書評

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身世打鈴 シンセタリョン 姜琪東 大山 姜 差別 在日 韓国 朝鮮 俳句 石風社 俳句集 パンチョッパリ
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身世打鈴(シンセタリョン)
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身世打鈴(シンセタリョン)

燕帰る在日われは銭湯へ──「本書はいわゆる〈句集〉ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ(半日本人)と呼ばれる男の精いっぱいの抗いである。/考えてみれば、韓国人の私が日本語で考え、話し、書くという行為は決して自然な姿ではない。だが、この不自然な姿こそが私の姿そのものであり、私の俳句である」(本書あとがきより)

書評

折々のうた

大岡 信
詩人・評論家

  河豚の座の韓の悪口(あっこう)吾(あ)を知らず  姜琪東
『身世打鈴』(平九)所収。題名は身の上話の意味の韓国語。昭和十二年高知県生の韓国人。加藤楸邨に傾倒し「寒雷」同人となる。楸邨に最も信頼された門弟の一人。
 句はむろん在日韓国人として受けてきた屈辱の一こま。河豚に舌つづみをうちながら、韓国人がいるとも知らず韓国の悪口を言い合うありふれた日本人像。楸邨没後俳句への情熱も急速に冷え、思いたって句集二冊をまとめた中の一冊。

俳句で綴る「在日」の哀歓

姜琪東
俳人(自著を語る)

 在日韓国人が俳句という最も日本的な表現様式で己の生きざまを鮮烈に詠む。そのねじれの中に、その慟哭の中に、人間が存在する──『身世打鈴』の新聞広告のコピーである。「そのねじれ」とは、韓国人でありながら日本固有の文芸である俳句をつくることに対する私自身の複雑な心情をさしているのである。
「趣味は?」と訊かれて「俳句です」と答えると、たいていの人が驚いたような顔で私を見返す。口にこそ出しては言わないが「在日韓国人のあなたが、どうして?」という表情である。
 俳句を作るようになって二十六年。この間「よりによって、なぜ俳句なのか」という目に見えない詰問に取り囲まれてきた。先の広告文ではないが「最も日本的な表現様式である」俳句に深入りすることは、韓国人の魂を奪われることであり、民族的アイデンティティーを喪失することではないか、という自虐の念がいつも頭の片隅に潜在していた。

  ビール酌むにつぽん人の貌をして
  燕帰る在日われは銭湯へ
  草笛や韓の歌とは気づかれず

韓国人(朝鮮人)でありながら日本に生まれ、祖国の文化圏からへだたったまま■異国日本■の文化にどっぷり浸かって生きているのが〈在日〉なのである。日本のテレビを見、日本の新聞・雑誌を読み、年がら年中日本語の中で暮らしていて、それでも日本に同化しないで韓国人の矜持をたもちつづけることは、伝染病の病室に閉じこめられて感染するなと言われるようなものである。
 在日韓国人・朝鮮人社会では、日本に同化することをいさぎよしとしない風潮が根強く残っている。もしも在日の若い女性が日本の振り袖でも着ようものなら、一世の年寄りたちは「哀号!(アイゴウ)」と声を上げて嘆き、親のしつけが悪いと言ってののしることになるだろう。韓国人にとって日本への同化は屈服なのである。

  帰化せよと妻泣く夜の青葉木菟(あおばづく)
  帰化せぬと母の一徹火蛾狂ふ
  冬怒濤帰化は屈服と父の言

「なぜ俳句なのか」という設問にそろそろ結論を出さなければならない。在日をテーマとして書くとき、なぜ俳句でなければならないのか。私自身上手に説明できない。なぜ山に登るのかと問われるのと同じである。だが、詠むことで救われ励まされる私があり、俳句を通して新しい自分を発見することがあるのである。
 風土の中で人間性がつちかわれていくとき、その国の文化や慣習に感化されていくことは当然のなりゆきであろう。私が日本の俳句という詩形に巡り合ったこともまた同様である。そのことを日本社会への同化と非難するなら、私はその言葉を甘受する覚悟である。そもそも自分の思考形態が日本語で始まったことが、宿命の始まりなのである。

  迎火や路地の奥より身世打鈴  
  寒燈下母の哭くとき朝鮮語
  鳳仙花はじけて遠き父母のくに

 身世打鈴とは身の上話という意味である。韓国人は唄うように泣きながら、辛いことや悲しいことを延々と語る。泣き語ることで胸のうちを晴らすのである。
「本書はいわゆる■句集■ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ(半日本人)と呼ばれる男の精いっぱいの抗いの記である」とあとがきに書いた。私が、俳句で在日の姿を綴るということは、俳句という名の短刀(どす)を逆手にとって日本人の胸元に突きつけることなのである。

  宿命や吾に国籍蚊に羽音
  韓の名は意地の砦よ冬銀河
  「恨(ハン)」と「怨(オン)」玄界灘に雪が降る

無限抱擁の優しさ

李 恢成
作家

 句集『身世打鈴』は、十七文字の中に凝縮された「在日」韓国人・朝鮮人の世界である。或いは、「在日」と「日本人」のはざまを生きる人間の情念が率直に告白されている精神世界だともいえるだろう。
 姜琪東氏のこの句から私は、氏が日本人の従来の俳句とはおのずと異なる境域に立っているのを感じたが、それは「身世打鈴」という、おおかたの日本人にはエキゾチックに響くかも知れないタイトルのせいでは勿論ない。この言葉にこめられた「恨」とか「怨」の感情領域が、日本語を活性化し異化しながら、その世界をおしひろげようとしているからに外ならない。こうした日本語は祝福されるべきものであろう。なぜならば、言語とは歴史の中で規範をこえ異域をひろげていく自己要求をもつものだから。まさにその意味でこの句集は、「在日」の生命力をバネにし、新境地に迫っているともいえる。
  河豚の座の毒も食らはむパンチョッパリ
 この一句には注記があり、
 「”パンチョッパリ“と嘲笑ふ者あり、それもよし。我は半日本人なり」とある。
 在日二世の、開き直った心境を披瀝したものであろう。「半日本人」であれば「半朝鮮人」でもあるわけだ が、こういう引き裂かれた人間の感覚を誰が笑いえようか。筆者もまた「在日百年」の歴史の落し子以外の何物でもない存在である。
  燕帰る在日われは銭湯へ
 この一句は、どう読みこまれるべきなのだろう。 徊趣味とか余裕派というたぐいのものではあるまい。これは、「在日」として生きる心を謳ったマニフェストなのだ。「銭湯へ」とは、平常心の表白であり、筆者が辿りついた心懐とみなされよう。「燕帰る」とはたんなる季語とはいえぬ政治的寓意をしのばせているものとも解される、鋭い季語だ。しかし、この句の本旨は、現実逃避におもむいてはいない。現実をありのままに受容し、あわてずうろたえず、むしろ楽しんでいこうとする自然体の心がにじんでいる。その澄んだ境地から「軽み」と「ユーモア」が感得できる質の高い作品となった。
 この句集は、個人史であるが同時に家族の形成と変容を詠みこんでいる。
  四十路より韓の名名のり盆支度
  帰化せよと妻泣く夜の青葉木莵
  帰化せぬと母の一徹火蛾狂ふ
  冬怒涛帰化は屈服と父の言
  韓の名はわが代までぞ魂祭
  孫生れなば 耶と名づけむ花木槿
 幾つかの句を任意にひろってみれば、この家族の肖像は「在日」の実態と深く結びつく。日本人を妻にもつ夫の両親は堅固な民族心の持主であり、わが子らは混血の新たな人生を持つ。家族三代にまたがる「血」と「地」の葛藤。「泣く妻」と「火蛾狂う」母と「屈服」せぬ父と子らのあいだで三竦みになる「夫」。「夫」は、わが子に添い寝しながら「帰化」すべきかどうか迷う。
 その「夫」にとって、「韓の名は意地の砦」であり、齢四十にして克ちとった人生の旗なのである。
 余談めくが、姜琪東氏は「四十路」までは「大山」という日本姓を使っていた。十数年前に私と会った時、青年時代は夜鳴きそばの屋台を引いていたと語った。その屋号は「大統領」であったとか。夜な夜なチャルメラを吹くこの無名の大山青年は、将来「大統領」になる夢を見ていたのだろうか。まさか、そんなことではないだろう。一国をたばねる大統領ほどの気概をもち、人生のあかしをもとめて生きてきた姿がほうふつとしてくる。その日本とは、根生いの地であるが、「指紋」を強制する「灼け地」であり、「永住」は許されても「韓の悪口」が「他国者」意識をかき立たせる「怨の国」なのだ。
 するどく醒めた感性が、強制送還される在日朝鮮人青年を救いたいと想うときに生まれる一句、
  血のやうな夕焼けの湾船来るな
 光州事件の虐殺(句の注記には「暴動」となっているが)に対しては、
  荒縄で柩縛りぬ梅雨に入る
 このような民族の血のたぎりもまたこの句集の一翼を占めている。
 けれども、「在日」のわが家とか「在日」そのものを問う心がこの句集の核心であることはまぎれもない。
  鳥帰るかなた韓国父祖の国
  チョゴリ着て羞ぢらふ妻や冬薔薇
  韓の歌妻に教へて磯涼み
  萌ゆるより踏まれて巷の草の芽よ
 日本というまほろばに生きる「在日」の多くは、日本人との新たな血縁の中で、抱擁家族としての知恵と愛をはぐくんでいる。この無限抱擁こそが人間の創造につうじ、「怨」と「恨」を愛の世界に誘うものなのだとこの歌人はいっているようだ。
 この句集は、従来の「身世打鈴」ではない。歴史の負の遺産を逆手にとって、明るみの世界に踏み込もうとする「在日」の心優しい男の試みとなっている。

