初めて東北を旅したのは四十六年前の十月の末であった。
一関のジャズ喫茶をゆっくりと楽しみ、居酒屋に入った。
静かで、店主が小さく、いらっしゃいと言った。
居酒屋といえば、私が知る限りでは親父の元気の良い声に迎えられ、騒がしい店内に笑い声や話し声が混じっていたので戸惑った。
カウンターだけの店で客は顔見知りのようで、テレビを見ながら、静かに、話していた。
「ほらなあ、やっぱし、これだと、思ったぁ」と一人が言い、隣の青年が「江差追分だよなぁ」と言った。そして、横に続く二人が深く肯いた。
テレビに目をやると、民謡大会の様であった。音は小さかった。
熱燗を頼む。
ああ、熱燗とはこういうものだったかと、改めて思った。
隙間からの、九州とは異なる鋭利な冷たい風と鼻に触れる酒の香と。
酒は「関山」であった。当時のことで、あまり磨かぬ酒で燗によく馴染んだ。
翌日、会津に足を延ばした。
ここで、長い付き合いとなるお二人と出会うことになる。
その店は、「会津」と墨書された店が連なる繁華街の一角にあった。
鰊の山椒漬けなどを味わい、慣れぬ寒さを楽しみながら歩く道に、小さな看板がひっそりとかかっていた。
心引かれるものがあった。
入ってみると清潔な一枚板のカウンターで、棚も美しく揃えてある。
奥に喪服を着た数人の先客があった。
店主と奥さんらしい人がこちらを向いた。
店主はそっと椅子を示した。喪服の客は親戚のようだった。
会津の言葉が心地よく聞こえた。
丁寧に割られた氷にウイスキーが注がれる。
若造が最初にカクテルを頼むのも何か気恥ずかしく、といって当時三十歳で学生の夫と二十五歳の私の日ごろのウイスキーといえば、角かホワイトでだるま(たぬき)は高嶺の花であったのだが、どの瓶を最初に頼んだだろうか。覚えがない。
「ご旅行ですか」と店主。続けて「どちらから」
九州です。と応えたその時に、何か空気が止まったのを感じた。
「薩摩、じゃ、ありませんよね」
え、え、え、何? 今では、そういうことや、幕末の会津の歴史は多くの人に知られているが、当時の私は白虎隊の「悲劇」を通してしか知らなかった。
夫の「博多です」というのと私の「筑前福岡です」というのが同時で、自分の両指がきちんと伸びていたのを覚えている。
「それなら、いいです。」と言った店主の口から、言い継いできた身内をはじめとする
人々の最期や埋葬を許されなかったこと、遺体をそのままにしておくということがどれほどの苦しさであったかを聞いた。「いろんな町の臭いが生き残った者の鼻から消えなかつたそうです。」
「だからってわけじゃねえけど、会津ってのを、今、商売の看板にはしたくなかった。
多分変わってんだよねえ、俺」
喪服の人々が去り、店の看板の灯りを落として、意気投合した私たちは飲み続けた。
安宿の閉まる時間を過ぎていて、心配した二人が道案内を兼ねて送ってくれた。
ガラス戸を叩いて開けてもらい二階の部屋に入ると私たちを呼ぶ声がした。
窓を開けると、二人が手を振っていた。私たちも手を振った。
他の客はさぞかし迷惑であったろう。
遺体の埋葬については、2016年に資料が見つかり会津藩降伏の10日後に埋葬命令が出された記録があったと聞く。しかしもし、通説になっていた半年ではなく10日間、いやそれ以下であったとしても、手をつけることが許されなかったとすれば、腹のうちは察して余りある。
戦というものは普通の人の魔を引き出し増長させる。
この日、私は何も知らないのだと知った。
その頃の私の幕末の「感覚」は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」であり黒木監督の「竜馬暗殺」であった。今でもその二作は好きである。好きではあるが、私の窓口の狭さは、能天気なものだった。
本というのは面白いもので、気付きがあると不思議とそれに沿って次々と新しいものが目に入るようになる。
それは、例えば「ある明治人の記録」であり「城下の人」であり、その編集について鋭く深く淡々と分析した章のある「日本近代の逆説」である。
9.11の同時多発テロが起きた時、失われている命が身に刺さり私の言葉は消えた。
しばらくして、やっと出てきたのは「近代のつけはこういう形で支払うしかないのか。」という呻きにも似た言葉だった。安直な言い回しは承知している。
しかしやはりここに至って近代、そして、日本の近代とは何だったのだろうと、思わぬわけには、いかなかったのである。
やがて、近世についても何も知らないことに気づく。まあ実に何も知らぬのだ。
そこに、「近世新き人伝」が目に入る。
ああ、と目の覚めるような序文であった。
連なりといえば、テレビをつけた時にドラマの終わりのシーンが映っていた。
明治の様で、縁側に座る男と庭にいる少年たちが話していた。男は多分勝海舟のようで、これから東京で学ぶ少年たちの名を聞き、温かく励ましているようだった。
最後の小柄な少年が「柴五郎です」と言った。
私はちょっとのけぞり、瞼が熱くなった。
「ある明治人の記録」の厳しい日々と柴少年の幼さが目の前で重なるようであった。
すぐにドラマは終わり、原作 山田風太郎という文字が目に入った。
山田風太郎は忍者物しか知らなかった。おそらく深く調べ上げての、フィクション。大嘘の中の正確なディテールに真実を潜ませているのではないかと、その時思った。探して読もうと思いながらまだ果たしていない。
こうした一連の本との出会いは会津のあの夜に始まった。
淡々とした、熾火のような温かさのお二人とは、細く長く今もお付き合いが続いている。
秋になると、時々、柿が届く。
渋柿を焼酎やガスで渋抜きしたもので、その名を「みしらず柿」という。