奈良国立博物館に出かけた。
今年は、修験道に関する展示があるらしいと聞いて心引かれていた。
日曜美術館などのテレビでも、大峯山寺の秘仏が千年で初めて山を下りられるという特集も組まれていて、最終日にもかかわらずチケットの窓口に長い行列ができていた。
あの、一体ずつを背負い山を下りる専門家の人々の姿は千年という時を思いながら胸に届くものがあった。
秘仏の蔵王権現立像は、思いのほかに小ぶりで憤怒の中に穏やかさを湛えた伸びやかなお姿であった。千年の時を初めて下山された。険しい山道をたどり多くの人が祈りや願いを捧げてきただろう。今も女人禁制であるから、これが最初で最後の出会いである。
廻りには沢山の蔵王権現が立っておられる。右手右足を挙げ左足で岩の上に踏ん張る三つ目の姿である。それらの立像を見ていると、右の拳中央と左肘、勢いよく上げた右膝と左膝、掲げられた右指の付け根と左足かかとを結ぶ三本の線がうかぶ。その三本が平行で動きのあるバランスを保つ。お顔は救おうとする憤怒の形相である。「良い方に、良い方に」という声が聞こえる気がする。
今回、足を運ぼうと思ったのは、修験道が好きだったからである。岩から現れた蔵王権現を導いたのは役行者(えんのぎょうじゃ)とされていて修験道の祖でもあると言われる。釈迦、観音、弥勒という、過去、現在、未来を象徴する三尊が一体となり、救いのための仮の姿、憤怒の形相と力強い姿で現れたとされる。いい加減な言い伝えと思うむきもあるだろう。しかし私は、その根底にこの国の自然、緑豊かで清い水があり四季は移り美しい、けれど災害天変地異も多いこの風土への愛着と怖れを、人の力の及ばぬ自然と、命の尊さや、生きる中の理不尽に対する悲哀を、ひたすら祈る姿を見る気がする。
その祈りを背負って、ひたすら山を歩く、走る。自己は消え山と一体になり、その力の中に命の終わりと再生を見ようとする。神と仏は共に在る。勿論、この神は、鎌倉時代に仏教に対し理論武装の必要から形作られ、その後時代と共に形成されていった「神道」の神ではない。いわんや、明治政府が作り上げた国家神道などではない。古代から私たちの心の底にある自然の神と道理である。
私にとって仏教は背骨である。歳を重ねてそう思えてきた。しかし私の「仏教」というのは、毎朝の信心とは異なるように思う。それは思考の柱であり、灯台なのだ。
加えて、修験者は、ある力を持つ技術者集団ではなかったかと、思うのだ。
最初に思いついたのは、京都花背の宿で感じる「気」であった。元は寺の宿坊として建った。低い山だが、頂きに清水寺のモデルになった小さなお堂がある。そこから見える山々の重なりは美しく、ここが京都市内なのに冬は雪深く、隣の美山には合掌造りが残るのも頷ける。そのふもとにあるこの地は何故か、いつも何か良い「気」を感じさせるのだ。ふと横を流れる川を見ると、少し青く見える石が多い。
ただ漠然とケイ素が多い石かなあ、と思った。もしかしたら、深い所でかすかな磁場ができているかもしれないと思ったのだ。
そこから、「丹生(にう)」の話を思い出した。水銀をとる鉱脈である。紀伊半島に多いという。これは、丹生さんという女性と酒の席で出会いお聞きしたのだった。「あのぉ、丹生というのはあの丹生ですか」と尋ねると「あの丹生です」との答え。自分は和歌山出身だが、四国にも丹生姓はありますと。確かに、四国にも鉱脈がある。その時、修験道の場が重なることや、空海のことをふっと思ったのだった。丹生は朱を作る。それは生命の色であり、死者に塗りもする。加熱して取り出される不思議な動く鉱物水銀は金の精錬とメッキに必要でもある。修験道が始まった頃、山伏はこうした鉱物を扱うことのできる技術集団ではなかったか。そして、空海が高野山を開く時、二匹の犬に導かれて出会い高野山を譲り受けるのは、丹生都比大神(にうつひめのおおかみ)であった。しかも、空海は四国の出だ。なぜ名刺交換をしなかったのだろうと悔やまれる。ほおお!と思ってそのままにしていた。酔っぱらいは困ったものだ。
修験者、山伏、というのはその姿も失礼ながら面白い。頭にかぶる小さな黒い兜巾や後ろに下がるしっぽ、お尻の動物の毛皮、スーモのようなボンボン、ほら貝など。絵本の天狗の姿だし、時代劇では隠密やら、身分を隠す人など、少し怪しい。花背では、年に一度山伏が集まる祭りがある。そこで、最初に交わされる問答に衣装について具体的に訊ねるものがあるので、きちんと説明できなくてはならない。勧進帳を思い出す。