  • 106頁 A5判上製
  • 4-88344-025-7
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1997/10/05発行
別府華ホテル 観光王と娘の夢 佐和みずえ 石風社 別府 観光 温泉 油屋熊八 温泉旅館 旅館 繁盛
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別府華ホテル
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別府華ホテル

奇抜なアイディアと規格外の行動力で日本一の泉都を築いた観光王・油屋熊八をモデルに描かれた繁盛記。地獄巡りの開発、温泉マークの発明、観光バスガイドの創設、九州横断道路の提唱、はては富士山頂に「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の柱を立てて別府観光の礎を築いた男の、とその娘の生涯を描く。

書評

涙、涙の「冒険譚」

中谷健太郎
地域生活圏研究所所長

 大正三年(一九一四)、三月下旬にカナダのバンクーバーを出港したアメリカ汽船コロラド号の、波おだやかな船上からこの物語は始まる。「グッモーニン、バロン。本日も仔牛のステーキになさいますか?」
「バロン」と呼ばれる、(背広のボタンが今にも弾けそうな…)「油屋熊八郎」と、(首筋から肩、肩から腰にかけて…小さな顔の中に、大きな涼しい目、先がツンと上を向いた鼻、笑うと白く健康な歯がこぼれる)少女「華乃」の、波瀾万丈の物語だ。
 時は日本近代の夜明け、年号は明治・大正・昭和に渉る。海を隔てた中国大陸に向き合って、登場人物たちの「江戸の名残の心意気」が九州・別府に炸裂する、と言いたいけれど、歴史の仕掛け舞台はちょっと甘い。炸裂するのは熱血「熊八郎」と元芸者「辰子」、それに、なんと言っても凛々「華乃」と逞しい漁師「襄一」の大恋愛物語である。それがなんとも劇画調でわかりやすく、私はあちこちのページで涙ぽろぽろだった。
 むろん当時の別府温泉が舞台である。目抜きの「流川通り」を埋立てて、その突端に「桟橋」を構築し、町の内外に乗り合いの「観光バス」を走らせ、地獄見物他の「遊覧ルート」を創設する。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」。どれもが黎明期の別府に展開された実話の「冒険譚」である。しかしそれでもやっぱり、これは「夢物語」なのだ。登場人物は「そっくりさん」たち、懐かしい「教養小説」、そう、「主人公の人格形成、発展を中心として書かれた小説」(広辞苑)、もっと、えげつなく言えば「読んで賢くなる小説」である。
 涙の隙間に立ち止まって私はちょっとだけ賢くなった。二十八歳で由布院に帰り、自分で「旅館経営」を始めた頃の、眩しいばかりの「夢」と「緊張感」、日々の「苦労」と、返ってくる確かな「喜び」を、まざまざと思い出した。七十二歳の今、もう一度あの「煌めきに満ちた冒険の日々」に向き合ってみようと思い始めている。

「大分合同新聞」東西南北

「大分合同新聞」東西南北

 一枚の写真から、その小説は生まれたという。そこには数々の奇抜なアイデアで別府温泉を有名にした油屋熊八が、一人の娘と一緒に並んで座っている。このほど、彼をモデルに描いた小説「別府華ホテル 観光王と娘の夢」が発刊された▼著者は劇画の原作や児童書などを手掛けている大分市在住の佐和みずえさん。写真の女性から架空の娘、華乃を登場させ、熊八が米国から帰国後、別府で活躍する生涯を描いた。物語は娘の恋もからみ、親子の涙ありの奮闘ぶりがまるでドラマを見るように展開する▼小説とはいえ、時代背景と熊八の功績は各所に織り込まれている。ホテルを経営する傍ら、地獄巡りを開発したり、全国で初めて観光バスガイドを導入したり。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と富士山頂に標柱まで立てた。彼の痛快な人生を物語を通して学ぶことができる▼佐和さんはかつて別府市に住んだ時、公園で見つけた記念碑で初めて熊八のことを知った。ユニークな名前。しかも自分と同郷の愛媛県宇和島市生まれだったことから、いつか小説にしたいと思ってきた。ここで出会ったのが一枚の写真。構想が一気に広がったという▼国内外に別府観光を知らしめた熊八。次々と繰り出した大胆な発想と行動力には驚くばかりだ。もてなしの心を大切にし、何事も前向きに他地域と連携するなど、彼の精神は忘れたくない▼架空の娘を配したことに「奇抜すぎるかもしれませんが」と佐和さん。「とにかく熊八のような快男児がいたということを知ってほしい。そして皆さんに元気を出してもらえればうれしい」と話している。

  • 337頁 四六判並製
  • 4-88344-141-5
  • 定価:本体価格1500円+税
  • 2006/11/30発行
青春の丘を越えて 詩人・島田芳文とその時代 松井義弘 石風社 島田芳文 古賀メロディー 詩人 評伝
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青春の丘を越えて
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青春の丘を越えて

歌謡曲「丘を越えて」の作詞者として一世を風靡した詩人・島田芳文の初めての評伝。プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディー「丘を越えて」を初め多くの大衆歌謡を手がけた朗々たる詩精神の彷徨の軌跡。元豊前市立図書館長の著者が、波乱にとんだその人生を、青春時代に焦点を合わせ、豊前市在住の地の利を生かし、二十余年の歳月をかけた力作。

書評

ヒューマンな詩情の根源に迫る

津留 湊

「丘を越えて」(作曲者古賀政男/歌手藤山一郎)で一世を風靡した詩人・島田芳文の初めての本格的評伝。遺族からの聞き取りや未発掘の新資料を駆使して「作品が内包するヒューマンな詩情の根源」に迫る。
 島田芳文は1898年福岡県豊前市に生まれ、大分県立中津中(旧制)から早大政経学部を卒業。早大在学中は、浅沼稲次郎、三宅正一、稲村隆一らと建設者同盟の主力メンバーとして活躍し、民衆詩派の系譜に連なる詩人会(機関誌『新詩人』)に所属した。その後、野口雨情に師事して民謡詩を書き、歌謡界に進出する。戦時下には、師の雨情に習って軍歌の作詞を拒絶し、意識的な沈黙を守った。
 民謡集『郵便船』(詩人会)、詩集『農土思慕』(抒情詩社)の初期作品は、比較的よく知られているが、秋田雨雀が「序文」を寄せた第一創作集『愛光』(私家版)や、1924年創刊の個人誌『濁流』などは、本書で得た新たな知見であった。
 著者は、これらの諸作品を大正・昭和初期の時代思潮のなかに位置づけ、島田の自己形成と文学的成熟の過程を鮮やかに描き出している。
 本書が紹介する妻光子(『女人芸術』同人、深町瑠美子のペンネームで詩集『闇を裂く』がある)からの聞き取りによれば、「丘を越えて」というタイトルは、賀川豊彦『死線を越えて』より着想されたという。
 著者は「『丘を越えて』の向日性こそ、同時代のどの流行歌にもない独自性であり、まさに一点の曇りもない『青春賛歌』」と評する。
 島田芳文は大正期の学生運動より生まれ出た詩人である。

