1953年(昭和28年)福岡市新天町の裏路地に三人の若者が「青の家」というアトリエを作った。
そのことについて、 画家の寺田健一郎が「青の家始末記」という短い一文を残している。文面から1962年くらいに書かれたものではないかと思う。
その中に 「行政上は市の土地らしかったが三年後に取りこわすまではどこからも文句が言ってこなかったから、今だに正確な持ち主は知らない。
とにかく、空き地があるから、ここに自分たちのアトリエを作ろうと、無鉄砲な計画をたてのがNとY、それに私」とある。新天町の裏あたり、そのころはまだ戦後のごみごみした建物の間にいくつも空き地があったとは今では想像もつかない。
寺田の文に戻れば、「共同生活は一年続いた。医学生であったNは精神科医として横浜に去り、彫刻をやっていたYはマネキンデザイナーとして招かれ、残った私は、又学校に戻った」
その頃は若い画家たちが出入りする場所にもなっていたのだろう。後に九州派結成の伏線になったことを今回知り仰天した。私のなかでは全く繋がりのない二つだったのだ。
主のいなくなったアトリエを(誰の土地とも知らぬまま)1000円でKに貸し、そのKがアメリカにわたり6年ぶりで帰ってくるという話でしめられている。
手元に1953年の西日本新聞の記事のコピーがある。「喜びの“青の家”住人」と題された記事に、青の家のいきさつ、二科展に入賞した住人4人と、他の受賞者「ロウアの画人初入賞」として満州からの引き上げで愛妻を失い長男を連れて帰国。心の痛手は大きく絵筆を断っていた画人が再び描き始め入賞したことを記している。まだ、戦後なのである。
写真が添えられていて、青の家で話す寺田とNとYが写っている。Nが頭をかいて笑っている。若いなあと思う。背後にNの受賞作の「門」とおなじモチーフの画がある。私は青の家のことを少しだけだけれど本人たちに聞いた。何故私がそこに同席していたのかはわすれてしまったのだが二十歳くらいだったろうか。今はONEビルになっている福岡ビルの地下のエストサントリーというバーで寺田氏もおられた。自分たちで作った家は傾いていたが支えをして、なんとか形になったが窓ガラスを入れられずビニール貼りであったことや盗電をしていたこと。夏の暑さに耐えかねて新天町の通路に涼みのために置いてあった氷柱を彫刻のノミで盗みにいったこと。(これらのことは始末記にも書かれている)うどん屋につけがたまり、Nの母親がそれを払いにいったことなど、楽しそうで、かなり酒も入っていた。
Nが突然「お前はいまだにシュールレアリスムなんていってるからだめなんだ。」と言った。それからどんなやりとりがあったか、残念ながら覚えていないのは私も酔っていたのかもしれない。N たちは50歳前くらいだったろうか。穏やかに対応していた寺田氏がすっと出て行かれたのだけはおぼえている。
最近よくNのことを思い出す。それで遺稿集を本棚から取り出しページをめくってみた。Nは精神科医として、絵画療法の草分けの一人として沢山の論文や文章を残している。
そこに書かれている、戦後の混乱期混迷する時代を医学生として生きることに、自信のないどこか鬱々とした不安定な姿や、初めての二科展入賞で褒められ認められたことに対するあまりにも素直な喜びと、おそらくは三回の入賞と共にある、いわば「再生」の様子を読んでわたしは驚いた。
私の知るNは迷いのない、いつも断定的に話をする人であった。強烈な個性で容貌もオーソン・ウェルズに似ていてお洒落だった。仕事にしても趣味にしても決めたら後には引かない。実行に移すのに迷わない。一方でその実行のために苦労を重ねてコツコツと積み上げ、実務を担い共に成し遂げては蔭でそっと喜ぶ人々の姿も、私は見てきた。
しかし、この喜びと再生の過程こそが、Nの医師としての基盤であったことは間違いないのだと、知った。
「ちょっとしたきっかけで」描き始めたと何度も書いているが、そのことについてはどこにも記述がない。それを、一度だけ聞いたことがある。ちょっとしたきっかけ、とは思えない。
