ここ糸魚川で、人類史の何千倍もの時空間で誕生したヒスイについて考えていたら、人類が小さなものに思えてきた。さらにこれを「アルカリ」という視点で眺めたら、大地の記憶ともいえる「ヒスイ」と「石灰」の関係までもが関係がゆるりと見えてくるのではなかろうか。

 さらに、ここで出会った「黒い石灰」の圧倒的な存在感をどうしようもなく消化できないでいたのだが、ちょうどそんなタイミングで、旅の車中でパンク歌手で芥川賞作家の町田康氏がある人へ捧げた追悼文を目にし、そのモヤモヤが、すとんと腑に落ちたのだ。それは次のようなものだった。

「もっとも印象が近いのは、ナスカの地上絵、とか、イースター島のモアイ像とか、飛鳥の酒船石、といった、いったいどういう訳で、どういう目的でここにあるのかまったくわからないのだけども、訳のないまま、というか、訳・理由みたいなものを、その存在によって圧倒し、無効化しつつ存在するもの」。
 石灰の中和的思考から何度もこれを読み返す。

黒い石灰石

 続いて、糸魚川のジオパークに置かれた石琴を見た。思わず飛騨高山の縄文人から聞かされた幻想的な石琴サウンドを思い出したのだが、演奏していたのは何と機械仕掛けのロボット、かつそれがポップスだったことに驚いた。

 少し音程の外れた石琴は、まるでロシアのレフ・テルミンが発明した世界初の電子楽器にも似て、可能性を秘めているような気がした。

 というのも、ここに来る数日前にも、「クリスタルボール」という人造シリカの楽器が奏でる音世界を体験していたので、ここ糸魚川の巨大な翡翠をくりぬいて「玉楽」を創作すれば、ジオパークの名に相応しい太古ミュージックの演奏会ができると踏んだからだ。

 そんな妄想を同行の町おこしのK君に話したら、

「何ですかそれ! おもしろそう! 翡翠は糸魚川のオンリーワンです」と身を乗り出してきた。

盗掘痕の穴が残る翡翠の原石

 さて、少し話しは逸れるが、旅先で読んだ沖浦和光著『旅芸人のいた風景』(文春新書)という本に、「まだら模様だった日本」という一節があった。その趣旨を述べると、南北3500キロにわたるこの列島では、維新後の<脱亜入欧>の新しい風潮が波及するのに相当な時間差があった、そして文明開化の先端を行く都市部と、辺地と呼ばれた草深い農山村部とでは、かなり大きな地域差があったので、明治維新から半世紀以上が経過した昭和初期でも、列島の文化は全国的に均質化されたわけではなかった、江戸時代に根がある伝統文化と新しく西洋から導入された近代文化の「まだら模様」だった――というものだ。

 これを読んだ後、様々な価値観が交錯した明治という時代に庶民世界に大変革が訪れた時代のこと、そしてその大変革からとり残されたように各地にひっそりと佇む「世間遺産」たちのことを思った。

 世間の営みは民の視線で大地に立ち、人の思いや悲しみが判らないと見えてこないし面白くない。

 さらに大事なのは、バッカだなぁーと思われても、自分が真剣勝負で取り組んでさえいればいいのだということ。そんなものは笑ってすごせばいいのだ。人は笑っている時が楽しいし、きっと笑っている自分が好きだろう。

 そんな笑いも驚きもなく、「なるほど」「フーン」「これ知ってる」ばかりの毎日では面白くないはずだ。

 せっかく生身の人間の知恵と洒落と感動の仲間であふれた俗世間に生まれたのだから。

旋律を奏でる「クリスタル・ボウル」!
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