時代思潮が照射する詩人

小正路淑泰
福岡県教育庁勤務

「丘を越えて」で一世を風靡した豊前市出身の詩人・島田芳文(本名義文、一八九八〜一九七五)の初めての本格的評伝である。本書の初出は季刊誌『邪馬台』一九八四年夏号〜八八年冬号というから、すでに二十年以上が経過しており、島田に関心を寄せる人々の間で待望されていた本書の刊行をまずは慶びたい。筆者はデビュー作『黒い谷間の青春──山本詞の人間と文学』(九州人文化の会、一九七六年)の脱稿後、『九州文学』の重鎮・劉寒吉より「松井君、豊前を掘りなさい」との激励を受けたという。 
 近年、ある児童文学研究者が「戦後歌謡と社会」というサブタイトルを付した著書で、「丘を越えて」を「脳天気」な歌であり、「ひたすら『丘を越えて』進軍する軍歌にすりかわってゆく」という、あまりに皮相な誤解、というより不当な評価を下した。地道に豊前を掘り続けた著者は、これに猛然と反論し、終章では、「『丘を越えて』の向日性こそ、同時代のどの流行歌にもない独自性であり、まさに一点の曇りもない『青春賛歌』」と結論づけている。
 かといって、対象に対する思い入れが強すぎるがために、たんなる顕彰に終わりかねないという陥穽にも陥らず、島田に注がれる著者の視線は透徹している。例えば、第七章「民謡詩人の時代」では、島田の第二作・民謡集『郵便船』(詩人会、一九二二年)を取り上げ、島田が師事した野口雨情との比較検討を通して、「島田が雨情のいう『自然詩』についてどの程度理解していたか」との疑念を呈し、「島田の情緒的で甘い体質」と仮借のない指摘がなされている。
 第十三章「結婚」では、島田の第三作・詩集『農土思慕』(抒情詩社、一九二七年)と渋谷定輔の『野良に叫ぶ』(万生閣、一九二六年)を比較。『農土思慕』には、「単なる自然への憧憬を唄う」のではなく、「社会的経済的に、苛酷なる重圧の下にある農民を匤救する為に民心を鼓舞したい」との「自序」があるものの、著者は、「『農土詩派』を名乗る島田の作品」に「相も変わらぬ観念性」、壺井繁治流に言えば、「田圃や農民をその詩の題材の中に取り入れながらも、ふところ手をして歌っているかのような観」を見出す。自小作農青年として「苛酷なる重圧」の真っ直中にあって、農民自治会という「もう一つの農民運動」を展開していた渋谷には、二十町歩を保有する中地主の長男であった島田のような「観念的な田園回帰」や「啓蒙主義的な発想」(第十一章「民衆詩派の人々」)は見られず、同時代評と同様、『野良に叫ぶ』に対する著者の評価は高い。
 本書では、主として「丘を越えて」以前の、島田の青春時代に焦点が当てられる。「島田メモ」と称する未発掘資料──島田(家)旧蔵の大学ノート、いわゆる書斎資料の一つ──から島田の行動を追い、妻の島田光子や島田と旧制中津中の同級生・歌人の大悟法利雄等、関係者からの聞き取りを随所に挿入。新資料とオーラルヒストリーを縦横に織りなすところに、評伝作家としての著者の力量が遺憾なく発揮されている。
 評者は、秋田雨雀が「序文」をよせた島田の第一創作集『愛光』(私家版、一九二一年)の存在や、島田光子が長谷川時雨主宰の『女人芸術』に関係し、深町瑠美子というペンネームで詩集『闇を裂く』を島田夫婦経営の秀芳閣出版部から刊行していたことは、初めて知った。また、島田が中津中在学中の習作期、地方紙『二豊新聞』や『中津新聞』の新聞記者歌人より啄木調の影響を受け、短歌や新体詩(自由詩)を書いていたことや、早大卒業後の一時期、門司新報築上支局主幹、九州新報主筆をしながら、一九二四年に個人誌『濁流』を創刊(未発掘)したことなども新たな知見であった。『濁流』という誌名は、無産政党の輝けるリーダーとなる東大新人会出身・麻生久の自伝的小説『濁流に泳ぐ』(新光社、一九二二)からの感化であったという。
 以上のように、本書の最大の特徴は、大正・昭和初期の時代思潮・精神を丹念に踏査しながら、島田の青春を照らし出すという手法であり、著者の試みは見事な成功を収めている。とりわけ、評者は、第五、第八、第九章の早大建設者同盟と島田に関する叙述が印象深かった。「ヴ・ナロード」(人民の中へ)を目指した初期建設者同盟の主力メンバーは三宅正一、浅沼稲次郎、稲村隆一など政治経済学部一九二三年卒業組、つまり島田と同学部の同級生たちである。島田は彼等の誘いで建設者同盟の同人となり、前年夏の九州遊説に参加して「人間苦とプロレタリア芸術」と題する演説を行っている。(第八章「父と子」)。
 三宅、浅沼、稲村等は、建設者同盟結成以前には、「支那協会」や「亜細亜学生会」という学内団体に加入し、壮大な大陸雄飛の夢を抱いていた。彼等の関心はあくまで「運動」や「政治」という外の世界に向けられ、彼等が志向したものは、ある意味では、黒土村長などの要職を歴任する島田の父碵之助と類似している。「妙に詩人的なところがある」(『雨雀日記』)と評された島田は、父との葛藤を繰り返し、三宅たちとも異なる道を歩むことになる。
 もっとも、三宅たちが、その後、農民運動指導者として活躍し、農村問題の解決に傾斜していくように、島田の詩集『農土思慕』もまた、建設者同盟時代の所産である。この時期、島田の脳裏から片時も離れなかったのは、「社会的経済的に、苛酷なる重圧」(序文)に喘ぐ郷里の小作農民達の姿ではなかったか。
 本書に通底するもう一つの分析視角は、「鄙と都会」との往還である。著者は、島田の「作品が内包するヒューマンな詩情の根源」には「大正時代の『鄙と社会』を結ぶ地下ケーブル」があり、「プチブルでありながら貧困層への温情を湛えた視線が光っている」と述べる。それ故に、「島田の歌謡詩にも、どこかに土着的な表現を残しながら、尚かつ都会の青年男女の自由闊達な心情をも抱き込んでゆく軽快なリズム感」を生み出すことができたのである。
 戦後、「学徒援護会」を定年退職したあとの晩年の島田は、「放浪詩人」(第十七章)という生き方を選び、「まるで執念のごとく、その詩謡世界を内面で掘り下げて行」った。著者は、晩年の作品に、「母ユクへの挽歌」や、「心魂から湧き出た『祖霊の声』」を読み取り、「雨情の涙を振り払ったところで、島田の詩は光り輝くことができた」と評する。

  • 264頁 四六判並製
  • 9788-4-88344-154-9
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2007/11/30発行
ヒロシマ ナガサキ 絆 原爆 中村 尚樹
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名前を探る旅
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名前を探る旅

松下竜一氏称賛!


原爆により、長崎三菱工場の六千人以上、広島市女の女生徒七百名近くが、一瞬のうちに命を落とした。その生死を分けたのは、ある偶然であったにせよ、生き残った者にとっても、この世は煉獄であった──死者への思いと行き場のない憤怒が、終りなき鎮魂の旅へ駆り立てる。二人の被爆者の記録。

