怒濤帰化は屈服と父の言

「なぜ俳句なのか」という設問にそろそろ結論を出さなければならない。在日をテーマとして書くとき、なぜ俳句でなければならないのか。私自身上手に説明できない。なぜ山に登るのかと問われるのと同じである。だが、詠むことで救われ励まされる私があり、俳句を通して新しい自分を発見することがあるのである。
 風土の中で人間性がつちかわれていくとき、その国の文化や慣習に感化されていくことは当然のなりゆきであろう。私が日本の俳句という詩形に巡り合ったこともまた同様である。そのことを日本社会への同化と非難するなら、私はその言葉を甘受する覚悟である。そもそも自分の思考形態が日本語で始まったことが、宿命の始まりなのである。

  迎火や路地の奥より身世打鈴  
  寒燈下母の哭くとき朝鮮語
  鳳仙花はじけて遠き父母のくに

 身世打鈴とは身の上話という意味である。韓国人は唄うように泣きながら、辛いことや悲しいことを延々と語る。泣き語ることで胸のうちを晴らすのである。
「本書はいわゆる■句集■ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ(半日本人)と呼ばれる男の精いっぱいの抗いの記である」とあとがきに書いた。私が、俳句で在日の姿を綴るということは、俳句という名の短刀(どす)を逆手にとって日本人の胸元に突きつけることなのである。

  宿命や吾に国籍蚊に羽音
  韓の名は意地の砦よ冬銀河
  「恨(ハン)」と「怨(オン)」玄界灘に雪が降る

無限抱擁の優しさ

李 恢成
作家

 句集『身世打鈴』は、十七文字の中に凝縮された「在日」韓国人・朝鮮人の世界である。或いは、「在日」と「日本人」のはざまを生きる人間の情念が率直に告白されている精神世界だともいえるだろう。
 姜琪東氏のこの句から私は、氏が日本人の従来の俳句とはおのずと異なる境域に立っているのを感じたが、それは「身世打鈴」という、おおかたの日本人にはエキゾチックに響くかも知れないタイトルのせいでは勿論ない。この言葉にこめられた「恨」とか「怨」の感情領域が、日本語を活性化し異化しながら、その世界をおしひろげようとしているからに外ならない。こうした日本語は祝福されるべきものであろう。なぜならば、言語とは歴史の中で規範をこえ異域をひろげていく自己要求をもつものだから。まさにその意味でこの句集は、「在日」の生命力をバネにし、新境地に迫っているともいえる。
  河豚の座の毒も食らはむパンチョッパリ
 この一句には注記があり、
 「”パンチョッパリ“と嘲笑ふ者あり、それもよし。我は半日本人なり」とある。
 在日二世の、開き直った心境を披瀝したものであろう。「半日本人」であれば「半朝鮮人」でもあるわけだ が、こういう引き裂かれた人間の感覚を誰が笑いえようか。筆者もまた「在日百年」の歴史の落し子以外の何物でもない存在である。
  燕帰る在日われは銭湯へ
 この一句は、どう読みこまれるべきなのだろう。 徊趣味とか余裕派というたぐいのものではあるまい。これは、「在日」として生きる心を謳ったマニフェストなのだ。「銭湯へ」とは、平常心の表白であり、筆者が辿りついた心懐とみなされよう。「燕帰る」とはたんなる季語とはいえぬ政治的寓意をしのばせているものとも解される、鋭い季語だ。しかし、この句の本旨は、現実逃避におもむいてはいない。現実をありのままに受容し、あわてずうろたえず、むしろ楽しんでいこうとする自然体の心がにじんでいる。その澄んだ境地から「軽み」と「ユーモア」が感得できる質の高い作品となった。
 この句集は、個人史であるが同時に家族の形成と変容を詠みこんでいる。
  四十路より韓の名名のり盆支度
  帰化せよと妻泣く夜の青葉木莵
  帰化せぬと母の一徹火蛾狂ふ
  冬怒涛帰化は屈服と父の言
  韓の名はわが代までぞ魂祭
  孫生れなば 耶と名づけむ花木槿
 幾つかの句を任意にひろってみれば、この家族の肖像は「在日」の実態と深く結びつく。日本人を妻にもつ夫の両親は堅固な民族心の持主であり、わが子らは混血の新たな人生を持つ。家族三代にまたがる「血」と「地」の葛藤。「泣く妻」と「火蛾狂う」母と「屈服」せぬ父と子らのあいだで三竦みになる「夫」。「夫」は、わが子に添い寝しながら「帰化」すべきかどうか迷う。
 その「夫」にとって、「韓の名は意地の砦」であり、齢四十にして克ちとった人生の旗なのである。
 余談めくが、姜琪東氏は「四十路」までは「大山」という日本姓を使っていた。十数年前に私と会った時、青年時代は夜鳴きそばの屋台を引いていたと語った。その屋号は「大統領」であったとか。夜な夜なチャルメラを吹くこの無名の大山青年は、将来「大統領」になる夢を見ていたのだろうか。まさか、そんなことではないだろう。一国をたばねる大統領ほどの気概をもち、人生のあかしをもとめて生きてきた姿がほうふつとしてくる。その日本とは、根生いの地であるが、「指紋」を強制する「灼け地」であり、「永住」は許されても「韓の悪口」が「他国者」意識をかき立たせる「怨の国」なのだ。
 するどく醒めた感性が、強制送還される在日朝鮮人青年を救いたいと想うときに生まれる一句、
  血のやうな夕焼けの湾船来るな
 光州事件の虐殺(句の注記には「暴動」となっているが)に対しては、
  荒縄で柩縛りぬ梅雨に入る
 このような民族の血のたぎりもまたこの句集の一翼を占めている。
 けれども、「在日」のわが家とか「在日」そのものを問う心がこの句集の核心であることはまぎれもない。
  鳥帰るかなた韓国父祖の国
  チョゴリ着て羞ぢらふ妻や冬薔薇
  韓の歌妻に教へて磯涼み
  萌ゆるより踏まれて巷の草の芽よ
 日本というまほろばに生きる「在日」の多くは、日本人との新たな血縁の中で、抱擁家族としての知恵と愛をはぐくんでいる。この無限抱擁こそが人間の創造につうじ、「怨」と「恨」を愛の世界に誘うものなのだとこの歌人はいっているようだ。
 この句集は、従来の「身世打鈴」ではない。歴史の負の遺産を逆手にとって、明るみの世界に踏み込もうとする「在日」の心優しい男の試みとなっている。

