子供の頃、家の向かいに、電車道を隔てて貸本屋があった。小さな木の家で、木組みのガラス引き戸を開けると、でこぼこした土間があり、本棚が並んでいた。奥に読み本が少し、入り口は写真雑誌などで棚の前の床几にも雑誌が積み上げてあり、その向かいから正面にかけて漫画がぎっしりならんでいた。入ると埃のような臭いがした。正面の漫画と雑誌の間の角におじさんが鼻眼鏡をかけて座っていて、その肩越しに卓袱台だけがあるような居間が見えた。
ここには父が連れて行った。妹と三人、大中小と親子で行くと「また来たか」という顔をする。そのはずで、親熊小熊のような三人が数冊手にした後、大変な勢いで読み始める。タダ読みをするという悪気はないのである。ただ、面白いと思うとやめられなくなってしまい、読み終えて次の本と移り、借りるのは漫画本数冊なのだ。一冊、2日間の貸し出しで15円だっただろうか。
行き始めたのは小学校二年生くらいだっただろう。その頃借りていたのは四コマ漫画で、苗字に浦のつく作者だったと思うのだが、ロボットの話を随分読んだ。内容は覚えていないけれど、全てが細い線で描かれていてそのロボットが何やら老いたような寂しい感じがしたこととザラザラとした紙の手触りだけは記憶にある。
野球や相撲の話も多かった。野球では田舎から熊と一緒に出てきた短い浴衣を着た丸い顔の少年が大活躍する話が好きで、相撲は栃錦や若乃花の物語もあった。父が栃錦のファンで、話を聞きながら取り組みをみるうちに、私も栃贔屓になっていたのだが、漫画では若乃花の方が多かったような気がする。
「サザエさん」「意地悪ばあさん」や「のらくろ」もあった。
少し背が伸びて棚も上を見るようになると「少年探偵団」のような探偵物が沢山あった。子供相手の漫画だろうに何か妙に線が太く濃く、丸顔の主人公の様子も背景もどこかおどろおどろしい雰囲気があった。それは乱歩だからというのではなく他の探偵物もそうだったような気がする。いわゆる劇画の登場と相まっていたのかもしれない。
さらに背が伸びると、一つ上の棚、白土三平に手が届く。「甲賀武芸帖」「忍者武芸帖」などがずらりと並んでいる。甲賀の方は、手塚のような丸い輪郭で後の白土とは随分違っていたような気がする。何故か「忍者武芸帖」は棚に手が届く前に半分近く読んでいた。はて、何か忘れているような、と記憶を辿ってみて、家で読んだということは父が借りたのだと気付いた。「スクリーン」という映画雑誌はたまに借りてあったものの、囲碁の本は購入していたし、あの店で借りる本などなかったろうに、しかも子供たちから連れて行ってと言った覚えもない。
なるほど自分が漫画を読みたかったのだ。しかしあの時代大人が、まして町医者が漫画を堂々と借りることは憚られたのだろう。だから私たちを連れて行ったのだ。
だしに連れて行った子供がすっかり漫画にはまり、創刊された「ガロ」を手に取るようになった。「カムイ伝」である。1964年から1971年廃刊まで「ガロ」で読み続けたことになる。
辰巳ヨシヒロや永島慎二は小学生にはわかりにくく、十代も終わりの頃にしみじみと読み返した。何はともあれ「カムイ」だった。
平田弘史と小島剛夕も読んだ。平田はあまりに激しく口を開けて叫ぶ描写に多少辟易したが薩摩藩が濃尾治水、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事を描いた「薩摩義士伝」の主人公が自分の非情に耐え最後にその責と情を持って腹を切る最期は心に深く残っている。小島はまだ「子連れ狼」を描く前、コミックが盛んになる前は歌舞伎物も描いていて私は「白浪五人男」の「知らざあ言って聞かせやしょう」や「三人吉三」の「月も朧に白魚の」というセリフをすっかり覚えた。思い返すと着物や見得を切る描写も正確だった。70年までは父も読んでいたのだと思うと漫画を読むなと言われたことが一度もないのもうなずける。
70年代、貸本屋に来る人も少なくなった。熊三人組は二人になり、中小が大中の背丈になっても相変わらずおじいさんのため息を誘う客であった。ある日、彼はせいせいしたように珍しく笑顔で「店、閉めるけん、借りるとは今日が最後」と言った。
店を閉める日、本を返しにいくと「ほい」と言ってよれよれの本の束をくれた。ガロの創刊号から5号までと、小島の歌舞伎物二冊だった。
「好きやったろ」と言って笑った。「ありがとうございました」小さく答え乍ら、温かいのに、悲しいような淋しいような初めての感情を、本と共に抱きしめた。
貸本屋はそれからすぐに取り壊され、幼児の抜けた歯の跡のようにポツンと空き地ができた。しばらくして、近くの市場の店は少しずつ閉じていき、すぐ横に小さなスーパーマーケットができた。
市電はまだ、カタンカタンと走っていた。
