ひょんなことから、お能の家の方と知り合った。
実にチャーミングなよく気の付く明るい方で、人の心をほぐすような雰囲気がある。
お能はずっと心惹かれているのだが、頭でっかちでということを話すと、一度おいでになりませんかと誘われた。
外国の方にも分かりやすいように英語と日本語で解説をして、着付けもみせて下さるという。それから、ゆっくりと能を鑑賞する運びらしい。
言うまでもなく「花伝書」の「秘すれば花」や「時分の花」などは私たち日本人の美意識の軸をなしているのではないかと思う。時空や生死をあくまで静かに美しく易々と超える空間の舞台は他に類を見ないと確信している。
と、いうようなことは実は全て机上の、本や映像から得た確信なのである。
もう三十年くらい前に一度だけ能を観た。創作能「空海」で、始まって数分でグワッと寝た。起きた時はもう終わりかけていてどうなっているのか何もわからず、連れて行ってくれた友人に謝ったものだった。彼女は「寝るのは良い気に包まれた証拠」といって笑ってくれた。
京都、河村能舞台を訪ねた。能舞台は元々外にあったものをそのまま屋内に取り込む形なので入れ子の状態。それだけでも異空間であるのだが本舞台、老松が描かれた鏡板、橋掛かり、切戸口、階(きざはし)などその長さ幅を始めとして計算されつくした美しさがある。
尺貫法でなければできない割合だと思う。
シテの河村晴久氏は能役者でもあり歴史学の学者でもある。流ちょうに英語と日本語で交互に能の決まり事や歴史、舞の仕草を交えて、例えば生きる者(ワキ)と死者や狂女(シテ)との関係や本日演じられる「斑女」の内容を話されて、再び舞台に上がられた時は衣装を着ける前の姿。張りのある生成りの下着で覆い、足も脚絆のように巻いてある。能役者のこのような姿を見ることはまずないだろう。妻である菜穂子氏がこれも二か国語で解説しながら、着付けを手伝う。
髪は長い付け髪を整えていき、衣装を掛ける。あの織りの粋を集めた、絢爛なのに豪華さを押し出さぬ衣装を一か所なんと針で縫い留めるのである。
帯を巻く。静かに息を整えられる。
両手が面(おもて)を静かに運び顔に置く。
その、瞬間、わたしは息が止まった。
眼を見開いた。
面が顔に収まり結ばれると共に少しずつ顔が起こされる。その数秒の刻まれた時間と共に舞台が全く変わった。そこはもはや舞台ではなかった。生命が靄(もや)のように立ち上がる「場」であった。河村氏も能役者ですらなかった。哀しみと青い炎を吸い込むように身の内に置いた何か、であった。
静かにあの摺り足で橋掛かりから一度戻る姿を目で追いながら、なんだこれは、と思った。
音もなく囃し方が座に就き橋掛かりから「斑女」が現れる。
謡と共に恋しさゆえに狂女となった花子の物語が始まる。
大鼓、小鼓の乾湿の音とリズム、笛の音は心を手繰り寄せたり振り上げたりしながらも、しずかに流れる川である。
眠るどころではなかった。不思議な時の流れと今まで知っている感情表現とは全く異なる一見何の感情もない面の微かな動きによる変化と脚運びや摺り足、手の表情が、頭の翻訳なしに語り掛けてくる。
そして静かに終わりひとりひとり去り、密度の違う時を湛えていた舞台がふっと息をする。
帰り道、同志社の前を歩きながら考える。あれは、なんだったのだろう。面を着ける行為を舞台で見る事はないから、普通に観ていても同じように感じただろうか。けれどそう考えるときもあのみるみる変わる気をはっきりと思い起こすことができるのだった。
「斑女」は花子のあだ名で、捨てられた女を意味する「夏の扇」のもとになった中国前漢の詩「怨歌行」の作者の名に由来するが、ハッピーエンドである。三島由紀夫はこれを「近代能楽集」でいささか複雑な終わりにして見せた。その複雑な心理の綾や美的な趣も、しかしあの静寂にはかなわないような気がした。
これが、一度きりのビギナーズラックのようなものであったのか、翌年も河村氏ご夫妻の舞台を拝見するために京都観世会館に行った。
今回は「松虫」である。
そして、同じことがおこった。
しかも演じるシテの後ろに何か濃厚なものを感じたのである。
私は神秘的な嗜好はない。自分に関してはそういった感覚からは遠い人間だとおもっている。だからこれは、面の小ささにもよるのではないか、面をつけないワキは観客と同じ普通の人であることから生じる時空の歪み、ほとんど舞台装置もなく演者と音が平面にある構造効果もあるか、微妙な動きと足先手先、あの美しい摺り足、扇の方向への観る者の目線は、などと瞬間的に頭に浮かぶのだがそれもすぐに消え舞台にすいよせられるのだった。