  • 106頁 A5判上製
  • 4-88344-025-7
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1997/10/05発行
青春の丘を越えて 詩人・島田芳文とその時代 松井義弘 石風社 島田芳文 古賀メロディー 詩人 評伝
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青春の丘を越えて
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青春の丘を越えて

歌謡曲「丘を越えて」の作詞者として一世を風靡した詩人・島田芳文の初めての評伝。プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディー「丘を越えて」を初め多くの大衆歌謡を手がけた朗々たる詩精神の彷徨の軌跡。元豊前市立図書館長の著者が、波乱にとんだその人生を、青春時代に焦点を合わせ、豊前市在住の地の利を生かし、二十余年の歳月をかけた力作。

書評

ヒューマンな詩情の根源に迫る

津留 湊

「丘を越えて」(作曲者古賀政男/歌手藤山一郎)で一世を風靡した詩人・島田芳文の初めての本格的評伝。遺族からの聞き取りや未発掘の新資料を駆使して「作品が内包するヒューマンな詩情の根源」に迫る。
 島田芳文は1898年福岡県豊前市に生まれ、大分県立中津中(旧制)から早大政経学部を卒業。早大在学中は、浅沼稲次郎、三宅正一、稲村隆一らと建設者同盟の主力メンバーとして活躍し、民衆詩派の系譜に連なる詩人会(機関誌『新詩人』)に所属した。その後、野口雨情に師事して民謡詩を書き、歌謡界に進出する。戦時下には、師の雨情に習って軍歌の作詞を拒絶し、意識的な沈黙を守った。
 民謡集『郵便船』(詩人会)、詩集『農土思慕』(抒情詩社)の初期作品は、比較的よく知られているが、秋田雨雀が「序文」を寄せた第一創作集『愛光』(私家版)や、1924年創刊の個人誌『濁流』などは、本書で得た新たな知見であった。
 著者は、これらの諸作品を大正・昭和初期の時代思潮のなかに位置づけ、島田の自己形成と文学的成熟の過程を鮮やかに描き出している。
 本書が紹介する妻光子(『女人芸術』同人、深町瑠美子のペンネームで詩集『闇を裂く』がある)からの聞き取りによれば、「丘を越えて」というタイトルは、賀川豊彦『死線を越えて』より着想されたという。
 著者は「『丘を越えて』の向日性こそ、同時代のどの流行歌にもない独自性であり、まさに一点の曇りもない『青春賛歌』」と評する。
 島田芳文は大正期の学生運動より生まれ出た詩人である。