書評

人間として在ることの意味を問うた一書

 「本書は名もなき被爆者二人の記録である」。あとがきにはそう記されている。長崎と広島に投下された原爆が、さまざまな生ある人びとを一瞬のうちに焼き尽くし、「無名」の死骸に変えてしまったこと、そして生き残った名もなき者が長い沈黙ののち、「名前を探る旅」に出立するまでの葛藤を本書に知るとき、この記録がどれほどに重い意味を持つものであるかを、一読するものは見出すことだろう。中村尚樹著『名前を探る旅──ヒロシマ・ナガサキの絆』は、二人の被爆者の人生を追いながら、人間として在ることの意味を問うた一書である。
 「ナガサキの絆──人間の論理」で綴られるのは、原爆で亡くなった会社の同僚の名簿づくりに取り組む一人の被爆者、原圭三さんの姿である。原爆が炸裂したとき、防空壕堀りをしていた原さんは奇跡的に生き残った。だが、三菱重工長崎造船所の同僚の多くは原爆の犠牲となった。そして自らも原爆の後遺症を抱え、死の影を引きずりながら戦後を生きてきた。「自分が死んでしまえば、自分の記憶の中にある原爆で死んでいった同僚たちのことはどうなるのだ。誰も振り返る人がいなくなってします。彼らの名前をいま、取り戻さなければ、永遠に失われてしまう」。亡くなった同僚だけでも、彼らの名前や死亡状況などを記録した名簿を残さなければならない。生き残った自らの務めとして、原さんは被爆から二九年、長い沈黙を経て名簿作りを決心したのだった。
 こうして、原さんの「名前を探る旅」が始まった。しかしそれは、単に名前だけを記載した名簿作りではなかった。その旅は、名前を持つ一人一人がどのような人生をたどってきたのかを確認する作業なのだと、本書には記されている。死者たちは、もう言葉を発することもできない。その無念さが、原さんを突き動かし続けた。「原の名簿は、原と彼らを結ぶ絆の証なのだ」、本書のなかで著者はそう述べている。
 「あらゆる手がかりを懸命に探せば、その人の名前から、その人の人生が見えてくる。そして彼らは、原爆で無惨にも断ち切られてしまったおのおのの人生について語りかけてくる」。原さんは本書のなかでそう語る。そして「名前を探る旅」は、無縁物をもたどって続けられ、少しずつその名前と身元が明らかになってゆく。名前を探る原さんの作業には、原爆投下の後、遺体を次々に焼け跡で荼毘に付した光景が二重写しになる。名前を一字たりとも間違うわけにはいかない、企業や行政に任すわけにはいかない。原さんの旅は、無念仏のふるさとを訪ね、身元を探す旅へと続けられていった。「名前を探る旅」は、著者のいうように「名前と共に生きる旅」として原さんを駆り立てたのであった。
 「六年という歳月は、恐らく多くの僕たちの記憶を忘却の渕に沈めて行く力を持っているに違いありません。……この文集は、被爆の体験については何も語りたくないという痛切な沈黙の心理と、誰かに向かってこの体験を訴えずには居られない強い衝動との交錯の中から生まれてきたものであります」。一九五一年、京都で「綜合原爆展」が開かれたのに合わせて、冊子『原爆体験記』が作られた。この文章は、当時京大の学生であった宮川裕行さんが序文にしたためたものであった。彼は高橋和巳たちと交友を結び、一時は作家を志し、断念する。そして郷里の広島に帰り、長年高校の教師を務めた。本書の「ヒロシマの絆──父から子へ」は、彼の「名前を探る旅」の記録である。
 やはり教師であった宮川さんの父は、原爆で多くの生徒を死なせてしまったという思いを抱えて戦後を生きた。そして宮川さんは三〇年以上にわたって、自らの被爆体験について沈黙したまま、教師生活を続けてきた。その彼に沈黙を破らせた最大の動機について、著者はそれを「原爆で亡くなった人々に対する鎮魂」であったと書き記している。自分の家族は生き残ったが、原爆で亡くなった人々や家族を失った人々に対して言い訳ができない。その気持が、宮川さんの原点にはあったという。自分は原爆の最も悲惨なところを見てはいない、そうした思いが、彼の長き沈黙と鎮魂、そして被爆体験を語る原点にあったのである。
 「自分だけ生き残ったという罪の意識」。それを抱えながら、戦後を宮川さんは広島で生きた。そして、亡くなった人々に対するつぐないとして、被爆体験を語る彼の姿があった。著者は本書に記している。「宮川の重荷となっていた被爆の体験、即ち両親以外のまわりの人を誰も助けることができなかったこと、たくさんの生徒を死なせてしまったという父の思い、そうしたたくさんの気持を、否定するのではなく、そのまま受け止めてくれる人々がいる──それが死者への贖罪へとつながってゆく。それが、ヒロシマの絆ではないだろうか」。
 一九九四年、広島市立第一高等女学校の生徒たちが原爆投下の一九四五年正月に書いた、書き初め三五枚が発見された。「端正簡素優雅」と楷書でしたためられたその一枚一枚に「昭和二十年元旦」という文字と学年、組、そして筆者の名前が添えられている。その「文の林」に分け入った著者は、書き初めを遺族らに返す宮川さんの作業を描いている。「あの時、みんなと一緒に死んだ方がよかった」という気持を抱きつつ、宮川さんはつぐないとして、彼の「名前を探る旅」を始めたのだった。
 被爆体験を語る宮川さんの旅は、海を越えて被「曝」者となったチェルノブイリの人たち、ロシアのキエフにまで及んだ。そして韓国人被爆者との交流とともに、彼らが被爆手帳を取得するために、その世話や証人探しを手伝う仕事が続く。本書からは、残っている名簿などから見出された彼らの名前が「創氏改名」による日本名であることに、現在も続く戦争の爪痕が浮き上がってくる。宮川さんたちに投げられた、一人の在韓被爆者の「だますなよ!」という言葉に、原爆とともに、日本の植民地支配がもたらした一人一人のなかの「戦争」が明らかになるのだった。
 長崎と広島に生きる二人の「名前を探る旅」。そしてその二人の名前に込められた人生をたどる、ジャーナリストとしての著者自身の「名前を探る旅」が本書に実を結んでいる。

蒼氓という言葉がある。

松下竜一
作家

 蒼氓という言葉がある。無名の庶民一人ひとりをさしていう言葉だが、重く寂しい影を曳いている。本書を読みつつしきりに浮かび来るのが蒼氓という言葉だった。
 本書ナガサキ篇の主人公原圭三は、三菱重工長崎造船所に勤務していて被爆しかろうじて生き残った一人である。〈原の働いていた浜口町工場では、動員学徒や食堂員などを含めて三百四十八人の作業員の内、九九%以上が亡くなった。〉
 自分だけが生き残ってしまったという心疚しさは、戦後が遠くなっても原の心から消えることはなく、被爆後二十九年目にせめて〈三菱造船所で亡くなった同僚だけでも、正確な名前と被爆した場所や当時の状況についてきちんと一覧出来る名簿をまとめようと決心〉する。四十九歳であった。本来は国や県や市や会社がしていなければならないことが、なされていなかったのだ。
 まぎれもなく一九四五年八月に生きていながら、原爆によって一瞬の内にかき消され名前すら記録にとどめられない蒼氓一人ひとりを、原は執念をもって生き返らせていくのである。その作業の困難さにもう止めようとすると、夢に黒焦げの男たちが押し寄せて「俺もおる、俺もおる」と叫ぶのだという。自らも癌と闘いつつ、原が二十年がかりでまとめた名簿には六千二百九十四人の名が並んでいた。名前が明かされることで、一人ひとりの生が復権されたのだ。原圭三氏がなしとげたことの尊さに頭を垂れずにはいられない。
 著者は長崎の放送局に勤務中に、「被爆地ナガサキ」の話題のひとこまにはなるだろうというくらいの気持ちで原圭三の取材を始めたが、その執念の重さに惹きこまれてゆく。ついには放送局をやめフリーライターとして、最初のドキュメントとなる本書をまとめることになる。ヒロシマ篇まで紹介できなかったが、戦後五十余年を経てもなお掘り起こすに足る蒼氓の記録が埋もれていることを証したのは、著者の手柄といっていい。

  • 四六版並製 298頁
  • 4-88344-063-X
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 2000/08/15発行
佐藤慶太郎 東京府美術館 斉藤泰嘉 筑波大学 筑豊 炭鉱 石炭の神様 カーネギー
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佐藤慶太郎伝
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佐藤慶太郎伝

日本のカーネギーを目指した九州若松の石炭商・佐藤慶太郎。「なあに、自分一代で得た金は、世の中んために差し出さにゃ」。巨額の私財を投じ日本初の美術館を建て、戦局濃い中、佐藤新興生活館(現・山の上ホテル)を建設、「美しい生活とは何か」を希求し続けた男の清冽な生涯を描く傑作評伝。

