毎朝、神棚と仏壇に挨拶をし、仏前で短い経を読む。それから、傍にある故人の写真の前に手をついて「行ってらっしゃいませ」という。

 人が見たら滑稽に違いない。

 神棚は、日の出や、大地や木や草や空や、取り巻く自然にどうしても手を合わせたくなる私の習性の依り代であり、そこには長く人々が祈り願ってきた土地の神に手を合わせ家族の無事を祈らずにはおられぬ畏れと安堵がある。

 神社には地球そのものの息吹の跡の巨石や山や、何やら背筋に感ずる鎮魂の気配もある。それらのことは私の身の内に自然とあるもので、アニミズムに近いものかもしれない。

 一方、絶対は無くすべてが流れていく、むしろ死後に執着することを避け現世の苦しみや悲しみに向き合う原始仏教の思想は、私には一番得心でき、惹かれるものなのだが、仏壇に手を合わせるというのは、私の場合、これら仏教の思想に依るものとは違っている。

 脈々と繋がる命そのものの不思議を思う。

 毎日同じように朝を迎え、お茶湯をし手を合わせられるという行いそのものが、何より、穏やかに朝を迎えること自体が奇跡であることを私たちは知っている。それ故に、今繋がっている人々の無事を願い、いのらずには不安なのである。

 愛する者がいるということは強くもあるが、一方では臆病でもある。

 そこに、写真も介在しているのだなと、ある時ふと思ったのである。

 そして、写真というものが在る時代と無い時代とでは、感覚に違いがあるだろうか、人に対する、時に対する思いは何か変わっただろうかと、おもった。

 同時に写真というものの不思議を感じたのだった。

 私たちは写真に写るようには見ていない。常に動く時間と共に在るので、瞬間を切り取るようには見ないのだ。

 私たちは、写真によって時空を旅する。同様に故人も又、動く。

 忘れていて、写真を見ても思い出さない場面もある。けれども、確かに、こういう時はあったのだという思いは、そこに写る空気の中に人を誘う。

 故人の写真を見て何か心が動くとき、その人は私たちの「今」に居る。

 よすが、依り代としての残された物も無く、記述、記録、形見などというものも持たぬ、記憶とその時の想いだけを持つ人が、頬を撫でる風のように、ふっと思い出す感覚や感触に思いをはせる。

 そして、それを、単に美しさや切なさとしてのみ感じることを、己に禁ずる。

 スマートフォンは本当に世界を変えた。いつも情報と繋がり、あらゆるものの写真を撮る。便利であり日常でも仕事でも、その記録に助けられ好きなものを納め持つことができる。医療や災害、今伝えなければならぬ様々な場面で「今」を送ることができる写真の力は大きい。

 一方、先日、博物館で埴輪を見た時、撮影許可された愛らしい馬を撮り、直ぐに動こうとしてあれっと、思った。見ていない。なぜか安心してしまい、ろくに見ずに離れようとした。危ない、と思った。

 そして小学生の頃、父に貰い初めて手にしたカメラのことを思い出した。大層古い小型のオリンパスのもので、薄茶色の皮のカバーも紐も変色して擦り切れていたが嬉しくてならなかった。シャッタースピードや明暗やピントやフィルムの出し入れを習った。覗き込んでじっと見てシャッターを切った。あの時間と指の感触を、ふいに思い出したのである。

 自分とは何の関係もない古い写真が心を捉えることもある。写真というものにつて、あれこれと思いは広がる。

 小さな写真ケースに亡夫の写真を入れて常に持っていたことがある。

 彼は本当に人に好かれる人で、お世話になった方々に又食事の店等で、お礼を兼ねて写真を開くと、涙を流して懐かしんでくださる方が多かった。心からありがたく、彼は良い人生を送ったのだと救われる気もした。

 しかし、暫くしてそれをやめた。それは他でもない私自身の心の中に、その行為に、かすかに偽善のにおいをかいだからである。

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