医学生の頃、下宿の隣の部屋に住んでいた同じ医学生で韓国籍の友人が病に倒れた。当時のことで故国の両親とも中々連絡がとれぬ中、病院の手配をし看病したのだが亡くなってしまった。彼が病の床で、何もお礼の品もないから、僕が死んだら部屋にある油絵の道具を貰ってくれと言い残したのだという。そして、両親が間に合わない時は、悪いが僕を火葬してくれと。
その言葉通り、Nは一人で葬儀をして棺をリヤカーで運び荼毘に付した。遺骨をどうやって故郷に帰したかは聞いていない。しばらくして残された絵の道具を開けてみた。
そこには若い医学生の異国での死への思いがそのまま残っていた。開いたその手で使い始めたのが最初の作画だったということだった。
Nは恵まれた環境で育った。家業は継がず医師になることは認められたものの、精神科医になることは反対されていた。「描くことと治療」を模索しながらも、家でも大学でも理解されることは難しい日々。昭和30年にエイドリアン・ヒル著、式場隆三郎訳の「絵画療法」に出会ったときは驚きと感動で本当に震えがきたという。それから東京の慈恵会医科大学に籍を移し式場氏との交流もある中、本格的に絵画療法に取り組むことになる。しかし、当時の精神病院の在り方はNの心を憤らせていた。
「コンクリートの白い壁で固めて、トイレと粗末なベッドあり、壁にも何もない寒々とした部屋。精神を病むものがこんなところに入れられてよいはずはないと思った。」
という言葉を直接きいた。
後に海外で学んだ建築と色彩、デザインを生かし、その寸法や資材まで考えて周囲とやりくりを重ねながらも妥協せず田舎の温泉町に美しい病院を建て続けた出発点である。
陶芸療法も始め本格的な焼き物も作り「芸術療法」として広げていくのだが最後に取り組んだのは老いと痴呆であった。
他市に「ものわすれクリニック」を開き痴呆老人専門の通院型の取り組みの中で、絵画も陶芸も料理も音楽もできる芸術療法を展開した。しかし当初「もの忘れ」という標榜はなかなか受け入れられなかった。
今では一般的になっている言葉も1999年には単に物珍しさによる宣伝と受け取る医師もいた。標榜を「もの忘れ」としたその理由を、長い間懸命に生きてきた方々にどこか卑下したような響きのある「痴呆」という言葉を使いたくなく、言葉と観念のバリアフリーとしたつもりであると書いている。
本院は後継者に任せ、小さなクリニックで仕事を始めた時、Nは私にこう言った。
「医者の原点に戻ったみたいだ。ものすごくわくわくしている。往診もして家庭環境などを知りそこから新しい視点も見える気がする。最後のしごとが面白くてたまらない。」
2000年の「医師会報」に「もの忘れの友と共に」というエッセイがあってこういう話が書かれている。
料理の話題になった時にふっとベテランの主婦の顔になる女性の事を始めいくつかの実例が語られる中に昼食の場面がある。偶然男ばかりだったその日のテーブルで共に食事をしながらNが「年男という原稿依頼をうけて断ったのですが、考えてみると次は12年後。〇〇さんより三年長く生きなければならなくて自信がないので書くことにしました。」と言った。すると席にいた患者さんそれぞれが皆「死んじゃダメです。一緒に生きましょうよ。私たちのためにも一日でも長生きしてください」とこたえたという。
46年間医師として、精神を病む患者さんと会話を重ねてきたが、その患者さん達から同輩、仲間として、一番下の弟分として励ましてもらった経験は生まれてはじめてのことで思わず眼がしらがあつくなった。
時に会話の難しい患者さんとは言え普通の話にも聞こえる。だがその会話に患者さんの心情を重ね涙ぐんだNに私も熱いものを感じるのである。
Nは常に長男として、先駆者として先に先にと走り続けていた。
その忖度のない遠慮のない言葉は周囲を威圧してしまう力もあった。思いを実現させてきたにせよ、それだけに、嫌われることもあり、孤独でもあったのだと思った。
初めての「弟分」であったろう。このエッセイはこう結ばれている。