時代思潮が照射する詩人

小正路淑泰
福岡県教育庁勤務

「丘を越えて」で一世を風靡した豊前市出身の詩人・島田芳文(本名義文、一八九八〜一九七五)の初めての本格的評伝である。本書の初出は季刊誌『邪馬台』一九八四年夏号〜八八年冬号というから、すでに二十年以上が経過しており、島田に関心を寄せる人々の間で待望されていた本書の刊行をまずは慶びたい。筆者はデビュー作『黒い谷間の青春──山本詞の人間と文学』(九州人文化の会、一九七六年)の脱稿後、『九州文学』の重鎮・劉寒吉より「松井君、豊前を掘りなさい」との激励を受けたという。 
 近年、ある児童文学研究者が「戦後歌謡と社会」というサブタイトルを付した著書で、「丘を越えて」を「脳天気」な歌であり、「ひたすら『丘を越えて』進軍する軍歌にすりかわってゆく」という、あまりに皮相な誤解、というより不当な評価を下した。地道に豊前を掘り続けた著者は、これに猛然と反論し、終章では、「『丘を越えて』の向日性こそ、同時代のどの流行歌にもない独自性であり、まさに一点の曇りもない『青春賛歌』」と結論づけている。
 かといって、対象に対する思い入れが強すぎるがために、たんなる顕彰に終わりかねないという陥穽にも陥らず、島田に注がれる著者の視線は透徹している。例えば、第七章「民謡詩人の時代」では、島田の第二作・民謡集『郵便船』(詩人会、一九二二年)を取り上げ、島田が師事した野口雨情との比較検討を通して、「島田が雨情のいう『自然詩』についてどの程度理解していたか」との疑念を呈し、「島田の情緒的で甘い体質」と仮借のない指摘がなされている。
 第十三章「結婚」では、島田の第三作・詩集『農土思慕』(抒情詩社、一九二七年)と渋谷定輔の『野良に叫ぶ』(万生閣、一九二六年)を比較。『農土思慕』には、「単なる自然への憧憬を唄う」のではなく、「社会的経済的に、苛酷なる重圧の下にある農民を匤救する為に民心を鼓舞したい」との「自序」があるものの、著者は、「『農土詩派』を名乗る島田の作品」に「相も変わらぬ観念性」、壺井繁治流に言えば、「田圃や農民をその詩の題材の中に取り入れながらも、ふところ手をして歌っているかのような観」を見出す。自小作農青年として「苛酷なる重圧」の真っ直中にあって、農民自治会という「もう一つの農民運動」を展開していた渋谷には、二十町歩を保有する中地主の長男であった島田のような「観念的な田園回帰」や「啓蒙主義的な発想」(第十一章「民衆詩派の人々」)は見られず、同時代評と同様、『野良に叫ぶ』に対する著者の評価は高い。
 本書では、主として「丘を越えて」以前の、島田の青春時代に焦点が当てられる。「島田メモ」と称する未発掘資料──島田(家)旧蔵の大学ノート、いわゆる書斎資料の一つ──から島田の行動を追い、妻の島田光子や島田と旧制中津中の同級生・歌人の大悟法利雄等、関係者からの聞き取りを随所に挿入。新資料とオーラルヒストリーを縦横に織りなすところに、評伝作家としての著者の力量が遺憾なく発揮されている。
 評者は、秋田雨雀が「序文」をよせた島田の第一創作集『愛光』(私家版、一九二一年)の存在や、島田光子が長谷川時雨主宰の『女人芸術』に関係し、深町瑠美子というペンネームで詩集『闇を裂く』を島田夫婦経営の秀芳閣出版部から刊行していたことは、初めて知った。また、島田が中津中在学中の習作期、地方紙『二豊新聞』や『中津新聞』の新聞記者歌人より啄木調の影響を受け、短歌や新体詩(自由詩)を書いていたことや、早大卒業後の一時期、門司新報築上支局主幹、九州新報主筆をしながら、一九二四年に個人誌『濁流』を創刊(未発掘)したことなども新たな知見であった。『濁流』という誌名は、無産政党の輝けるリーダーとなる東大新人会出身・麻生久の自伝的小説『濁流に泳ぐ』(新光社、一九二二)からの感化であったという。
 以上のように、本書の最大の特徴は、大正・昭和初期の時代思潮・精神を丹念に踏査しながら、島田の青春を照らし出すという手法であり、著者の試みは見事な成功を収めている。とりわけ、評者は、第五、第八、第九章の早大建設者同盟と島田に関する叙述が印象深かった。「ヴ・ナロード」(人民の中へ)を目指した初期建設者同盟の主力メンバーは三宅正一、浅沼稲次郎、稲村隆一など政治経済学部一九二三年卒業組、つまり島田と同学部の同級生たちである。島田は彼等の誘いで建設者同盟の同人となり、前年夏の九州遊説に参加して「人間苦とプロレタリア芸術」と題する演説を行っている。(第八章「父と子」)。
 三宅、浅沼、稲村等は、建設者同盟結成以前には、「支那協会」や「亜細亜学生会」という学内団体に加入し、壮大な大陸雄飛の夢を抱いていた。彼等の関心はあくまで「運動」や「政治」という外の世界に向けられ、彼等が志向したものは、ある意味では、黒土村長などの要職を歴任する島田の父碵之助と類似している。「妙に詩人的なところがある」(『雨雀日記』)と評された島田は、父との葛藤を繰り返し、三宅たちとも異なる道を歩むことになる。
 もっとも、三宅たちが、その後、農民運動指導者として活躍し、農村問題の解決に傾斜していくように、島田の詩集『農土思慕』もまた、建設者同盟時代の所産である。この時期、島田の脳裏から片時も離れなかったのは、「社会的経済的に、苛酷なる重圧」(序文)に喘ぐ郷里の小作農民達の姿ではなかったか。
 本書に通底するもう一つの分析視角は、「鄙と都会」との往還である。著者は、島田の「作品が内包するヒューマンな詩情の根源」には「大正時代の『鄙と社会』を結ぶ地下ケーブル」があり、「プチブルでありながら貧困層への温情を湛えた視線が光っている」と述べる。それ故に、「島田の歌謡詩にも、どこかに土着的な表現を残しながら、尚かつ都会の青年男女の自由闊達な心情をも抱き込んでゆく軽快なリズム感」を生み出すことができたのである。
 戦後、「学徒援護会」を定年退職したあとの晩年の島田は、「放浪詩人」(第十七章)という生き方を選び、「まるで執念のごとく、その詩謡世界を内面で掘り下げて行」った。著者は、晩年の作品に、「母ユクへの挽歌」や、「心魂から湧き出た『祖霊の声』」を読み取り、「雨情の涙を振り払ったところで、島田の詩は光り輝くことができた」と評する。

  • 264頁 四六判並製
  • 9788-4-88344-154-9
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2007/11/30発行
ヒロシマ ナガサキ 絆 原爆 中村 尚樹
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名前を探る旅
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¥0円
名前を探る旅

松下竜一氏称賛!


原爆により、長崎三菱工場の六千人以上、広島市女の女生徒七百名近くが、一瞬のうちに命を落とした。その生死を分けたのは、ある偶然であったにせよ、生き残った者にとっても、この世は煉獄であった──死者への思いと行き場のない憤怒が、終りなき鎮魂の旅へ駆り立てる。二人の被爆者の記録。