書評

美術館に私財「石炭の神様」

千龍正夫
北海道新聞・編集委員

 東京・上野公園の東京都美術館(都美)一階講堂の横に小さなブロンズの胸像がある。佐藤慶太郎像。伝記の著者は取材場所にこの美術館を指定した。
 佐藤慶太郎は一八六八年、現在の北九州市八幡西区生まれ。太平洋戦争開戦前年の一九四〇年に死去。産炭地・筑豊の石炭商で、「石炭の神様」とたたえられた。都美は佐藤が寄付した私財百万円、今の貨幣価値では推定三十三億円で二六年に開館。当時の名称は東京府美術館、日本初の常設美術館である。
 著者は五一年、山口市生まれ。七七年、開館したばかりの道立近代美術館学芸員となり、八〇年に都美に移った。「北海道は私の人生の出発点。三年間は私の財産です。都美では佐藤慶太郎の存在を初めて知り、その生涯を調べ始めました」。都現代美術館を経て筑波大芸術学系教授の現在に至るまで約二十年間をかけて佐藤の伝記をまとめた。「すべてが何かによって計算されている気がします」。佐藤の人生を語る言葉は、著者自身にも通じる。
 筑豊の商家に生まれた佐藤は明治法律学校(明治大)を卒業したが、病弱で法律家となる夢を断念し帰郷。地元の石炭商の婿となり、やがて独立、後年には炭鉱経営にも乗り出す。その大江炭鉱は明治末年、夕張、九州・三池と並ぶ国内主要炭鉱の一つである。その全資産の半分を美術館建設に投じる決意は、仕事で上京中に読んだ常設美術館の開設を切望するという新聞の社説がきっかけだった。
 佐藤の人生哲学を示す語録。「信用という無形の財産を築きたい」「富者はただ(財産の)善良なる管理者であれば足りる」「公私一如」。これらの言葉は世界の鉄鋼王と呼ばれ、社会事業に尽力したアメリカのカーネギーの影響もうかがわせる。
 「彼は東京というより日本の文化のためを考えていたのでしょう。世界の中での日本文化はどうあるべきか、さまざまな視点で考えた人です」。晩年の佐藤は「美しい生活とは何か」を追求し、生活レベルで国の立て直しを考える「新興生活館」を東京・神田に設けた。その本部が文化人ホテルと言われた現在の山の上ホテルである。
 近代日本の工業化と経済大国への原動力となった石炭。そして国策による閉山。全国の旧炭都は今なお栄枯盛衰の負の遺産の重圧にあえいでいる。その顕著な例を今日、われわれは夕張に見ている。
 都美は七五年、現在の建物に改築され、再来年以降の改修が検討されている。

〝日本のカーネギー〟に倫理を学ぶ

舛添要一
参議院議員、掲載当時は厚生労働大臣

 賞味期限改ざんなどの食品をめぐる事件が相次ぎ、企業経営者のモラルが問われている。これと対極にあるのが、本書の主人公、佐藤慶太郎である。
 慶太郎は、明治元年に生まれ、筑豊炭田を背後にかかえる若松市で石炭商を営み、富を築いていく。石炭について熱心に研究し、顧客の信用を勝ち得ていく。彼が、模範としたのは、アメリカの財閥、カーネギーで、その「人冨みて死す、その死や恥辱」という生き方に感銘を受ける。佐藤は、「金銭貯蓄以外、使用する事を考えぬ人にとっては、私のやり方が不思議に思われようが、私からみれば、左様な人は、何のために働いたか、何のために金を儲けたか、寧ろ不思議に思うのである」と記している。
 佐藤は、奨学金を前途有為な若者に贈ったりして、「日本のカーネギー」を実践していく。そのような活動の中で、日本に常設美術館がないことを嘆く「時事新報」の社説(1921年3月17日)を読んで、建設費を全額寄付することを決める。自分の財産の半分の100万円(今の価値にすれば約32億5千万円)である。これが、東京府美術館である。上野の森の東京都美術館には、私もよく足を運ぶが、このような建設をめぐる経緯は知らなかった。日本美術史に残る快挙と言ってよい。
 慶太郎は、その後も社会貢献の活動を続けていく。もともと身体が弱く、胃腸病に悩む彼は、1925年に二木謙三医学博士に出会い、食餌療法を勧められ、咀嚼に励むなど食生活を改善して、健康を享受するようになる。そして、農村再生を目指す福岡農士学校の設立を支援したりする。また、「富士山麓の聖者」山下信義や「汗愛主義に立てるほんとうの暮らし方」の著者、岸田軒造に出会い、その生き方に感銘を受ける。そして、全財産150万円を投じて、佐藤新興生活館を船出させ、国民生活明朗化のための生活維新運動を展開していく。
 その生涯は、まさに「日本のカーネギー」そのものであり、このような人物が戦前の日本に存在していたことを日本人として誇りに思う。そのようなさわやかさに満ちた一級の伝記である。

金持ちよ 大志を抱け!

樋口伸子
詩人

 徳と金銭とは相性が悪い。つくづくそう思えるような事件が増え、いちいち驚いてもおれない。しかし、『佐藤慶太郎伝』を読み、福岡県若松の一石炭商が日本初の東京府(都)美術館建設費の全額を寄贈したと知って驚いた。
 本書によれば、明治元年生まれのこの篤志家は若き日にカーネギーの伝記に感動して、「他日金銭を以て人類社会に奉仕しようと決心した」のだった。彼には、大きな徳と金が同居することができたのである。
 一九二一(大正十)年、日本に常設美術館を切望する新聞の社説を見るや、慶太郎は東京府知事に電話をして建設費の寄付を申し出る。東京出張中のことで、半年後に百万円を現金で納めた。今の三十三億円に当たる額は、資産の半分だったという。刻苦勉励を経て事業でなした私財を自分の贅沢に使わず、終生、世のためにという初志に従った。
 ここで清廉にも富にも縁がないどころか、微小な募金にさえ逡巡する私が、同県というだけで佐藤自慢に走るのはおこがましい。けれでも金で心をなくす人が多い世だからこそ、ただの金持ちと富豪の違いや、現在の美術館問題にまで思いはめぐるのだ。

 そういえば、近年はメセナ(企業の文化支援)という言葉をとんと聞かない。マスコミの喧伝もあって猫も杓子もメセナの一時期があったが、いまや企業も自治体も生き残るためにはなりふり構わない時代だ。
 そのメセナの元祖ともいうべきメディチ家で有名な、イタリアはフィレンツェに二度行きながら、あのウフィツィ美術館に行かなかった私はよくからかわれ、なんてもったいない、という顔をされる。
 そんなにもったいないかなぁ。どこでも美術館みたいな都市である。二回とも入らなかった理由はあるのだ。以前はルーブルもプラドもちゃんと行ったのだ。ピカソ美術館以外は人ばかりで、何をどう観たのか記憶にない。代わりに、建物や内部装飾などが印象深い。
 思うに私は美術自体よりも館に興味があったのではないか。何しろわが福岡市では長い間、美術展はデパートで観るものだったから、一九六〇年代の在京時には学びもせずに文化施設の集まった上野の森によく行った。鬱蒼とした緑の周辺は、私にとって西欧文化への憧憬と疑似体験の充たされる場であり、本物抜きで夢想に遊ぶのは貧者の特権である。
 当時は赤坂離宮(今の迎賓館)が国会図書館だったし、そういった都内でお気に入りの場所のひとつが旧・東京都美術館であった。これは図書閲覧や美術鑑賞という本来の目的とは別の愛好である。要するにハコ好き。
 文化のハコ物行政が槍玉に上るが、どうぞ資金さえあれば、簡単に壊せない堅牢なものをお建てください。都市景観として和むし、行く人もあれば、行かない人もあるだけだ。
 
 現在、全国に公・私立の美術館がどれくらいあるのだろうか。あの世の佐藤が知れば、さぞ驚くだろう。そして自分が寄贈した重厚な美術館が、美の殿堂として長年親しまれていたのに、一九七五年の新美術館建設時にとり壊されたと知ればもっと驚くだろう。日本美術界の大恩人とまで呼ばれながら、玄関にあった佐藤の銅像も、一時期は収蔵庫にしまわれたままだったと、著者は憤慨ぎみだ。
 著者の斉藤泰嘉氏は同館の元学芸員で、少年期の思い出もある都美術館の歴史と佐藤慶太郎に興味を抱き研究を続けてきた。現在は筑波大学芸術学系の教授。資料の丹念な参照や探訪をもとにした衒いのない記述からは、篤実な等身大の主人公が浮かび上がる。勘違いしないでください。その等身大というのが超特大のサイズです。
 彼は事業を閉じての晩年、国民の生活習慣の改善を願い「佐藤新興生活館」を設立運営のために、百五十万円の私財を投じた。建物は現在、神田駿河台の山の上ホテルになっている。これまた文学者にとっては別格の宿。美術と文芸の象徴的な二つの建物が佐藤の力によるというのが面白い。すぐれたハコは大切にされて長く残るのだ。
 これほどの人物が地元でもあまり知られていないのは、なぜか。推測すれば、施設が遠い東京であったこと。財閥や企業「メセナ」でなく、個人であるがために企業イメージの宣伝と無縁だったこと。一時期修猷館に籍を置いたことも知られていない。つまりは、こういう人を「陰徳の士」というのだろう。
 「自分一代で得た金は、世の中のために差し出さにゃ」が、佐藤の口ぐせだったとか。自分のために使うのがただの金持ちで、人のために使うのが富豪だ。何だかトーンが下がります。他人の財布のことをあれこれ言うのは、僻みやたかりと同根みたいで。
 せめて、言おう。金持ちよ大志を抱け! 自家用飛行機や豪邸なんて遠慮せずに、超富豪になって地球を丸ごとでもお買いください、と。

