長女が帰省したらいつも言う。この私たちの生活が一番いい暮らしなのだ、と。(食事と住まいを提供して6時間ほど働いてもらう)ウーフの募集を休止しているので雑草園を訪れる人もめったにない。おばあさん犬のハッサンは若い犬に襲われ住宅地方面には行かなくなり立ち話もなくなった。峠越えのルートは歩く人も見かけないが、朝日が昇る方向に広がるひまわり畑は圧巻だった。油を採るのだそうだ。折り返し点では熊ヶ畑山から流れ落ちてくる清流につかり、ハッサンは何度もその水を飲んだ。だが先日、その急な坂を滑り落ち今朝は降りなかった。この夏は酷暑だったので明るいうちのブルーベリー摘みに若い猫のミーサが同行したのは3、4回だが、密林のような草の中を私を呼んでたどり着き、木陰のもっとも涼しい場所をちゃんと確保しているのはとてもかわいい。終わるころにはどこかにいなくなるのも自立したミーサらしい。

 午後は語学に当てている。2009年から長女・野枝の薦めでウーフホストになった。当初、日本人が対象だと思ったが一番目はフランス人が申し込んできたのでやんわりと断った。大学でフランス語と中国語をちょっとだけ学んだのだが40年近くたっている。到底無理だ。結局初年度の外国人はイギリス人2人だったので英語だけで何とかすんだ。もともと私は原子爆弾を落としたアメリカが許せず英語は中学時代から好きになれなかった。苦手だった。しかしウーフを続けていく以上基本は英会話だった。聴く力だけは何とか身に付いていたので、長期間ここに滞在するウーファーさんに初歩から教わりながら少しずつ身に付けていった。生活の中で使うと不思議に頭に入っていくものだ。アメリカ、ドイツ、スペイン、イタリア、韓国、台湾、香港、ベトナム、タイ、メキシコ、スイス、オーストリア、オーストラリア、ニュージーランド、中国からの短期、長期のウーファーさんを迎えて英語で会話していたが、アジア人同士が何で英語で、という疑問も大きくなっていった。そこで割安かつ生活のリズムにもなるNHKのラジオ講座を聴くことにした。ドイツから日本語の勉強に来たアンネと関西を旅することになったとき、「なんでフランス語を?」と言われドイツ語も加わった。そのころからテレビで「旅するスペイン語」といった映像豊富な番組も始まりヨーロッパ言語5つになった。70過ぎての語学はほんの少しずつしか記憶に残らないが楽しむことを第一にしている。

 語学にのめりこんでいったのはもう一つ重大なきっかけがあった。父が亡くなりその3年後に義母もなくなって、家出して結婚した一人娘の私に遺産が残ったのだ。さしあたってごく小規模の太陽光発電と太陽熱温水器を備え付けた。20年しか持たないだろうと思っていた掘っ立て小屋に40年住み、このバラックが気候変動には耐えられなくなりつつあったので、この土地の持ち主さんが住んでいた築70年の今の家に引っ越した。谷間にあって日当たりが悪いので南側に薪ストーブが置ける台所兼居間を増築した。ところが数年しないうちに夫の義兄の事業再建費用に回していたお金が全く戻ってこないことになった。結婚から父が亡くなるまで親不孝を重ねた私は悶々として苦しい毎日が続いた。

「月、10万円で生活したら何とかなるから」と夫は言った。2人の国民年金が半人前ずつで6万、太陽光月3万、卵を売って月3万だ。そして夫はその時から今も毎日私の身体をマッサージし続けている。トラ次郎、ミーサもそれを見ておねだりしてか、毎日してもらっている。いかにも気持ちいいというかっこうをして。

 人間はいつも脳の中を何かで埋めていないと済まない厄介な生き物のようだ。結果的に私の場合は脳の中が母語ではないものに占領されることで、嫌なものから一時的にでも抜け出せたようだ。お金は私が稼いだものではないし、結婚してからは家計は夫がすべて管理していた(収入が少な過ぎるので)。着るものは古着で十分だし、今のところ鶏・犬・猫を置いて旅にも出かけられない。買うものは決まっていて夫が卵の配達の折に買ってきたもので間に合わせる。

 もう一つはまったものがあった。中国ドラマだ。ケーブルステーションができてテレビでYouTubeが見れるようになった。中国は多民族国家なので共通語の字幕が付く。漢字なので分かりやすい。その主題歌を歌っていたのが周深(チョウシェン)だった。深い表現力でアルトの女性が歌っているものだと信じていたら、ある時宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の「いつも何度でも」を透明感のある声で日本語で歌っていた。彼は語学の天才でもあった。それからはこの10年の彼の歌を聞きまくった。今年の新年の番組では気功を交えた歌を歌い、それからは気功が中国で再びブームに。私も背中と腰の痛みのために10分ほどの映像を見ながら実行すると、3日目からは痛まなくなった。

 チャイナスピードといわれる中国の変化は目まぐるしい。自分のことで袋小路に入りそうになった私は中国を知り直すことで世界の見方が大きく変わった。日本では欧米からの情報が8割ほどを占めているので、なぜ今の世界がこうなっているのかわからなくなっているが、植民地時代にまでさかのぼれば現在の状況が当然こうなるだろうということが見えてくる。

 先日ラジオで偶然「認知症を予防するには?」というのを聞いていると、新しいことに挑戦し、わくわくする体験を持つこと、孤独になったら脳が委縮するということも付け加えられていた。私は意識してこれらをやっていたわけではないが、この毎日の生活がまさにそれにあたっていたということだ。

 今年の酷暑は野菜がろくに出来ず前半は青シソ・オクラの花・クルミをフルに使い、新しい試みが多かった。夫は桑の葉が癖もなくおいしいことを発見した。台風一過、雨が降らず枯れそうになっていた大豆が息を取り戻しそうだ。

                                        2024年9月3日