「人生の終わりを数字で認めざるを得なくなった年頃になり新しく思いがけない刺激を受け、まだまだ生きてゆきたい欲に駆られようとしている自分自身に気付き(略)
もの忘れを加速させている自分と戦いながら絵を描き、作陶に夢中になりながら12年後の年男を無事迎えられることを心から願いながら筆をおくことにします。」
しかし、天はNに命を与えなかった。半年後、この強烈な個性は幕を閉じた。ボタンのかけ間違えのような状態ですべてのことが、悪い方に悪いほうにと進んだ。最期はあれほど大切にしていた安らぎのある病室ではなく味気ない大学病院のベッドだった。なかなか息が切れず長い間、切れそうな息が続いた。ふつと途切れた時、頭から湯気のようなものが上がるのを見た。熱だと思った。Nの「熱」だ。
Nが亡くなったのを知り、何十年も本院で長く共に絵を描いてきた患者さんがしばらく描けなくなった。祈る、花を手向ける、想い出すということを繰り返されたのだろうか。死を受け入れて、自分自身の弔いを済ませたと言い、やっと描いたのはNの顔であった。「先生はずっとお父さんのようだったと」
あのNが患者さんには謙虚で丁寧な言葉遣いで優しいというのは本当だったのだと、私は少し笑って少し泣いた。
ここに至るこの患者さんの何枚かの絵を見て、私は、絵画療法というのが単に描くことにより安定するだけではなく、描くことから表出する自己を長い時間と共に良くも悪くも、今度は少しずつ自分の細胞に入れていく。それが肯定となっていく様子を見ているような気がした。私のような者が曖昧な知識で芸術療法をかたるのは誤解を生み避けるべきだが、Nが繰り返し述べているのは芸術作品を作ることが目的ではないこと。その過程の中にある健全なこころの営みの事実と現実、それを認め育てる者の必要性についてである。これは自身が常に「画友」として共に在り、医師としての客観性を維持し続けた実感なのだと、思う。
そして、作品の芸術性や芸術作品として云々することはできるだけ避けるべきであるとも繰り返している。それは全く別のことだと強く主張している。ややもすると珍奇な目で、意外性を期待し誇張し、作品を垣間見ただけでその全体を理解させようとする誤解と偏見を生むことをひどく警戒している。
そして、「無為」「無作為」「無欲」の絵の美しさを語っている。
Nが本院に併設したアートセラピー美術館の絵の前に立つと、それらのことが胸に沁みこむのである。
それでも、完治する重症患者さんはまれだという現実を背負いながら、良い方へよいほうへと努める日々は今も続いている。
伊丹十三の出した「モノンクル」という雑誌があった。
「ぼくのおじさん」のフランス語で、おじさんは両親とは違いちょっと外れた価値観をみせてくれる。
時々やってきては、違う世界を覗かせてくれるのだ。この雑誌は読む人のおじさんでありたいと、初刊の冒頭にあってとても好きだった。
Nは、私の「モノンクル」だった。
母方の伯父であるNはいつも強力な熱量で絵を語り、医学を語り、私の好きな水墨画や日本画をけなし、旅の話もし、車の話も酒の話もした。幼い頃は、木ブロックを彫って顔を作る宿題をみて、その下手さを見かねたのか「ちょっと貸してごらん」と彫り始めた。角を削り鼻を作った。もういいです、というのも聞かず熱中して仕上げてしまった。アフリカ土産のような奇妙な顔が出来上がり私は茫然とした。
ある時、どこかの居酒屋で「どうやらあんたと私だけが、うちの一族の中で風変わりらしいな」と言った。嬉しいといつも答え方を間違う私は「でも、私は何もしていません」と、言った。すると伯父は、何の抑揚もなくさらりと「そういう人はね、ダメなんです」といった。「何もしていない」ということにではなく、生きる日々のそのままを言っているのだと、思った。
彼が、日々を無作為に正直に生きる人々を、誰よりも愛しているのをしっていたからだ。その言葉があまりにもさらりと自然で気持ちよく清々しくて時折、ひとり、まねをした。
とうとうダメなんですのまま、伯父であるあるNが、まだまだ生きていきたい欲にかられ、と言った年を超えてしまった。
