久しぶりに骨壺を作った。仕事柄注文があれば引き受けることにしているが、いつもある話ではない。またモノがモノだけに注文主は本人かその家族ということ になるが、いつも多少の要望が出る。なるべくそれに応えるつもりで作るのだが使い心地を訊ねる訳には行かない。使われる時はすでに当人はこの世にいないか らだ。

 骨壺を初めて作ったのは30年ほど前、知人の幼児が不慮の事故で亡くなった時だった。小さくて可愛い壺を依頼されて花柄の色違いを数個作り選んでもらった。

 次に注文を受けたのは80才前後の老外科医のY氏。ガラッと引き戸を開けて細身だががっしりした体つきの大きな老人がヌッと顔をだした。食事中の私たちを見て一瞬ためらった様子だったがかまわず仕事場に入ってきた。

「ア ナタ焼締めやっていると聞いたんだが」(焼締めとは備前や信楽のように無釉で薪窯で焼いたもの)と展示物を見やりながらトロトロと話し始めた。昔は夜ごと キャバレーやクラブで遊んだものだが、いつの間にか遊び友達がみんないなくなり、あなたたちにはまだ解らないだろうが人生がつまらなくなった。そうなると いつ死んでもいいと思うようになり、墓も建て準備を整えた。そこへ知人から骨壺の指摘を受け、考えた末に土に最も近い焼き締めに決めたという。

  そこにあった水指(お茶に使う)を見て「これで結構、ただワシは身体が大きいのでこれを一回り大きく、そして肩が張っているのを丸く変えて欲しい。あの世 まで固い男だと言われたくないんだ」と言った。また妻の分の小さめの壺と二つ注文して、「いつ焼き上がるか?」と訊いた。「半年後ぐらいですかね」「それ ぐらいはまだ生きているだろう」と初めて少し笑った。

  彼は週に一度、私の仕事場の前を通って金峰山を登り、頂上で缶ビール二本を飲んで車で帰るというから年齢より随分元気のいい人だった。初対面の上、慣れな い注文が気がかりで、予定を変えてすぐに作り、先発の窯に入れた。壺が焼き上がったと電話で伝えると「早かったな、ワシはまだ生きとるばい。」と返って た。死なれたらこちらも困るのだ。

  開店休業状態のY氏の医院に壺を持参すると、元看護婦と思われる年配の元気な女性が割烹着姿で現れた。二階の元病室らしき広い部屋に案内されたが、そこは 不思議な空間だった。中心にテーブルクロスを掛けた大きな食卓があり、皿とフォーク、ナイフがセットされていたが、それは今から食事が始まるということで はなさそうで、常態つまりいつもの風景ではないかと思った。それほどに人の気配を感じさせない静けさが漂っていたのだ。

  部屋の隅にはちょっと前に流行ったホームバーも古びてあった。そして驚いたことにバーの前にかなり大きな望遠鏡が床に固定されて北側を向いていた。「覗い てごらん」と言われるまま見ると、はめ殺しの広いガラス窓を通して見えるのは金峰山山頂だ。かなり倍率が高いらしく、人の動きがわかる。「ワシは今日、何 人登ったか分かるんじゃ、ホッ、ホッ、ホッ」と嬉しそうだった。

  3年後にY氏の後輩という外科医のN氏が妻と娘の3人でやってきて、Y氏が自転車の転倒が原因で亡くなり、壺が使われたことを知った。彼はY氏の仕事、人 柄を賞賛した後、死への準備が見事だったとも言った。3人は正座を崩さず、固い表情のままN氏は話を続けた、「ご家族からY先生の骨壺の件をお聞きして、 その完璧な準備に感動しました。そこで、実は私も注文したいのですが、少々お願いがあります。色は白い釉薬で、また私の頭骨はご覧の通り人より大分大きい ですので、Y先生のよりもう一回り大きく作って欲しいのです。」私はN氏の眼から視線をずらさず頭の輪郭をなぞった。

  注文がないのに作ったのは母の骨壺だ。その前に亡くなった父の時は全く考えることもなかったが、母の死が近くなった時はなぜか作ることを決めていた。お しゃれが好きで、やや派手好みの彼女に用意したのは本体がトルコブルーで蓋はプラチナ銀、ぴったしだと思ったが本人には見せなかった。

  そこで新しく作った墓に母、父、また病死した父の先妻(私の実母)の3人を一緒に納骨することにした。壺は3人とも私の作ったものに取り替え、親戚一同と 墓地へ向かったのだが、それまで良かった空模様が一転、到着する頃は雷鳴轟く土砂降り。傘は全く役に立たず、皆ずぶ濡れになり、線香を点けるどころではな い。とにかく三つの壺をバタバタと墓に押し込み、逃げるように墓地を去った。そのあとの会食のときには嘘のような青空、いい挨拶をいただいたと一同納得し た。終生、宗教を忌み嫌った父を見て育った私の仕業、どうぞご勘弁をと言うしかない。

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