前々から「美濃」というところに行ってみたいと思っていた。と言っても岐阜県の美濃ではない。台湾の、高雄の中心部から50キロほど山に入ったところにある「美濃」である。かつては「瀰濃」という地名だったが、日本統治時代に「美濃」とされたらしい。
美濃は客家の村だ。客家は閩南(福建省南部)人より遅れて台湾に移民してきたため、農耕に適した広い場所に住むことができず、山間に居を構えたと言われている。私はそこに生まれ育った作家・鍾理和が描いた彼の故郷・美濃のようすがずっと気になっていた。『作家之旅』(台北・爾雅出版社1984)は、鍾理和をはじめとする台湾の作家たちを写真と文章で紹介した本だが、それに収められた写真家・謝春徳のしっとりした美濃の風景もまた私のあこがれを掻き立てた。
2018年12月、念願かなって私はついに美濃の地を踏んだ。一緒に高雄に雲門舞集のステージを見にいった妹尾さんを誘って訪れたのだ。鍾理和のことは機会があれば別に紹介させていただきたいと思うが、ただただ美濃に行ってみたかった私は、鍾理和のほかに、妹尾さんが絶対食いついてくるに違いない別の「エサ」を用意していた。それが、三毛の「美濃狗碗」である。
「狗」というのは犬のこと、犬がエサを食べるのに使っているどんぶりなので「狗碗」というわけだ。この文章は三毛の『我的寶貝』(私のお気に入り、皇冠出版社1987)という本に収められている短いエッセイである。
三毛は、古びた陶磁器の収集が趣味で、台湾のあちこちに旅行するたび古い皿や碗を手当たり次第に買うのが常だった。ある時、台湾南部まで出かけて美濃に宿泊し、夜眠れぬまま月明かりのもと、美濃の町を流れるクリーク(土地の言葉で「水圳」と言う)に沿って散歩していると、ある家に飼われている黒犬が、彼女の好みにどんぴしゃりの古色あふれるどんぶりでエサを食べているのに出くわす。そのどんぶりを見た彼女はどうしてもそれが欲しくなった。だが食事中の犬は警戒してうなり声をあげ、彼女を寄せつけない。犬の主人が家から出てきたらバツの悪いことになると思った三毛は、いったんそこを離れるが、ふと思いついてクリークを渡り、シャッターを半分下ろしていた金物屋に入って新品のどんぶりを買う。同行の友人たちは宿に戻り、三毛はただ一人その新品のどんぶりを携えて再びあの犬のもとへと向かった。
戻った時、犬の姿は消えていた。家の人も出てきていなかったが、犬に舐められてかてかになったあの古いどんぶりは、まだあった。
私はしゃがみこみ、手早く新しいどんぶりをそこに置いて古いどんぶりと入れ換えた。とは言え急ぎ足で立ち去ることもできず、心の中は心臓が止まりそうになるくらいびくついていたけれど、あたかも散歩を楽しんでいるかのように歩を進めた。
しばらく行ってから、ようやく勇気を出して振り返った。もう大丈夫だと確かめると、街灯の下、クリークのほとりにしゃがんでどんぶりを洗った。(三毛「美濃狗碗」)
「妹尾さん、三毛が犬のどんぶりを洗った美濃のクリーク、見にいきましょうよ!」
好奇心の塊である妹尾さんは一も二もなく乗ってきた。こうして私たちは美濃を訪れ、「香蕉與黒膠三合院」(Yellow&Black guest house)という民宿に泊まることになった。
この民宿はインターネットで見つけた。古い三合院(中庭を囲んで「コ」の字形に部屋が並ぶ伝統家屋)をリノベーションして宿にしている。私たちが泊まった日は、宿の主人の鍾さんは台北に行って留守で、そのお父さんが駆り出されて私たちをもてなしてくれた。美濃はかつてタバコの葉の一大産地で、この建物は「菸楼」というタバコの葉の倉庫だったところだという。
夕食をとりにいくついでに、私たちは三毛の冒険のあとを探してみることにした。とはいえ、手がかりは例の短いエッセイのみ、何とも漠とした話ではある。もしかしてということで、お父さんのほうの鍾さんに「美濃狗碗」のコピーを見せて尋ねてみた。
「え? 三毛? 三毛だって? 三毛は美濃に来たことあるの!?」
残念ながら鍾さんは三毛の美濃での冒険を知らなかったが、でも彼女が美濃に来たことがあると聞いてとても喜んだ。そして日本人の私たちが、わざわざ三毛の「狗碗」を探しに来たことにことのほか感激してくれた。私たちの話は、お父さんの口から息子さんへと伝わったようで、息子さんもまた、三毛と美濃の縁と、それを尋ねてやってきた二人の奇特な(?)日本人のことをわざわざ民宿のSNSで紹介してくださった(とはあとで知った話である)。
三毛が「狗碗」を手に入れた場所はやはり分からなかった。でも、もしかしてあの辺? あそこかも? と言いながら、クリークに沿って初冬の美濃の町をどんどん歩いていったのがなつかしく思い出される。
この「香蕉與黒膠(バナナとレコード)」という変わった名前の民宿は、その一角に屋号の由来となったオーディオルームがある。そこには、宿の主人のお母さんがコレクションしていたLPレコードが三方の壁に天井までぎっしり並べられていて、希望すればそれを聴くことができる。お母さんはかつて高雄でラジオのDJをしており、当時歌手たちが新しいLPを出すたびに彼女に送ってきたのだそうだ。そこには、三毛が自らの一生をモチーフに詞を書き、当代の作曲家たちが曲をつけ、潘越雲、齊豫という実力派ボーカリストが歌唱した音楽アルバム「回聲」もあって、妹尾さんと私は、それを聴きながら、彼女の一生に想いを馳せた。
私たちが美濃を訪れたのは、妹尾さんの『サハラの歳月』の翻訳が佳境にさしかかったころで、本はまだ出ていなかった。
一年後、石風社から『サハラの歳月』が出版され、妹尾さんは鍾さんに本を贈った。その二年後、『三つの名を持つ少女』もあの民宿に届いた。そして今年五月、美濃の鍾さんから招待状が届いた。「美濃に来て、月明かりのもと、三毛の「狗碗」を探しに行きませんか」
「台湾を歩いて本を読もう」という文化部の読書プロジェクトに参加する鍾さんたちが、あのときの二人の奇特な日本人を思い出してくれたのだった。