思い立って、少し寄り道をした。
以前、朝のラジオ番組で「御所市(ごせし)の高鴨神社に入ると涼しいのは下に鉱脈があるからです」と伝えていたので寄ってみたくなったのである。途中の駅が天理だったり、巻向、三輪だったりする。乗り換えの時間待ちで近くの商業ビルのソバ屋に入る。これが福岡の副都心の施設と言っても違和感はない。どこも同じになってしまったなあ、とメニューを見ると淡路島産鱧蕎麦とある。ちょっと嬉しい。
御所の駅には、奈良の混雑が嘘のように誰もいない。
辿りつた高鴨神社に足を踏み入れる。ひんやりとする涼しさが下からかすかに、しかし確かに感じる。正直驚いた。
高鴨神社は思っていたよりも広く、美しく整えられている。金剛山に位置し葛城の山々を背に静かである。
鴨一族の発祥の地であり一族とその神をつまり京都の上賀茂、下賀茂神社を始めとする賀茂社の本宮であることの他は何も調べずに来てしまったのだが、境内で冊子を読み「繋がるものだ」とつぶやいてしまった。
鴨一族は大和朝廷成立前の葛城国の時代から栄えていたが、山を支配し、薬草、天体観測による暦、製鉄、農耕技術、馬術にすぐれていたという。冊子には書かれていないが、渡来系の人々だったのではないか。そして役行者は鴨一族の出だったのだ。
役行者とおそらくはその集団が土木工事をしたり、天を見て何かを察したり、薬を作ったりという言い伝えにはベースがあったということだ。
空海は多くの顔を持つけれど、若い頃に没頭した雑密の一面はずっと保っていたように思う。空海も多くの土木工事や救済の伝説がある。丹をはじめ様々な鉱物や薬草も扱ってきたのではないか。単なる言い伝えではあるけれど、死ぬ前に身体中にできものができたという。それもあり得たかもしれないと思う。薬草を自ら試し顔が黒くなり何度も中毒もおこしたといわれる中国の神農を思い出す。
冊子を読み終わり、境内を歩く。心地良い。このひんやりを、高鴨神社の受付の神官の方に伺ってみると、「中央構造線が下を走っているそうです」とのことだった。
地図に線を引く。そういえば、金剛山あたりには小さいが金鉱脈もあった。石英脈も形成されやすく、地下水脈もある。しかし構造線が走っているすべてが「ひんやり」ではあるまいから、幾つもの要素があるのだろう。断層にそって神社があるというのは、道や鉱物資源などから頷ける。さらに地図に出雲という地名を見つけて、わくわくする。
少し離れた場所に丹生神社もあった。
神社のへりに腰をかけ地図を見てひとり楽しげに驚く老人である。
帰宅してゆっくりパソコンを開けば、中央構造線から仏像構造線、鴨族の歴史から何から何まで山のように詳しく出ている。ちゃんと調べていけばもっと効率よく多くたずねることができたのに、と思う。けれど、これで良かったのかもしれない。その土地で呼吸をして山を見ながら遠い時を、地球の歴史と人の歴史を思った。
そして、あの場で私はこんなことを思っていたのだった。
ここは大和よりも古い土地であったと見渡せば、観光客もなく誰もいない田に風が吹く。縄文の遺跡もあるというから古くから人々が暮らしていたのだろう。生まれて生きて死ぬことには変わりがない。
景色をながめながら以前から考えていたことを反芻していた。
私たちは文字を持たなかった。漢字が伝わりいつか心を書き留めることもできるようになった。けれども自分で作り出した文字ではないのでどこかに隙間がある。
例えば「愛」を「いとし」とも「かなし」とも読むように。
私たちは多くのものやことを「外」から学んで自分のものにしてきた。修験道のように多くは独自の形と思想を持って、私たち自身になった。隙間をのこしたまま。
「外からのもの」と「内なるもの」をいつも同時に抱えながら。
この隙間は若い頃は哀しい矛盾であった。歳を重ねてこの隙間を自然に持ったまま保つことこそが「私たち」ではないかと思うようになった。隙間はむしろ異なったものを共に持つことができるという希望に変わった。
何十年も前に、まだそれが哀しみであったころに、この話をしたことがある。そして訊ねた。
「長い時が流れ続ける中で、私たちはこれからもずっとこの隙間を持って生きるのでしょうか」
その厳しい眼がふっと緩み、短く私の名を読んで、師兄とも思う今は亡きその方はこう答えた。
「時が流れるのではありません。時は在ります。流れていくのは私たちです」