  • 四六版上製335頁
  • 978-4-88344-163-1
  • 定価:本体価格2500円+税
  • 2008/05/30発行
バテレン 布教 キリスト教 宗麟 豊後 加藤知弘 地中海学会賞 ザビエル ロドリゲス
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バテレンと宗麟の時代
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バテレンと宗麟の時代

地中海学会賞・ロドリゲス通事賞受賞


戦国時代、それはキリスト教文明との熾烈な格闘の時代でもあった。アジアをめざす宣教師たちの野心が、豊後府内の地で大友宗麟の野望とスパークする。世界史的な視点で平易に描かれた戦国史

書評

異文化交流導いた人の出会い

阿蘇品保夫

「異文化交流の歴史には、偶然と人間関係が大きな役割を果す」と著者はいう。東へ向かったザビエルと、西へ向かったトルレスの出会い。ザビエルは日本の豊後にキリスト教の種を播き、トルレスはそれを育てた。しかし、この両人の働きには、さらに大友宗麟との出会いが必要であった。
 大分合同新聞に連載の「豊後と異国の物語」をまとめた本書は、「グローバルな歴史の流れと異文化の地域への伝わり方」を結びつけて考えるという世界史的視野で、地域と人をとらえているところに特色がある。
 宗麟が他の大名たちと異なったのは、ヨーロッパの物質文明である鉄砲・大砲にも彼らと同じく興味を示しながらも、他にさきがけてヨーロッパ精神文化に強い関心を示したことであり、その真剣さが宣教師たちの信頼を得たのであろう。しかし、彼は慎重であり、寄進や布教許可は与えても、改宗の意思は明らかにせず、禅宗にもかかわって宗麟と称する。彼が受洗しフランシスコを称するのは隠退後の天正六年のことである。
「私が再び大砲を求めますのは、海岸に住んで敵と境を接しているため、これが大いに必要なものだからです。私が領国を守り、これを繁栄させることができるなら、領内のデウスの会堂、パードレおよびキリシタンたち、ならびに当地に来るポルトガル人一同も繁栄するでしょう」
 宗麟が単純な好意から宣教師たちの活動を援助したというより、内外諸地域の動向を注意深く把握しながら、イエズス会布教活動をも彼の政略の一端として利用し、イエズス会もその意図を心得て動いたと考えるべきだと著者はみる。
 十六世紀後半は豊後国が日本の歴史の中で最も輝いた時代であった。中世以来の伝統を背負い、九州諸国の大半を抑え、日本のみならず「豊後の王」の名で海外まで知られた男が演出し、体現したものは、大航海時代の西欧世界と、国内統一を目前にした戦国期日本社会を巧みに汲み上げたさまざまな人々のエネルギーの輝きであったのである。

  • 四六版上製426頁
  • 4-88344-016-8
  • 定価:本体価格3000円+税
  • 1996/11/30発行
外国航路 石炭夫 大恐慌 最底辺 日記 石風社 広野八郎 プロレタリア 労働者 葉山嘉樹
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外国航路石炭夫日記
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外国航路石炭夫日記

葉山嘉樹「これはきみの傑作だ。たいせつにとっておきたまい」。


葉山嘉樹「これはきみの傑作だ。たいせつにとっておきたまい」。
1928年(昭和3)から4年にわたり、インド/欧州航路の石炭夫として大恐慌下を生き抜いたひとりの労働者が、華氏140度の船底で最底辺の世界を克明に記した記録。葉山嘉樹が「これはきみの傑作だ。大切にとっておきたまい」と評した、プロレタリア文学、もうひとつの金字塔。

書評

「青春の碑」の労働日記

荒俣 宏
作家

『外国航路石炭夫日記』を読んで、じつに楽しくおもしろかった、と感想を述べれば、不謹慎のそしりを免れぬかもしれない。でも、非常に興味ぶかい内容なのである。本書の副題、「世界恐慌下を最低辺で生きる」というコピーを読むかぎり、残虐ホラー小説のような小林多喜二の『蟹工船』や、外国映画みたいにパワフルな葉山嘉樹の『海に生くる人々』といった暗黒のプロレタリア文学を連想しがちである。実際、この日記には冒頭から、耐え難いほど激しい船酔い、船底で缶(かま)に石炭をくべつづける労働の苦痛、陸へ上がれば女郎屋と酒屋で有り金を使い果たし、高利の借金のみが残る不毛な日常を、描いてはいる。しかし、そうした過酷な労働実態を告発するだけでなく、外国船で東南アジアからフランス、ベルギーなど西欧諸国までを巡る海外見聞体験が、ことのほかおもしろいのだ。じつは著者、広野八郎は、石炭夫見習いとはいえ養成所を経て日本郵船に採用された社員であり、航海中に勉強する本を持参したり、人気作家だった葉山嘉樹の家を直に訪問するほどの熱意ある人物だった。
 その広野が、インドのカルカッタでは、難破船の乗客を救助し、インド人たちの大げさな感謝の仕草を観察したり、フランスのマルセイユでは男女の痴態を扱ったおぞましい映画を見せる「店」の下品さに辟易し、またアントワープでは、たまたま開催中の万博を見物、日本館の展示を見て、雑貨商店の品揃えと同程度の粗製品にがっかりする。この日本館では、振袖の娘がサービスする茶だけが人気であったとも書く。にもかかわらず、実家では家族が送金を待って居ることを重々承知の上で、港に着けば性欲に屈して女郎屋へ行ってしまう自分。日本一大きな海員組合に属しながら、会社のいいなりに動く組織と自分。それらを、上質の青春小説のように記述した日記なのである。一人の下級船員が体験した魂の修行時代、その舞台が国際世界を包む規模と深遠さとを備えていた事実に、驚くばかりだった。

過酷な労働克明に描く 『外国航路石炭夫日記』が復刊

白山誠

『外国航路石炭夫日記』は、約30年ぶりに復刊された本だ。小林多喜二の小説「蟹工船」(1929年発表)と同時代に、下級船員が体験した過酷な労働や、船員を食い物にする船幹部の姿が克明に描かれており、近年注目を浴びるこの小説の世界を思い起こさせる。

 著者は広野八郎さん(1907-96年)。長崎県萱瀬市(現・大村市)の出身で、1928年、欧州航路の貨物船、貨客船に乗務した。その頃、プロレタリア文学作家の葉山嘉樹(福岡県出身)と知り合い、同人誌「文芸戦線」に参加。船員のほか、戦後にかけて炭鉱や工事現場で働いた体験記などを書き続けた。
『日記』は28年11月から、船員をやめた直後の31年6月まで続く。広野さんは、汽船の石炭庫から火炉まで石炭を運んだり、かまの中の燃えかすを取り除いたりする作業に従事。欧州航路の貨客船では、室温が約60度(カ氏140度)にも達する所で働いた。当番は昼と夜に4時間ずつ。しかし、それを終えても様々な仕事を命じられ、休息する間はない過酷な日々だったという。
〈蒸し風呂同然だ。二〇分とはいっていたら、息がとまりそうだ。(中略)あまりのくるしさに、私たちはぶっ倒れそうになって、倒れぬうちにどうにかデッキにはってでた〉
 同僚が倒れる場面にも遭遇した。〈川野は、キイーッと言う声とともに歯を食いしばって仰向けにふんぞり返った。両股から、すね、両腕は、まるで石のようにかたく筋がつっている〉
 卒倒したり、病気にかかったりして体調を崩しても休めない。上司の火夫長からどなられ、仕事を強いられた。閉じられた職場で火夫長やその取り巻きは下級船員を酷使し、時には暴力もふるった。
 この火夫長は、部下を相手に月2割の高利で金貸しもしていた。給料はすべて差し押さえられ、さらに借金を重ね、船員をやめるにやめられぬ者も多数いたようだ。本書解説によると、当時の日本の船舶には職長による「高利貸し制度」が、普通にあったようだ。
「蟹工船」では、労働者は団結して抵抗するが、現実はそうはならなかった。その頃は世界恐慌の中で、船員らは不平を漏らしても、職を失うのを恐れ、ひどい扱いにますます甘んじるようになった。
〈船内のかれらはなかなか動かない。しっかり現在の仕事にかじりついて、はなれまいと必死である。海上労働のあらゆる不合理をなげきながら、かれらは職を失うことをおそれてかじりついているのだ〉
 不当な待遇に耐えて、いくら働いても悲惨な状態から脱出できない。『日記』の記述から、ワーキングプアとも言われる現代の問題が浮かんでくるようだ。
 最初の刊行は78年。タイトルは『華氏一四〇度の船底から 外国航路の下級船員日記』(太平出版社)だった。今回の復刊にあたり、船員用語の注釈などをつけた。