書評

人間として在ることの意味を問うた一書

 「本書は名もなき被爆者二人の記録である」。あとがきにはそう記されている。長崎と広島に投下された原爆が、さまざまな生ある人びとを一瞬のうちに焼き尽くし、「無名」の死骸に変えてしまったこと、そして生き残った名もなき者が長い沈黙ののち、「名前を探る旅」に出立するまでの葛藤を本書に知るとき、この記録がどれほどに重い意味を持つものであるかを、一読するものは見出すことだろう。中村尚樹著『名前を探る旅──ヒロシマ・ナガサキの絆』は、二人の被爆者の人生を追いながら、人間として在ることの意味を問うた一書である。
 「ナガサキの絆──人間の論理」で綴られるのは、原爆で亡くなった会社の同僚の名簿づくりに取り組む一人の被爆者、原圭三さんの姿である。原爆が炸裂したとき、防空壕堀りをしていた原さんは奇跡的に生き残った。だが、三菱重工長崎造船所の同僚の多くは原爆の犠牲となった。そして自らも原爆の後遺症を抱え、死の影を引きずりながら戦後を生きてきた。「自分が死んでしまえば、自分の記憶の中にある原爆で死んでいった同僚たちのことはどうなるのだ。誰も振り返る人がいなくなってします。彼らの名前をいま、取り戻さなければ、永遠に失われてしまう」。亡くなった同僚だけでも、彼らの名前や死亡状況などを記録した名簿を残さなければならない。生き残った自らの務めとして、原さんは被爆から二九年、長い沈黙を経て名簿作りを決心したのだった。
 こうして、原さんの「名前を探る旅」が始まった。しかしそれは、単に名前だけを記載した名簿作りではなかった。その旅は、名前を持つ一人一人がどのような人生をたどってきたのかを確認する作業なのだと、本書には記されている。死者たちは、もう言葉を発することもできない。その無念さが、原さんを突き動かし続けた。「原の名簿は、原と彼らを結ぶ絆の証なのだ」、本書のなかで著者はそう述べている。
 「あらゆる手がかりを懸命に探せば、その人の名前から、その人の人生が見えてくる。そして彼らは、原爆で無惨にも断ち切られてしまったおのおのの人生について語りかけてくる」。原さんは本書のなかでそう語る。そして「名前を探る旅」は、無縁物をもたどって続けられ、少しずつその名前と身元が明らかになってゆく。名前を探る原さんの作業には、原爆投下の後、遺体を次々に焼け跡で荼毘に付した光景が二重写しになる。名前を一字たりとも間違うわけにはいかない、企業や行政に任すわけにはいかない。原さんの旅は、無念仏のふるさとを訪ね、身元を探す旅へと続けられていった。「名前を探る旅」は、著者のいうように「名前と共に生きる旅」として原さんを駆り立てたのであった。
 「六年という歳月は、恐らく多くの僕たちの記憶を忘却の渕に沈めて行く力を持っているに違いありません。……この文集は、被爆の体験については何も語りたくないという痛切な沈黙の心理と、誰かに向かってこの体験を訴えずには居られない強い衝動との交錯の中から生まれてきたものであります」。一九五一年、京都で「綜合原爆展」が開かれたのに合わせて、冊子『原爆体験記』が作られた。この文章は、当時京大の学生であった宮川裕行さんが序文にしたためたものであった。彼は高橋和巳たちと交友を結び、一時は作家を志し、断念する。そして郷里の広島に帰り、長年高校の教師を務めた。本書の「ヒロシマの絆──父から子へ」は、彼の「名前を探る旅」の記録である。
 やはり教師であった宮川さんの父は、原爆で多くの生徒を死なせてしまったという思いを抱えて戦後を生きた。そして宮川さんは三〇年以上にわたって、自らの被爆体験について沈黙したまま、教師生活を続けてきた。その彼に沈黙を破らせた最大の動機について、著者はそれを「原爆で亡くなった人々に対する鎮魂」であったと書き記している。自分の家族は生き残ったが、原爆で亡くなった人々や家族を失った人々に対して言い訳ができない。その気持が、宮川さんの原点にはあったという。自分は原爆の最も悲惨なところを見てはいない、そうした思いが、彼の長き沈黙と鎮魂、そして被爆体験を語る原点にあったのである。
 「自分だけ生き残ったという罪の意識」。それを抱えながら、戦後を宮川さんは広島で生きた。そして、亡くなった人々に対するつぐないとして、被爆体験を語る彼の姿があった。著者は本書に記している。「宮川の重荷となっていた被爆の体験、即ち両親以外のまわりの人を誰も助けることができなかったこと、たくさんの生徒を死なせてしまったという父の思い、そうしたたくさんの気持を、否定するのではなく、そのまま受け止めてくれる人々がいる──それが死者への贖罪へとつながってゆく。それが、ヒロシマの絆ではないだろうか」。
 一九九四年、広島市立第一高等女学校の生徒たちが原爆投下の一九四五年正月に書いた、書き初め三五枚が発見された。「端正簡素優雅」と楷書でしたためられたその一枚一枚に「昭和二十年元旦」という文字と学年、組、そして筆者の名前が添えられている。その「文の林」に分け入った著者は、書き初めを遺族らに返す宮川さんの作業を描いている。「あの時、みんなと一緒に死んだ方がよかった」という気持を抱きつつ、宮川さんはつぐないとして、彼の「名前を探る旅」を始めたのだった。
 被爆体験を語る宮川さんの旅は、海を越えて被「曝」者となったチェルノブイリの人たち、ロシアのキエフにまで及んだ。そして韓国人被爆者との交流とともに、彼らが被爆手帳を取得するために、その世話や証人探しを手伝う仕事が続く。本書からは、残っている名簿などから見出された彼らの名前が「創氏改名」による日本名であることに、現在も続く戦争の爪痕が浮き上がってくる。宮川さんたちに投げられた、一人の在韓被爆者の「だますなよ!」という言葉に、原爆とともに、日本の植民地支配がもたらした一人一人のなかの「戦争」が明らかになるのだった。
 長崎と広島に生きる二人の「名前を探る旅」。そしてその二人の名前に込められた人生をたどる、ジャーナリストとしての著者自身の「名前を探る旅」が本書に実を結んでいる。