「松虫」は大阪阿倍野の秋の野に虫の音を楽しんでいた二人の男の話である。一人が虫の音に誘われて草むらに入り出てこない。行ってみると倒れて死んでいる。嘆き哀しみ弔う。時が流れ酒を売る市人のところで飲む男たちがいる。白楽天などを吟じる中にひとり「松虫の音に友を偲ぶ」という男。訳を聞くうちに自分は実はその友を亡くした者の霊だと言って橋掛かりへ引く。友への思いが強く、執着のあまり成仏できないのである。市人が供養を始めると感謝して戻る。しかし、ここで霊は成仏できぬ苦しみを語るのではなく友との美しい思い出を語るのである。
松虫は今の鈴虫で、その「リンリンリン」機織り虫の「キリハタチョウ」つづりさせ(コオロギ)ひぐらしの名や鳴き声も謡われる。やがて夜はしらみはじめ、霊は名残を惜しみながら消えていく。
そこには、草が茫々と茂る野に、ただ虫の音だけが残るばかりであった。
世阿弥が完成した「複式夢幻能」のひとつで、はかなく美しい話である。執着で成仏できぬほどの友情は縦の糸横の糸を織り上げたような恋でもあったろうと思う。男同士の恋は特別なものでも忌むものでもなかった。
今回シテの後ろに感じた濃厚なもの、それは能を観初めた私の幼い感覚にすぎないのだが、その疑問を解くヒントを「能から紐解く日本史」大倉源次郎著と「見えるものと見えざるもの」(仏教する日本①春秋社)第四章「中世仏教のダイナミズム」(河村晴久、松岡正剛、福家俊彦)に教えられた。
能の中でも特別な「翁」の原型は秦氏によって伝えられたと言われ能楽の前身猿楽の開祖は秦氏であるという。「翁」を観ていると折口信夫の「まれびと」を思わせるのはそのあたりに理由があるのかもしれない。良く知られているように秦氏は大陸系の渡来人で、先進的な知識技術は明日香以来の朝廷を支えてきた。著者の大倉氏の苗字は大倉であるが氏は秦氏であり、能楽師の多くは秦氏と何らかの関係があるという。聖徳太子に仕えた秦河勝から政変による立場の変遷、京都太秦に拠点を移したこと、近江における朴市秦氏(えちはたし)の治水、酒造、馬の売買、養蚕などの話は興味深い。機織りという言葉も秦氏からでているという。
数百年を経て観阿弥、世阿弥が各地の神楽を集大成し猿楽から新しい芸能を作り出した。
河村氏によれば、多くの座の中で何故彼らが人気を得たかというとメロディーとリズムが揃った歌だったからだという。それまではメロディーはあるがリズム感がなかったのだ。それを曲舞(くせまい)という芸能から取り入れた新しい猿能楽であった。たしかに、リズムというのは時代を表す。なぜならそれは人の呼吸、時代の呼吸と繋がるからだと思う。ここで私は坂本龍一を思い出した。かつて坂本龍一はYMOの録音を終えた時、いまにドラムはシンセサイザーが主流になるのではないか、生から電子に移行するだろうといった。つまりリズムの概念が変わるだろうと。理由を問われて「機械のドラムの方が幼い子供たちのノリが圧倒的に良い」と答えた。その彼が、歳を重ねるごとにリズムの間の空間つまりは間、無音に心引かれていたようにも思う。
人気を得た観阿弥、世阿弥は足利義満に見いだされ寵愛を受け、能は今日に伝わる深い芸能へと変化していき、彼らの人生も又波の中にあったことは良く知られている。
この二冊から教えられた主な事のひとつは渡来系の深さや複雑さの記憶、もうひとつは観阿弥以後、作者それぞれが抱える時代とその人生による作品の違いである。
演目の一部からみてみると、「国栖」(くす)は敵方から天武天皇(大海人皇子)を守った国栖族の人たち、「白髭」では古くから琵琶湖、比叡に住む白髭の不思議な老人というおそらくは渡来系の老爺の話、そして「大江山」の酒呑童子である。
鬼のように巨大で異形の酒呑童子が山に入った修験者一行に、彼らが自分を成敗に来た頼光たちと知らずに語る場面がある。「比叡山に住んでいたのだが大師坊(最澄)というえせ人が勝手に仏教の聖地を作り自分たちは明け渡さざるを得なかった。その折、桓武天皇と出家には手を出さないと約束した」と。約束を守り修験者に化けている一行に手を出さず歓待した上で、童子はだまし討ちにあうのである。
大倉氏によれば、能の主人公は必ず「人ならざる者」「この世ならぬ存在」そして「退治された側」だという。私がシテの後ろにみたものは、もしかしたら、ここにあるのかもしれない。そして河村氏の述べられる観阿弥、世阿弥から元雅や金春禅竹の時代と、その人生に演目を重ねてみる。生身のものを、情念も哀しみも抱いたまま茶さじを削るようにしずかに研いでいった姿が見えるようなきがするのである。