「佐賀新聞」有明抄

園田寛

 ある会合で海外によく出掛けるという人と、自殺者数の話題になった。「ブラジルはもっと失業率も高く、貧困家庭も多いけど自殺することはない」。この11年間、日本の自殺者は毎年3万人を超す。率にすると先進国の中ではトップクラスという。
 自殺の理由はそれぞれで一概には言えないが、日本人の生き抜こうとする力が弱まっているのではないか。高度成長時代は、高校、大学、就職とベルトコンベヤーに乗れば、生涯が保障された。ところがコンベヤーから振り落とされると、自分の全人格が否定されたと思い、悲観的になりすぎてしまう。
 佐賀市出身のプロレタリア文学作家、故広野八郎さんの『外国航路石炭夫日記』が復刻された。1928(昭和3)年から4年間、インド、欧州に向かう大型貨物船の石炭夫体験を書いている。悲惨な状況ながらも広野さんの生命力はたくましい。
 華氏140度(摂氏60度)の船底で石炭をたく仕事は苦難を極めた。火夫長の機嫌を損ねればさらにきつい労働を命ぜられる。それでも広野さんはへこたれず、マルセイユやナポリの街を楽しむ余裕も見せる。不払い賃金の支払いを要求し直談判も行った。
 広野さんは「海に生くる人々」で知られるプロレタリア作家葉山嘉樹の門をたたき、生涯、最底辺の労働者の世界を描き続けた。福岡市に住む広野さんの長男でイラストレーターの司さんは、日記の文字に乱れがない父の文学に対する思いの強さを感じたという。
 当時は世界大恐慌が起こり、日本でも労働争議が増えた。今の時代とよく似ている。体はくたくたになりながらも、冷静な目で観察し続けた広野さんの日記には、これからの時代を生き抜くヒントがある。

  • A5判並製376頁
  • 978-4-88344-175-4
  • 定価:本体価格2800円+税
  • 2009/06/15発行
アジア回廊 甲斐大策 甲斐巳八郎 満洲 アフガニスタン アフガン 石風社 中国 絵画 水墨画
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アジア回廊
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¥0円
アジア回廊

満洲──アフガニスタン。茫茫たる中国大陸に生きる中国民衆の強靭な生を畏れとともに描いた巳八郎。深々としたアフガンの人と風土に魅入られ、その深奥を描かんと彷徨する大策。強烈な個性をもつ画家父子によるアジア回廊巡り。

書評

アフガンに見る人間の魂

小林清人
読売新聞文化部

〈パシュトゥンってどんな人たちだ?
「おれがパシュトゥンじゃないか。つまりアフガンだ。あんたはよく知ってるじゃないか」〉
 福岡市の石風社から出た「アジア回廊」は、父は戦前の中国を、息子は戦後のアフガニスタンを中心にアジア大陸を放浪した九州出身のともに絵かきの親子がこれまでに新聞や雑誌などに発表した文章を集めている。約250ページのほぼ前半分が息子の大策氏に、後半分が父巳八郎氏に充てられ、二人の絵画作品の図版も豊富だ。
 冒頭に引用した部分は大策氏とアフガンの〈兄弟〉ハジとのやりとりだが、「おれがアフガンだ」というきっぱりとした答え方が新鮮に感じられる。このように明快に確固とした自己確認のできる日本人は少ないのではないか。「殺すか兄弟になるか」の選択を迫られるのが、「血を支払い合う中で人間の心を知ってきた」アフガンの人々の人間関係だという。人々の魂は単純で、深い。
「毎年十万人失っても、今百二十万人戦える者がいるから十年はもつだろう。その間に子供達が育って、新たな百二十万人が出てくるよ」
アフガン戦争下でのこの長老の言葉にも圧倒される。人々は長大な時空の中で生きている。ここでの生活の美しさは「悠久の時間をぬって多くの民族と文化が交流し破壊し、そのつど、ほんの少しずつ厳選された美が残り、人々の生活にキラキラとちりばめられていった」ようなものとしてある。音楽もまた「民族興亡の数千年が練り上げた旋律」なのだ。
 ペシャワールでは、「毎夜、仇討ちのために、少なくとも二人以上の死人がでる」。ハジがみずから描き出すように彼らは「正直で、ウソつきで、盗っ人で人殺し」だが、日本人の〝兄弟〟を見送るために十時間をバスに揺られ、別れ際には「涙を浮かべ力いっぱい私を抱きしめ」るような人間でもある。
「泥と血の匂いとともに、無限の優しさを漂わせる」人々は、異国趣味で眺める分には尽きない魅力をたたえて見えるが、隣人として付き合うとなると、どうだろう。現代文明が失ってしまった何かに郷愁を感じてばかりもいられなくなるはずである。
 彼らの生活態度がさし示すももを「西欧近代の知と思考によって解きほぐすのは不可能である」と大策氏も指摘する。私たち日本人の多くにとっても事情は同じだろう。イスラムに改宗し、彼らと〝兄弟〟になったはずの大策氏自身、「結局のところ私は見物人だ」と書く。そうつぶやくしかないような遠い距離が彼らと私たちの間には横たわっているようである。
 巳八郎氏も画家らしい丹念さで人々の暮しを記述している。戦前の日本人で、対等の人間としての目線で中国人を眺めることのできた人はそう多くはないのかもしれない。売春婦や賭博者に向けるまなざしにも、余儀ない人生を生きる人々への共感やいたわりの気持ちが感じられる。

  • A5判並製254頁
  • 4-88344-017-6
  • 定価:本体価格2000円+税
  • 1996/11/30発行
神・泥・人

移動民の血に魅かれつつ、二十年以上にわたりイスラム世界をさまよいつづける著者が、アフガニスタンの人々との深い関わりのなかで、自らの魂の古層を問い返す。──移動民の血・イスラムの風

書評

重なり合った心で語る甘美な世界

小滝 透
作家、アラビスト

 この「神・泥・人」と題するアフガニスタン記は1960年代後半より現在まで同地と深く関わりあってきた著者の足跡を記したものである。
 しかし、それは単なる旅行記でもなく風土記でもなく著者の持つ幼い頃の旧満州国大連の思い出から出発する。
大連で迎えた敗戦直後の思い出が巡り巡っていつしかアジアへの回帰を招き、アフガニスタンとの出会いを生み出す。
 ハイバル峠を西側へ抜け、初めてアフガニスタンの大地に触れた彼の魂は、その後移動民(遊牧民)のさすらう暮しの素晴らしさと悲哀に触れ、遠来の客をもてなす包容力とその底に流れる激しい異邦人への拒絶を感じ、さらにはそこに現在生きている人々の伝統的価値観と近代化の狭間でおこる衝突と動揺を淡々と語っている。
実際、著者が初めてアフガニスタンの地を踏んで以来、この地では様々な事件や変革がおこってきた。
 1970年代の王制の崩壊後、いくどものクーデターがくり返され、ついにはソビエト軍の介入をみるや、アフガニスタンの全土は今に至る激しい内戦に突入した。
 著者の見たアフガニスタンの内情は実にこうした急速な近代化と国際情勢の激変により揺れ動く国家と国民の姿であったはずである。
 そして事実、こうした事件はその都度本書の中でも語られている。
 しかし、こうした現状を書くにつけても、著者の記述にはどこか透んだ静謐さが感じられる。また、長く異邦人として住む中で必ず起きるいらだちや疎外感も著者においてはアフガニスタンへの思いの中でいつしかきれいに昇華されている。
 したがって、ここで語られている世界は、アフガニスタンの大地や人々の具体的な記述でありながらも、同時にそれを超越した一つの甘美な世界でもある。
 広くはるかなアフガニスタンの大地も、雑踏と喧噪の交錯するバザールの世界も内戦のため国外で暮らさざるをえなくなった難民たちの現情も我々に伝えられる報道とは全く別の姿を見せる。
 それは既に著者の心の一面が確実にアフガン人の一面と重なり合って同化しているからにほかならない。
 著者の見る眼は日本人の眼であると同時にそれを越えてアフガン人の眼と化している。
 長いアフガニスタンとの交流の中、いつしか彼の心の中にはアフガニスタン人が巣食ってゆきそれが日本人である彼自身と混合していったにちがいない。
 本書の記述の底に流れる一種独特の雰囲気は、こうした両者の共存と調和によってかもし出されているからであろう。
 そしてそれは最後には大連での少年時代に回帰してゆくものかもしれない。
 事実、本書の記述は大連での敗戦に始まり、アフガニスタンでの体験を経て、最後に再び中国(西安)の記述で終わっている。
 一般に我々日本人はシルクロードに代表されるアジア内奥部の国々に強い憧れを抱いてきた。そして本書はその憧れをアフガニスタンの大地を介して強く我々に訴えかけ、アジアの地へと誘っているのである。