蒼氓という言葉がある。

松下竜一
作家

 蒼氓という言葉がある。無名の庶民一人ひとりをさしていう言葉だが、重く寂しい影を曳いている。本書を読みつつしきりに浮かび来るのが蒼氓という言葉だった。
 本書ナガサキ篇の主人公原圭三は、三菱重工長崎造船所に勤務していて被爆しかろうじて生き残った一人である。〈原の働いていた浜口町工場では、動員学徒や食堂員などを含めて三百四十八人の作業員の内、九九%以上が亡くなった。〉
 自分だけが生き残ってしまったという心疚しさは、戦後が遠くなっても原の心から消えることはなく、被爆後二十九年目にせめて〈三菱造船所で亡くなった同僚だけでも、正確な名前と被爆した場所や当時の状況についてきちんと一覧出来る名簿をまとめようと決心〉する。四十九歳であった。本来は国や県や市や会社がしていなければならないことが、なされていなかったのだ。
 まぎれもなく一九四五年八月に生きていながら、原爆によって一瞬の内にかき消され名前すら記録にとどめられない蒼氓一人ひとりを、原は執念をもって生き返らせていくのである。その作業の困難さにもう止めようとすると、夢に黒焦げの男たちが押し寄せて「俺もおる、俺もおる」と叫ぶのだという。自らも癌と闘いつつ、原が二十年がかりでまとめた名簿には六千二百九十四人の名が並んでいた。名前が明かされることで、一人ひとりの生が復権されたのだ。原圭三氏がなしとげたことの尊さに頭を垂れずにはいられない。
 著者は長崎の放送局に勤務中に、「被爆地ナガサキ」の話題のひとこまにはなるだろうというくらいの気持ちで原圭三の取材を始めたが、その執念の重さに惹きこまれてゆく。ついには放送局をやめフリーライターとして、最初のドキュメントとなる本書をまとめることになる。ヒロシマ篇まで紹介できなかったが、戦後五十余年を経てもなお掘り起こすに足る蒼氓の記録が埋もれていることを証したのは、著者の手柄といっていい。

  • 四六版並製 298頁
  • 4-88344-063-X
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2000/08/15発行
佐藤慶太郎 東京府美術館 斉藤泰嘉 筑波大学 筑豊 炭鉱 石炭の神様 カーネギー
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佐藤慶太郎伝
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¥0円
佐藤慶太郎伝

日本のカーネギーを目指した九州若松の石炭商・佐藤慶太郎。「なあに、自分一代で得た金は、世の中んために差し出さにゃ」。巨額の私財を投じ日本初の美術館を建て、戦局濃い中、佐藤新興生活館(現・山の上ホテル)を建設、「美しい生活とは何か」を希求し続けた男の清冽な生涯を描く傑作評伝。

書評

美術館に私財「石炭の神様」

千龍正夫
北海道新聞・編集委員

 東京・上野公園の東京都美術館(都美)一階講堂の横に小さなブロンズの胸像がある。佐藤慶太郎像。伝記の著者は取材場所にこの美術館を指定した。
 佐藤慶太郎は一八六八年、現在の北九州市八幡西区生まれ。太平洋戦争開戦前年の一九四〇年に死去。産炭地・筑豊の石炭商で、「石炭の神様」とたたえられた。都美は佐藤が寄付した私財百万円、今の貨幣価値では推定三十三億円で二六年に開館。当時の名称は東京府美術館、日本初の常設美術館である。
 著者は五一年、山口市生まれ。七七年、開館したばかりの道立近代美術館学芸員となり、八〇年に都美に移った。「北海道は私の人生の出発点。三年間は私の財産です。都美では佐藤慶太郎の存在を初めて知り、その生涯を調べ始めました」。都現代美術館を経て筑波大芸術学系教授の現在に至るまで約二十年間をかけて佐藤の伝記をまとめた。「すべてが何かによって計算されている気がします」。佐藤の人生を語る言葉は、著者自身にも通じる。
 筑豊の商家に生まれた佐藤は明治法律学校(明治大)を卒業したが、病弱で法律家となる夢を断念し帰郷。地元の石炭商の婿となり、やがて独立、後年には炭鉱経営にも乗り出す。その大江炭鉱は明治末年、夕張、九州・三池と並ぶ国内主要炭鉱の一つである。その全資産の半分を美術館建設に投じる決意は、仕事で上京中に読んだ常設美術館の開設を切望するという新聞の社説がきっかけだった。
 佐藤の人生哲学を示す語録。「信用という無形の財産を築きたい」「富者はただ(財産の)善良なる管理者であれば足りる」「公私一如」。これらの言葉は世界の鉄鋼王と呼ばれ、社会事業に尽力したアメリカのカーネギーの影響もうかがわせる。
 「彼は東京というより日本の文化のためを考えていたのでしょう。世界の中での日本文化はどうあるべきか、さまざまな視点で考えた人です」。晩年の佐藤は「美しい生活とは何か」を追求し、生活レベルで国の立て直しを考える「新興生活館」を東京・神田に設けた。その本部が文化人ホテルと言われた現在の山の上ホテルである。
 近代日本の工業化と経済大国への原動力となった石炭。そして国策による閉山。全国の旧炭都は今なお栄枯盛衰の負の遺産の重圧にあえいでいる。その顕著な例を今日、われわれは夕張に見ている。
 都美は七五年、現在の建物に改築され、再来年以降の改修が検討されている。

