最初に読んだ三毛の作品はわずか数ページの短い物語だったが、すっかり魅せられた。
その後三毛の作品の最初の翻訳が実現したのは7、8年後のことだ。『サハラ物語』(筑摩書房1991年刊)。その間の詳しい事情は『サハラの歳月』(石風社2019年刊)、『三つの名を持つ少女』間ふさ子・妹尾加代共訳(石風社2022年刊)の訳者あとがきをご覧いただければ幸いである。
翻訳にまつわるやり取りは主に手紙で行い、電話は数回しかなかったが、彼女と電話に関する思い出はとても印象深いのでそのことを少し書いてみたい。
電話の向こうから聞こえてくる三毛の声は、子どものような、ちょっと甘えたような柔らかいやさしい声だった。『サハラの歳月』の三毛、闇の砂漠でハンドルにしがみつき、砂の山を縫って暴漢の車を撒いた女性とはとても思えない。一度聞いたら忘れられない声だ。
その最初に読んだ物語は台湾の友人が送ってくれたリーダーズダイジェストの中国語版に掲載されていた。「ある中国の女の子の砂漠における物語」というタイトルだ。
その中に、砂漠に暮らす女の子(三毛)の家に、ヤギが天井から降ってくる話がある。原文はこうだ。
我大叫‧‧「荷西,荷西,羊來了――」。荷西丟下雜誌衝出客廳,已經來不及了,一隻超級大羊穿破塑膠板,重重的跌在荷西的頭上,兩個都躺在水泥地上呻吟。(三毛《芳鄰》)
私は大声で叫んだ。「ホセ、ホセ、ヤギが来たわーー」。ホセは雑誌を投げ捨て客間から飛び出してきたが、時すでに遅く、キングサイズのヤギが一匹プラスチックの板を突き破り、どしんと下にいたホセの頭上に落下し、一人と一匹はセメントの床の上でうなっていた。
中国語では人も物も同じく「個」と数える。「両」は「二」のこと。私は原文の「両個」を「一人と一匹」と訳したら面白いとふと思った。これが中国語から日本語への翻訳ということを意識したきっかけだ。
「ホセ」は三毛の夫、スペイン人。この「羊」というのはヤギのことで、すぐあとに「ヤギ」と書いてある。
三毛が超有名な作家ということも知らずに、その友人に三毛の本を送ってほしいと頼んだ。すぐに《撒哈拉的故事》(サハラの物語)が届いた。その本はただ面白いだけではなかった。深い感動と共感を覚えた。三毛の砂漠での生活を想像し、三毛が行き来をする砂漠の原住民サハラウィのことも知った。三毛のあらゆる人々に対するへだたりのない深い愛も感じた。翻訳して多くの人々に読んでもらいたいと思った。絶対翻訳しようと思った。
当時私は専業主婦で子育てをしていた。地方の街に住み、中国語を勉強するところも先生もなかったが、台湾から帰国以来ずっと自分で勉強は続けていた。翻訳の力にはあまり自信はなかったが、「私には三毛の気持ちがわかる」という思い込みにも似た確信があった。
とにかく翻訳しなくてはと、そのころ流行り始めたワープロを使って取り掛かった。頼るものは辞書だけで、翻訳の許可をもらうとか、出版社を探すとか、それも思い及ばなかった。
コンビナートのある町に住んでいたため、中国との取引が増えてきたいくつかの企業で私も中国語を教えるようになっていた。翻訳は締め切りのある作業でもなく、片手間のような状態で暇をみつけては進めており、またたく間に5、6年が過ぎた。翻訳は一応できた。
もうやらねば、と決心して三毛に手紙を書いた。住所もわからなかったので出版元「皇冠出版社」気付で送った。
三毛からほどなく翻訳に同意する自筆の返事をもらった。そのころは三毛が大フィーバーを起こした作家だということを知っていたので、すぐに親切な手紙をくれたのが意外でちょっと信じがたい気持ちがした。
三毛のお母さんとも一度電話で話したことがある。何かの用で三毛に電話を掛けたらお母さんが出て、三毛は外出していると言った。とても気さくな話しぶりで、近所の人と世間話をしているような雰囲気だった。私が「三毛の日本語版の本をたくさんの人に読んでほしい」と言ったら、お母さんはいかにもあっさりさらりと「評判になればいいわね」と言った。
三毛とは出版社から頼まれて何度か電話をしたが、三毛の家の電話がとぎれることなく鳴っていることを聞いていたし、用事以外にあまり話はしなかった。
本が出版される日が決まったとき、三毛に電話をした。三毛ははじけるような声で「あなたを抱擁する、ありがとう」ととても喜んでくれた。そして「本が出版される3月、桜の咲くころ日本へ行ってあなたに会う」と約束してくれた。
だが三毛の体調はあまりよくない様子だった。香港から帰って以来とても疲れている、怪我もした、夜も眠れないと言っていた。
三毛は映画が大好きだったが、初めて書いた映画のシナリオ『レッドダスト』(原題「滾滾紅塵」)が映画化され、その映画音楽の収録に立ち会うため1990年9月に香港経由で北京へ渡り、その後大陸のあちこちを旅している。チベットではひどい高山病にかかり入院もした。
1990年11月4日、この電話が三毛との最後の電話になった。
その電話の二か月後、1991年1月4日に三毛は自ら命を絶った。享年四十八。
三毛の訃報は北京から届いた。1月6日だったかと思う。日本の大学から台湾に一緒に留学していた同学が北京に駐在しており電話をくれた。彼は「以前にも三毛が亡くなったというデマが流れたことがあるので確かめた方がいい」と言った。
思い切って電話をかけた。
電話を受けたのは、三毛ではなく彼女の弟さんだった。その声を聞いて、家族の声だ、弟さんだと思った。
弟さんは「三毛走了(三毛は逝った)」と言った。
私は「三毛走了!」とやっと声が出た。
弟さんはもういちど「三毛去世了(三毛は亡くなった)」と言った。
三毛は楽しみに待っていた日本の桜も、日本語版『サハラ物語』も見ることなく逝ってしまった。
私は三毛はもうひとつの世界へ行ったのだと思った。私の中で生きていた。
三毛と約束した翻訳がまだ残っていた。