同窓会というものに、足を運ぶことはなかった。
あまりにも記憶力がなく自分が何組かも思い出せないで、先生の記憶も数人の方を除いては学年も何もかも曖昧なのである。
それが、年に数回ある同窓会に時々顔をだすようになったのは、世話をしてくれる幹事の心が、なにかこうじんわりと伝わるからだった。
彼女のことはよく覚えている。勉強ができて明るく、フタッとした色白の丸顔で、なんと可愛らしい子だろうと思っていた。
何十年かぶりに会ったとき、一目見て、苦労したのかもしれないと思った。頭の良さは昔のままで、てきぱきとこなしながら明るく世話をする様子が何故か少し一生懸命に過ぎるような気もした。なにか、その時に伝わるものが、在ったのである。
その後、問わず語りに家庭のことを話してくれた。それは私の想像をはるかに超えるものだったが、その苦しさの中で幹事をして、同窓生に喜ばれ新しい知識や仕事のことも知り、「ありがとう」と言われるのも支えだったと静かに語った。私は「同窓会ねえ……」などと内心思っていた自分が恥ずかしくなった。
確か還暦の会だったか、「そう言えばさあ」と私に向かって声がする。
うん?とそちらを向くと「小学生のころ不気味な子だったよねえ」と言う。
ぽかんとしている私に「昼休みに下敷きにはさんでいた仏像の写真をいつもじいいっと見ていたよねえ。時々ふっと笑ったりして、気持ち悪かったなあ。」
又、いつだったか、帰り道で「そう言えばさあ、初めて遊びに行った時、約束してなかったけど、近くに来たから寄ったことがあったでしょ。ほらお母さんがフランス人形みたいにきれいだったから、あなたの部屋も可愛い部屋なんだろうなとおもっていたわけよ。それが何にもない部屋で、そこで、あなた、義足で遊んでいたのよお。不気味だよねえ」
「そう言えばさあ、中学一年のころだったかキャンプでカレーつくったじゃない。まな板がなくてどうしようかと話していたら、いきなり手に持った人参をそのままガシガシ叩くみたいに削ぐみたいに斬って鍋にいれたのよねえ。なんだか包丁持って立っていて、不気味というか可笑しいというか、この人料理したことないんだなあって皆でびっくりしたよねえ」
又、ばったり街中で会った同窓生いわく「そう言えばさあ、みんなで一緒に白爪草でネックレスを作っていたら急にやめて、ずっと石拾っていたよね。裏返したりしながら、変だったねえ」とも言われた。
他にもいくつかの「そう言えばさあ」を聞いて、確かにそういうことがあったと思い出した。
環境が良かったのか、周りの子供たちに恵まれていて、苛められずに済んだのは有難いことであった。
仏像の写真は父がくれた。町医者をしていたので薬を買うとおまけに仏像シリーズの写真が毎月一枚付いていた。これは何年も続いたと思う。他に製薬会社が出す「あちらの暮らし」という厚さも紙もペラペラな雑誌もあった。この冊子はとても面白かった。外国など遠い遠い時代である。そこに、イヌイットの暮らしや北欧のトナカイを飼う人々や白夜の写真、スイスの牧畜、大きなチーズなど、幼心に色々な暮らしや景色が染み込んだ。その頃はアジアの特集はなかったのだろうか。記憶にない。
仏像の写真は何も言わず説明もせず「ほい」とくれるのである。私はすぐに好きになったが、漢字にはルビがふってあっただろうか。その頃は興福寺の阿修羅は勿論、神護寺の薬師如来や空也上人、三月堂の脇侍月光菩薩の手、東大寺広目天などを繰り返し見ていた。大人になり、奈良、京都、近江と仏に会いに行きたくなるのはこのころから始まっていたのだろう。
そう言えば、小学校のクラスの卒業作文「これからしたいこと」に桂ヶ浜で月を見て、阿修羅に会いに行きたい、と書いた覚えがある。ひねている。確かにいささか不気味ではある。
義足は、叔父のものだった。慶応の学生の頃、佐世保に祖父の車で行く途中、勤めたばかりの運転手が事故を起こしてしまい、片足を切断した。スポーツ万能の人でどんなに辛かったかと思う。しかし叔父は決して運転手を責めなかったと聞いた。大学を辞めてからは、家の没落も重なり随分といろいろなことがあったと、思う。その叔父が義足を新しくしたおり、古いほうを残していったのだった。今のものとは違い脚の形に皮が貼ってあり膝の上で留めていたように思う。私はその膝の仕組みがどうなっているか急に気になり子供部屋にあった押し入れから取り出したのだった。分解しようにも、ただ膝の形をとっているだけで、これで歩くのは痛いのではないかと曲げてみようとしていたところに「お友達ですよ」という声がしたのだった。その頃の家は、以前住んでいた人の古い家と新しい部屋をつなぐような造りで、そのつなぎ目にある狭い空間が子供部屋だった。
キャンプ、確かにそんなことをしたなあと思い出す。女の子たちが集まって、まな板が無いわね、どうする、どうする、これじゃあお料理できないよねえ、と騒いでいたのが面倒だったのである。手に持ったままでも切ることはできる。いきなり切らずに「ねえ、こうすればいいんじゃない」と言えばよかったのだ。いきなり切っては、確かに、変だ。
花の首飾りのことも、小学生だったか、たしかにあった。
その頃は所有者など知らない空き地がかなりあって、そこにはクローバーやタンポポなどが生えていて、夏の朝、ラジオ体操の時には朝露が足にひんやりとしたものだった。
どうして、途中でやめたのか……自分でも分かっていなかった。
そうだ、今になって気が付く。何か悲しかったのだ。茎に爪で穴を開けて花をつないだり、ぐるぐると巻いて花を編んで冠を作るうちに、体温で温かくなり頭を下げるようになっていく白い花が、その匂いが、悲しかったのだった。もちろん石が好きだったのだが。
そういえばさあ、と自分で呟いてみると思い出すことがある。
それは、ひんやりした理科室や渡り廊下の階段に座って簀の子に足をおいて、しーんとした、気配はあるが音のない空気である。
私はお腹の弱い子供だった。授業中に痛くなりトイレに行かせてもらったことがある。落ち着いてから、渡り廊下の階段に腰かけてふううと息をした。しんとした不思議な静けさがあり、簀の子に足を置いてしばらくその静寂さに包まれた。小学校は松原の中にあった。朝の外掃除は松葉掻きで、木製の渡り廊下も松に囲まれていたのである。
私はなかなか悪い子供だったようで、それに味をしめた。時々同じことを先生に告げて教室を抜け出しては渡り廊下の静けさの中に座った。
毎朝、運動場で朝会があった。朝掃除の後、行進して並び校長先生と朝のご挨拶をするのだ。何があったか忘れたが、この行進に遅れてしまった。途中で行進に入る勇気もなく、掃除をしていた理科室にポツンといて運動場からの声を聞いた。酢酸のような臭い、培養しているシャーレのカビ、骨格標本。アルコール標本の白い胎生の魚はそのふやけたような白さを気の毒に思ったようなきがする。
あのひんやりとした空気と小さく聞こえた運動場からの音は酸の臭いのように私に付いて離れない。
「そう言えばさあ」にはいささか驚いた。自分が不気味な子供だったということに、ではない。
仏像の写真を見たり、義足の仕組みが気になったり、そのほかの様々なことが、人には不気味なことだと知らぬまま歳をとったことに、である。
今までは運よく見逃してもらってきたが老人、特に老婆の不気味は、困る。
「浅 茅 ヶ 原」という字が、ふと浮かぶ。