〝日本のカーネギー〟に倫理を学ぶ

舛添要一
参議院議員、掲載当時は厚生労働大臣

 賞味期限改ざんなどの食品をめぐる事件が相次ぎ、企業経営者のモラルが問われている。これと対極にあるのが、本書の主人公、佐藤慶太郎である。
 慶太郎は、明治元年に生まれ、筑豊炭田を背後にかかえる若松市で石炭商を営み、富を築いていく。石炭について熱心に研究し、顧客の信用を勝ち得ていく。彼が、模範としたのは、アメリカの財閥、カーネギーで、その「人冨みて死す、その死や恥辱」という生き方に感銘を受ける。佐藤は、「金銭貯蓄以外、使用する事を考えぬ人にとっては、私のやり方が不思議に思われようが、私からみれば、左様な人は、何のために働いたか、何のために金を儲けたか、寧ろ不思議に思うのである」と記している。
 佐藤は、奨学金を前途有為な若者に贈ったりして、「日本のカーネギー」を実践していく。そのような活動の中で、日本に常設美術館がないことを嘆く「時事新報」の社説(1921年3月17日)を読んで、建設費を全額寄付することを決める。自分の財産の半分の100万円(今の価値にすれば約32億5千万円)である。これが、東京府美術館である。上野の森の東京都美術館には、私もよく足を運ぶが、このような建設をめぐる経緯は知らなかった。日本美術史に残る快挙と言ってよい。
 慶太郎は、その後も社会貢献の活動を続けていく。もともと身体が弱く、胃腸病に悩む彼は、1925年に二木謙三医学博士に出会い、食餌療法を勧められ、咀嚼に励むなど食生活を改善して、健康を享受するようになる。そして、農村再生を目指す福岡農士学校の設立を支援したりする。また、「富士山麓の聖者」山下信義や「汗愛主義に立てるほんとうの暮らし方」の著者、岸田軒造に出会い、その生き方に感銘を受ける。そして、全財産150万円を投じて、佐藤新興生活館を船出させ、国民生活明朗化のための生活維新運動を展開していく。
 その生涯は、まさに「日本のカーネギー」そのものであり、このような人物が戦前の日本に存在していたことを日本人として誇りに思う。そのようなさわやかさに満ちた一級の伝記である。

金持ちよ 大志を抱け!

樋口伸子
詩人

 徳と金銭とは相性が悪い。つくづくそう思えるような事件が増え、いちいち驚いてもおれない。しかし、『佐藤慶太郎伝』を読み、福岡県若松の一石炭商が日本初の東京府(都)美術館建設費の全額を寄贈したと知って驚いた。
 本書によれば、明治元年生まれのこの篤志家は若き日にカーネギーの伝記に感動して、「他日金銭を以て人類社会に奉仕しようと決心した」のだった。彼には、大きな徳と金が同居することができたのである。
 一九二一(大正十)年、日本に常設美術館を切望する新聞の社説を見るや、慶太郎は東京府知事に電話をして建設費の寄付を申し出る。東京出張中のことで、半年後に百万円を現金で納めた。今の三十三億円に当たる額は、資産の半分だったという。刻苦勉励を経て事業でなした私財を自分の贅沢に使わず、終生、世のためにという初志に従った。
 ここで清廉にも富にも縁がないどころか、微小な募金にさえ逡巡する私が、同県というだけで佐藤自慢に走るのはおこがましい。けれでも金で心をなくす人が多い世だからこそ、ただの金持ちと富豪の違いや、現在の美術館問題にまで思いはめぐるのだ。

 そういえば、近年はメセナ(企業の文化支援)という言葉をとんと聞かない。マスコミの喧伝もあって猫も杓子もメセナの一時期があったが、いまや企業も自治体も生き残るためにはなりふり構わない時代だ。
 そのメセナの元祖ともいうべきメディチ家で有名な、イタリアはフィレンツェに二度行きながら、あのウフィツィ美術館に行かなかった私はよくからかわれ、なんてもったいない、という顔をされる。
 そんなにもったいないかなぁ。どこでも美術館みたいな都市である。二回とも入らなかった理由はあるのだ。以前はルーブルもプラドもちゃんと行ったのだ。ピカソ美術館以外は人ばかりで、何をどう観たのか記憶にない。代わりに、建物や内部装飾などが印象深い。
 思うに私は美術自体よりも館に興味があったのではないか。何しろわが福岡市では長い間、美術展はデパートで観るものだったから、一九六〇年代の在京時には学びもせずに文化施設の集まった上野の森によく行った。鬱蒼とした緑の周辺は、私にとって西欧文化への憧憬と疑似体験の充たされる場であり、本物抜きで夢想に遊ぶのは貧者の特権である。
 当時は赤坂離宮(今の迎賓館)が国会図書館だったし、そういった都内でお気に入りの場所のひとつが旧・東京都美術館であった。これは図書閲覧や美術鑑賞という本来の目的とは別の愛好である。要するにハコ好き。
 文化のハコ物行政が槍玉に上るが、どうぞ資金さえあれば、簡単に壊せない堅牢なものをお建てください。都市景観として和むし、行く人もあれば、行かない人もあるだけだ。
 
 現在、全国に公・私立の美術館がどれくらいあるのだろうか。あの世の佐藤が知れば、さぞ驚くだろう。そして自分が寄贈した重厚な美術館が、美の殿堂として長年親しまれていたのに、一九七五年の新美術館建設時にとり壊されたと知ればもっと驚くだろう。日本美術界の大恩人とまで呼ばれながら、玄関にあった佐藤の銅像も、一時期は収蔵庫にしまわれたままだったと、著者は憤慨ぎみだ。
 著者の斉藤泰嘉氏は同館の元学芸員で、少年期の思い出もある都美術館の歴史と佐藤慶太郎に興味を抱き研究を続けてきた。現在は筑波大学芸術学系の教授。資料の丹念な参照や探訪をもとにした衒いのない記述からは、篤実な等身大の主人公が浮かび上がる。勘違いしないでください。その等身大というのが超特大のサイズです。
 彼は事業を閉じての晩年、国民の生活習慣の改善を願い「佐藤新興生活館」を設立運営のために、百五十万円の私財を投じた。建物は現在、神田駿河台の山の上ホテルになっている。これまた文学者にとっては別格の宿。美術と文芸の象徴的な二つの建物が佐藤の力によるというのが面白い。すぐれたハコは大切にされて長く残るのだ。
 これほどの人物が地元でもあまり知られていないのは、なぜか。推測すれば、施設が遠い東京であったこと。財閥や企業「メセナ」でなく、個人であるがために企業イメージの宣伝と無縁だったこと。一時期修猷館に籍を置いたことも知られていない。つまりは、こういう人を「陰徳の士」というのだろう。
 「自分一代で得た金は、世の中のために差し出さにゃ」が、佐藤の口ぐせだったとか。自分のために使うのがただの金持ちで、人のために使うのが富豪だ。何だかトーンが下がります。他人の財布のことをあれこれ言うのは、僻みやたかりと同根みたいで。
 せめて、言おう。金持ちよ大志を抱け! 自家用飛行機や豪邸なんて遠慮せずに、超富豪になって地球を丸ごとでもお買いください、と。