  • A5判変型121頁
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1992/02/20発行
餃子ロード

北緯30度線から40度線の大陸を東西に旅すると、いつも餃子があった。三十年にわたりアジアを彷徨し続ける異能の画家が記す魂の餃子路。
五木寛之氏絶賛! 「舌触りや、熱さや、辛さがある。北方の土俗の靭(つよ)さがある」

書評

旅の名手が〝民衆の味〟探索

島田真祐
島田美術館館長

 甲斐さんは筋金入りの旅人である。筋金は異郷体験の豊富さや年季のせいだけではない。おそらくは氏の骨髄のどこかに潜む移動民の遺伝子のざわめきと、対象世界にかかわる関心の並外れた深度による。氏には、もともと異郷として感受していないふしさえある。
「気づくと、北緯三十度線と四十度線にはさまれる帯の中を東へ西へ歩いていた。三十四度線あたりには、カーブル、ペシャワール、西安、洛陽、北九州、奈良が、いま少し北寄りにはサマルカンド、カシュガル、玉門、北京、大連、山形が並ぶ。意図したわけではないのに、それ等の土地にいた(いた=・・)」と、氏は書く。その天性ともいえる漂泊癖と精神は、大連に生まれて幼少年期を送り、中国大陸の風土と民衆を独特の筆法で描きつづけた画家の父の存在、大学でながく安藤更生先生門下として東洋美術史を学んだことなどと、もちろん無縁ではない。が、以後の三十余年におよぶアフガニスタンとの自覚的なかかわりが、その骨格に分の厚い血肉を通わせたのにちがいない。その辺については、すでに中上健次氏や五木寛之氏らの絶賛を浴びた小説集やエッセー集がある。
 さて、『餃子ロード』。甲斐さんのアジアへの通い路のあちこちに湯気を立てている餃子がある。広い大陸の東西南北、もちろん形も味も鮮烈微妙に異なるが、肉や野菜の餡を小麦粉でのばした皮で包み、蒸すか焼くか揚げるかする基本は変わらない。この、極めて民衆的で魅力的な食物は、どこで始まり、どのように食され、どういう経路で広がってきたのか。その探索行は、著者自身「たかが小さな餃子ではあるが、そこにはアジア世界民族興亡の物語が包まれる」と語るように、壮大な叙事世界を広げていくことになる。
 何より文章がいい。優れた描写力は、現場の事物や雰囲気をほうふつさせるだけでなく、それらの背後にある無告の民族史をも浮かび上がらせる。旅の名手と表現の達者が幸運にも重なったものだ。

餃子は東西文化交渉の証し

甲斐大策(自著を語る)

「こんな世の中に風穴をあけてくれるのは、移動系の人々の生き方じゃないかな。良くできた社会というのは、移動系民族の心と農耕定住系民族の心が調和しているのだと思う」

 一九六〇年代の終りから西アジアの旅が始まった。とりわけアフガニスタンが基点となる旅を三十年近く重ねてきた。
 東京・町田の仕事場や故郷・福岡へ戻っては絵を描く。そのうち、砂漠の風邪やバザールの喧騒と匂いが物語へ膨らみ、文章を書きたくなる。言葉をつらねていくと光や人々の生活が甦り、ふたたび絵具を列べる。やがて、全身を支配するもどかしさに似た気持を絵筆やペンが、ほんの一部しか消化しないのを思い始め、そして再び旅に出る。
 大地で風に吹かれ陽溜りで遠くを眺めていたい、と念じて出かけた旅が、アフガニスタン内戦の最前線でロケット砲を肩にしていたり、東部高原で地雷掘りの手伝いをしたりということになる。
 それでも、沈殿物まみれの、ひたすら安定・定住を志向する社会から出て、不安定ではあっても天と地の間で、不可視の存在を信じて生きる移動系の血を引く人々の中に入ると、しみじみ心地よいと感じ、すべてがさわやかだった。安らぐのだった。気づくと北緯三十度線と四十度線の間を東西に漂っていた。
 そして、茶店や宴席で、いつも、餃子の一族の小さな食文化が姿を見せていることに気づいた。中国北部にルーツがあると信じて疑わなかった餃子について、カシュガルに住む一人のタジク人古老は、それは大昔からトルコ系騎馬民族の食です、といった。一度は餃子のルーツ探しを考えた。
 他方、七〇年代初めの中国東北地方、撫順の炭鉱に付属する老人ホームで、余生を送っていた八十数歳の老人が語ったことばが甦りもした。「毛沢東のいうことも革命も、文革も私にはわからない。しかし今では、一生食えないと思っていた水餃(子)が毎週食える……」
 また、九〇年に西安郊外で会った中年の工員のことばも胸の奥に残っていた。
「以前は、春節(正月)に一回食うだけだったが、最近は食べたい時に食べている……」
 一度は思ったルーツ探しだったが、極寒の旧満州北部から黄土地帯、トルコ系騎馬民族世界からアフガニスタン北部、その美味を心おきなく土地の人々と楽しむことに専念しよう、と決めた。皮をむいて列べ、具をくだいて虫眼鏡で詮索するような旅をしたくなかった。辛く苦しかった生涯の終りに水餃を口にする元坑夫の静かな表情の想い出を壊したくない、とも思った。
 世界地図上に赤色で示された〝飢餓地帯〟には、中国、アフガニスタンを含む、餃子一族の食を提供してくれた土地のすべてがある。そこでは、日本列島と異なり、餃子は今も輝く麺食である。そして、何よりも検証めく旅を躊躇させ放棄させたのは、餃子を愛する土地では誰もが、この上なく優しくまた厚い心で旅人を迎えてくれたということである。
 起源はともかくとして、餃子一族が東西文化交渉の証しの一つであり、移動系の人々に深くかかわっている、とわかっただけでも充分満足である。書くならば、餃子が見えかくれする人間交流を、と思った。

 冒頭で引用したのは、十年近く前、旅から戻った折お会いした五木寛之さんの言である。ホモ・ルーデンス、ホモ・モーベンスの語も交えての話だった。
「餃子は、移動・定住それぞれの人々の合作としては上等なものですね」
「餃子ロード」を脱稿した時、こんなことをいうと、深い意味の通じぬ奴、と五木先輩は苦笑するに違いない、と思った。

五感に伝わるリアルな大陸の情景

ラーメンともども中国からやってきて日本に帰化したギョーザ。ところでこの親しい食べ物のルーツは遥か西域にあるという。アフガニスタンでは刻んだ韮を包み茹で、羊肉のミートソースとヨーグルトをかけたオシャク、トルファンでは韮と羊肉入りのジュワワ、中国では焼かれると鍋貼になり、煮られると水餃になる餃。それは餃を軸に遥か大陸へと向う壮大な紀行文だ……というよりこの骨太で美しい言葉の連なりは詩に近い。口にした餃から、アフガニスタンのチャイハナの葡萄棚に坐る老主人が、凍てつく北京の街で凧を売る老爺が、カシュガルの夜市で京劇の一説を唄いあげる通訳の声が、残留孤児の辿った人生が、幼少時に過ごした旧満洲大連の街の情景が、ざわめきが、匂いが、闇と光が、土地に染みついた歴史が、時系列を飛び越しつぎつぎに立ち現れる。あまりにリアルに五感に訴えられるので手で触れたかと思うと、次の瞬間、幻想のようにかき消えてゆく。ホワイトノイズが充満していた身体に、大陸の乾いた風が穴をあけ吹き抜けていくような読後感が得られよう。

  • 四六判上製241頁
  • 4-88344-034-6
  • 定価:本体価格1800円+税
  • 1998/11/30発行
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