六歳までを筑豊の小さな町で育った。
就学前というのに様々な記憶が鮮明に残っている。
記憶のはじめは、二本の脚である。
厚めの靴下をはいた、畳の上の妙に力の入った細い二本の脚である。いつもそれを最初に思い出す。そこから後の記憶はない。
巻き戻すように続くのは保育園の運動場の真ん中にぽつんといる自分の姿だ。前に目を見開いた園長先生がいて柴箒を持ち上げて、犬を叩いた。
少し汚れた雑種で、私の飼っていた犬だった。鎖が外れて引きずりながら、気付かぬうちに、ついてきたらしい。
あるいは野良犬が近づいたと思ったのかもしれない。私が犬をなでているところを、いきなり打った。
私はそのまま犬と家に帰り二度と保育園に行かなかった。
担任の先生や園児たちが何度か迎えに来てくれたその声を、覚えている。
それでも、やはり、行かなかった。
父が働いていた病院の広い庭を横切り門を出て、ギザギザの葉を立てたアザミを触り土手を歩くと川に出る。
川は洗炭のためか黒く、時折日を受けて光った。
夏は道が白かった。
田の間の小道を歩く。夏の午後は不思議なくらい静かで、田んぼの周りに銀と赤のきらきらと光るテープがねじり張られていて風に吹かれるとくるくると色を変えた。
緑の稲の葉が風と共に動いた。
独特の臭いがした。今思うとあれは農薬の臭いで、立ち入りを止めるテープだったのかもしれない。
随分歩いて農家の牛を見た。少し臭くて、つやつやとしていた。柵に登り、撫でると横についた眼が動いてこちらを見た。美しい眼だった。
冬の道を歩くと霜枯れの畑に凍った野菜の葉があった。葉脈に沿う様に小さな氷の粒がついていた。後年、丹波の畑を歩いていた時に、これは、あの冬の臭いだと気付いた。それは白菜の立ち枯れた臭いだった。
冬のお気に入りは結核病棟であった。
若葉の頃も深く息を吸い込むような楽しさがあったが、やはり冬は特別だった。
そこが結核病棟で立ち入りを禁じられた場所であることなど知る由もない。
病院の渡り廊下の下を、橋掛かりの木材の裏を見ながらくぐり抜けると中庭である。
いつもしんとしていて誰もいない。誰もいないので、いつも踏まれていない美しい雪があった。小さな正方形の真っ白な世界。そっと雪に足形をつけながら、中央の白い樹の周りを回った。これはしばらくして父の知るところとなった。
小さな足跡に父が気づいたのだった。
私の冬の楽しみは中断されたが、後に初めてのツベルクリン反応が大きく腫れたように出て周囲を驚かせたらしい。
川の土手の下にガラス工場があった。
クリスマスツリーに飾る赤や緑の玉や小さなおもちゃの器などを作っていた。
不良品が捨てられている山から小さな器を拾ったり、工場のおじさんの手にある細い管から出る火花やガラスを切る機械の動き、円を描いて回す機械などはいくら見ても飽きなかった。
その近くに空き家があった。
立派な庭のある日本家屋で門の横のくぐり戸を開けることができた。
荒れた庭を進み池の石橋を渡ると築山があり、その石に登ると視界が広がり、池の端から飛び込むトノサマガエルが見えた。脚をピンと伸ばし飛び込み、ぐいっと縮まり又伸びて泳いだ。その様子に見とれる視線の向こうに、母がいた。
隣家の窓から、母の立ち姿が見えた。
鏡の前で、ちょっと身体を斜めにして、点検するように真剣に見ていた。
あれは多分、仮縫いだったのだろう。離れていたのに、なぜかあの視線を覚えている。
昼食は、病院の掃除などをしてくれる「こづかいさん」の家で食べた。
つやつやの茄子をもいで七輪で焼いてくれた。天井から吊り下げられた笊に冷ご飯が入っていて塩をふって出してくれた。炒ったいりこや庭の野菜のぬか漬け。質素なことは子供にもわかった。しかし、ラジオを聞きながら丸い卓袱台で、老夫婦と食べるこの食事はとびきり美味しかった。
夕方近くまで、犬や猫とも遊び、疲れてそこに帰り、ごろんと横になって家での夕食前の少しの時間、ラジオを聞いた。今も覚えている赤胴鈴之助の歌はこの頃聞いたものだっただろうか。
ほぼ一年近く、私の幼い一日は、一人であちらこちらを歩き回り過ぎていった。
こうして、「孤独」は生涯の友になった。
淋しい、つらい、悲しいといった感情は全くなかったように思う。
動物も花も草も樹も石も土も火花も虫も空の動きも風も、その何もかもが、世の中というものが、この五歳児には面白かったのである。