  • 四六版上製335頁
  • 978-4-88344-163-1
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/05/30発行
バテレン 布教 キリスト教 宗麟 豊後 加藤知弘 地中海学会賞 ザビエル ロドリゲス
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バテレンと宗麟の時代
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バテレンと宗麟の時代

地中海学会賞・ロドリゲス通事賞受賞


戦国時代、それはキリスト教文明との熾烈な格闘の時代でもあった。アジアをめざす宣教師たちの野心が、豊後府内の地で大友宗麟の野望とスパークする。世界史的な視点で平易に描かれた戦国史

書評

異文化交流導いた人の出会い

阿蘇品保夫

「異文化交流の歴史には、偶然と人間関係が大きな役割を果す」と著者はいう。東へ向かったザビエルと、西へ向かったトルレスの出会い。ザビエルは日本の豊後にキリスト教の種を播き、トルレスはそれを育てた。しかし、この両人の働きには、さらに大友宗麟との出会いが必要であった。
 大分合同新聞に連載の「豊後と異国の物語」をまとめた本書は、「グローバルな歴史の流れと異文化の地域への伝わり方」を結びつけて考えるという世界史的視野で、地域と人をとらえているところに特色がある。
 宗麟が他の大名たちと異なったのは、ヨーロッパの物質文明である鉄砲・大砲にも彼らと同じく興味を示しながらも、他にさきがけてヨーロッパ精神文化に強い関心を示したことであり、その真剣さが宣教師たちの信頼を得たのであろう。しかし、彼は慎重であり、寄進や布教許可は与えても、改宗の意思は明らかにせず、禅宗にもかかわって宗麟と称する。彼が受洗しフランシスコを称するのは隠退後の天正六年のことである。
「私が再び大砲を求めますのは、海岸に住んで敵と境を接しているため、これが大いに必要なものだからです。私が領国を守り、これを繁栄させることができるなら、領内のデウスの会堂、パードレおよびキリシタンたち、ならびに当地に来るポルトガル人一同も繁栄するでしょう」
 宗麟が単純な好意から宣教師たちの活動を援助したというより、内外諸地域の動向を注意深く把握しながら、イエズス会布教活動をも彼の政略の一端として利用し、イエズス会もその意図を心得て動いたと考えるべきだと著者はみる。
 十六世紀後半は豊後国が日本の歴史の中で最も輝いた時代であった。中世以来の伝統を背負い、九州諸国の大半を抑え、日本のみならず「豊後の王」の名で海外まで知られた男が演出し、体現したものは、大航海時代の西欧世界と、国内統一を目前にした戦国期日本社会を巧みに汲み上げたさまざまな人々のエネルギーの輝きであったのである。

  • 四六版上製426頁
  • 4-88344-016-8
  • 定価:本体価格3000円+税
  • 1996/11/30発行
外国航路 石炭夫 大恐慌 最底辺 日記 石風社 広野八郎 プロレタリア 労働者 葉山嘉樹
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外国航路石炭夫日記
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外国航路石炭夫日記

葉山嘉樹「これはきみの傑作だ。たいせつにとっておきたまい」。


葉山嘉樹「これはきみの傑作だ。たいせつにとっておきたまい」。
1928年(昭和3)から4年にわたり、インド/欧州航路の石炭夫として大恐慌下を生き抜いたひとりの労働者が、華氏140度の船底で最底辺の世界を克明に記した記録。葉山嘉樹が「これはきみの傑作だ。大切にとっておきたまい」と評した、プロレタリア文学、もうひとつの金字塔。

書評

「青春の碑」の労働日記

荒俣 宏
作家

『外国航路石炭夫日記』を読んで、じつに楽しくおもしろかった、と感想を述べれば、不謹慎のそしりを免れぬかもしれない。でも、非常に興味ぶかい内容なのである。本書の副題、「世界恐慌下を最低辺で生きる」というコピーを読むかぎり、残虐ホラー小説のような小林多喜二の『蟹工船』や、外国映画みたいにパワフルな葉山嘉樹の『海に生くる人々』といった暗黒のプロレタリア文学を連想しがちである。実際、この日記には冒頭から、耐え難いほど激しい船酔い、船底で缶(かま)に石炭をくべつづける労働の苦痛、陸へ上がれば女郎屋と酒屋で有り金を使い果たし、高利の借金のみが残る不毛な日常を、描いてはいる。しかし、そうした過酷な労働実態を告発するだけでなく、外国船で東南アジアからフランス、ベルギーなど西欧諸国までを巡る海外見聞体験が、ことのほかおもしろいのだ。じつは著者、広野八郎は、石炭夫見習いとはいえ養成所を経て日本郵船に採用された社員であり、航海中に勉強する本を持参したり、人気作家だった葉山嘉樹の家を直に訪問するほどの熱意ある人物だった。
 その広野が、インドのカルカッタでは、難破船の乗客を救助し、インド人たちの大げさな感謝の仕草を観察したり、フランスのマルセイユでは男女の痴態を扱ったおぞましい映画を見せる「店」の下品さに辟易し、またアントワープでは、たまたま開催中の万博を見物、日本館の展示を見て、雑貨商店の品揃えと同程度の粗製品にがっかりする。この日本館では、振袖の娘がサービスする茶だけが人気であったとも書く。にもかかわらず、実家では家族が送金を待って居ることを重々承知の上で、港に着けば性欲に屈して女郎屋へ行ってしまう自分。日本一大きな海員組合に属しながら、会社のいいなりに動く組織と自分。それらを、上質の青春小説のように記述した日記なのである。一人の下級船員が体験した魂の修行時代、その舞台が国際世界を包む規模と深遠さとを備えていた事実に、驚くばかりだった。

