六、七歳の頃であったか、不意に「山」が不思議になった。
住んでいた近くに金屑川が流れていて小さな木の橋がかかっていた。北は三角州を左に海へと続き南は油山上流へと向かう。橋からは網を投げる人があり、さああっと広がる網の編まれたひし形の所々に、錘の金属が鈍く光って美しかった。春先にはつんと尖った鼻先のさよりも泳いでいたが網にかかるのは大抵ハゼのようだった。
少し生臭い臭いと共に引き上げられるまで、いつも傍に立って見ていた。
60余年、すっかり昔の景色になってしまった。
網が上がるまでの時間にふと山を見てあれは何だろうと思った。
川があり、先には畑があり家があり道路がある。そこに、何故あんなに高いものがいきなりあるのだろう。
砂場で山を作る時は砂を固め水を少し足しながら、両手で押しながら高くしていく。
よく固まってきたら、用心しながらトンネルを作る。両側からこわれないように、こわさないように掘るのだ。成功すると両側から手を入れて指先握手をする。自分の指が触れているだけなのに不思議な感触だ。砂の山はそうして作る。本物の山はどうなっているのだろう。あれは何なのだ。
父に指さしながら聞いた。「あれは、なん?」
語彙が足りなかった。こいつは大丈夫かと思ったのか少し間があった。
「山やろうも」
「だから、やまって何」もう少し、ましな質問ができそうな年齢だが語彙が足りない。
しばらくして、父は言った。
「昔マホメッドという人がいて、山に向かってこう言った。
山よこちらに来いと。しかし、山は歩いて来なかった。だから、私が歩いていかねばならない。山はそういうもんたい」
ある程度の年齢なら山を真実と置き換えたりもするであろうが、小学一年生はぽかんとするほかはない。あまりにぽかんとしたので、よく覚えている。クルアーンにそんな記述があるのかも疑わしい。父が話して聞かせてくれた昔ばなしは後に読むと随分違っていてどうやら作り変えてもいたようだったから、とっさに作ったのかもしれない。
疑問そのものが何であったかを少し理解したのは6年生のクラスで化石採集に行った時だ。
姪浜の海岸に化石があって、黒い線に沿ってハンマーをあてると、ぱかっと開き木の葉の化石が出てくる。夢中になった。その時、石というものがどのようにしてできたのかを大まかに教えて下さった。
まだ生物が生まれる前の地球、マグマ、鉱物、堆積。ほんの少しの説明ではあったが、くらくらするような気がした。石蹴りをして帰るあの石が気も遠くなるほどの昔に熱や圧力でできていたのか。
それが、道に転がっているのだ。
それからは、石を拾ってきては先生にお聞きしたりして、名前を知った。番号を書いてニスを塗り、メモをした。お気に入りは蛇紋岩と黒雲母片麻岩だった。
化石拾いも休日の楽しみでハンマーと袋を持ってでかけた。姪浜の海岸で何故拾えたのか、もしかしたら炭鉱があったからかもしれないと思ったのは大分後のことだった。そしてその炭鉱が採鉱冶金を卒業した母方の祖父が管理をまかされていた炭鉱のひとつで、ここでは経営にも携わっていた事と結びつくのは、さらに暫くしてからだった。
感動という言葉や感覚は知らずとも、子供の頃の胸の高まりというのは老人になっても忘れられないものであるが、その「感動」をはっきりと自覚した記憶は十代のはじめ元素の周期表を習った頃だった。あの「水兵リーベ僕の船」である。
恒星では核融合で元素が作られていくこと、その最後が鉄であること。それ以降は星の最期の爆発、死によってできる。
生きている星が最後に作る鉄。そう反復した時、それは私たちの身体に、血に、あるではないかと不意に思ったのである。そしてヘモグロビンは酸素を運ぶのだ。
思った瞬間に喜びとも畏れともつかぬ感覚がこみ上げた。
今でも、露出した石や、山肌、聖地といわれる場所の石や土などを見ると、触ってみる。成り立ちや、磁気についてちょっと考えたりもする。地殻変動の証人の石や地層、そしてその変動による土地の上に、貼り付くように、変動に導かれるように、生きてきたヒトの時間と生活を思う。系統だてて学ばなかったので、子供の知識のまま、あやふやである。
何年も読まずに棚に置いたままの「世界の起源」(ルイス・ダートネル著)という本を、ふと手にとってみた。
めくっていて、ずっと、こんなことを知りたかったのかもしれないなと、思った。