過酷な労働克明に描く 『外国航路石炭夫日記』が復刊

白山誠

『外国航路石炭夫日記』は、約30年ぶりに復刊された本だ。小林多喜二の小説「蟹工船」(1929年発表)と同時代に、下級船員が体験した過酷な労働や、船員を食い物にする船幹部の姿が克明に描かれており、近年注目を浴びるこの小説の世界を思い起こさせる。

 著者は広野八郎さん(1907-96年)。長崎県萱瀬市(現・大村市)の出身で、1928年、欧州航路の貨物船、貨客船に乗務した。その頃、プロレタリア文学作家の葉山嘉樹(福岡県出身)と知り合い、同人誌「文芸戦線」に参加。船員のほか、戦後にかけて炭鉱や工事現場で働いた体験記などを書き続けた。
『日記』は28年11月から、船員をやめた直後の31年6月まで続く。広野さんは、汽船の石炭庫から火炉まで石炭を運んだり、かまの中の燃えかすを取り除いたりする作業に従事。欧州航路の貨客船では、室温が約60度(カ氏140度)にも達する所で働いた。当番は昼と夜に4時間ずつ。しかし、それを終えても様々な仕事を命じられ、休息する間はない過酷な日々だったという。
〈蒸し風呂同然だ。二〇分とはいっていたら、息がとまりそうだ。(中略)あまりのくるしさに、私たちはぶっ倒れそうになって、倒れぬうちにどうにかデッキにはってでた〉
 同僚が倒れる場面にも遭遇した。〈川野は、キイーッと言う声とともに歯を食いしばって仰向けにふんぞり返った。両股から、すね、両腕は、まるで石のようにかたく筋がつっている〉
 卒倒したり、病気にかかったりして体調を崩しても休めない。上司の火夫長からどなられ、仕事を強いられた。閉じられた職場で火夫長やその取り巻きは下級船員を酷使し、時には暴力もふるった。
 この火夫長は、部下を相手に月2割の高利で金貸しもしていた。給料はすべて差し押さえられ、さらに借金を重ね、船員をやめるにやめられぬ者も多数いたようだ。本書解説によると、当時の日本の船舶には職長による「高利貸し制度」が、普通にあったようだ。
「蟹工船」では、労働者は団結して抵抗するが、現実はそうはならなかった。その頃は世界恐慌の中で、船員らは不平を漏らしても、職を失うのを恐れ、ひどい扱いにますます甘んじるようになった。
〈船内のかれらはなかなか動かない。しっかり現在の仕事にかじりついて、はなれまいと必死である。海上労働のあらゆる不合理をなげきながら、かれらは職を失うことをおそれてかじりついているのだ〉
 不当な待遇に耐えて、いくら働いても悲惨な状態から脱出できない。『日記』の記述から、ワーキングプアとも言われる現代の問題が浮かんでくるようだ。
 最初の刊行は78年。タイトルは『華氏一四〇度の船底から 外国航路の下級船員日記』(太平出版社)だった。今回の復刊にあたり、船員用語の注釈などをつけた。

「佐賀新聞」有明抄

園田寛

 ある会合で海外によく出掛けるという人と、自殺者数の話題になった。「ブラジルはもっと失業率も高く、貧困家庭も多いけど自殺することはない」。この11年間、日本の自殺者は毎年3万人を超す。率にすると先進国の中ではトップクラスという。
 自殺の理由はそれぞれで一概には言えないが、日本人の生き抜こうとする力が弱まっているのではないか。高度成長時代は、高校、大学、就職とベルトコンベヤーに乗れば、生涯が保障された。ところがコンベヤーから振り落とされると、自分の全人格が否定されたと思い、悲観的になりすぎてしまう。
 佐賀市出身のプロレタリア文学作家、故広野八郎さんの『外国航路石炭夫日記』が復刻された。1928(昭和3)年から4年間、インド、欧州に向かう大型貨物船の石炭夫体験を書いている。悲惨な状況ながらも広野さんの生命力はたくましい。
 華氏140度(摂氏60度)の船底で石炭をたく仕事は苦難を極めた。火夫長の機嫌を損ねればさらにきつい労働を命ぜられる。それでも広野さんはへこたれず、マルセイユやナポリの街を楽しむ余裕も見せる。不払い賃金の支払いを要求し直談判も行った。
 広野さんは「海に生くる人々」で知られるプロレタリア作家葉山嘉樹の門をたたき、生涯、最底辺の労働者の世界を描き続けた。福岡市に住む広野さんの長男でイラストレーターの司さんは、日記の文字に乱れがない父の文学に対する思いの強さを感じたという。
 当時は世界大恐慌が起こり、日本でも労働争議が増えた。今の時代とよく似ている。体はくたくたになりながらも、冷静な目で観察し続けた広野さんの日記には、これからの時代を生き抜くヒントがある。

  • A5判並製376頁
  • 978-4-88344-175-4
  • 定価:本体価格2800円+税
  • 2009/06/15発行
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