昨年4月、勉強会後の食事の席で妹尾さんから「台湾の清泉に行きましょう」と言われて「どうして?」となったのは、多分私だけではないと思う。
「清泉ってどこですか? 何があるんですか?」面喰らいつつ尋ねる私たちに妹尾さんは説明してくれた。曰く、三毛が中国語訳した『清泉故事』の作者であるアメリカ人の丁松青神父は、三毛がまだ三毛になる前、神父もまだ神学部学生のころに台湾の蘭嶼島で出会っていた。その後十数年を経て再会したときには、丁神父は布教のために台湾中部の新竹縣五峰郷清泉部落にある教会に派遣され、原住民のタイヤル族の人々への布教と支援にたずさわっていたという。
丁神父に会いに清泉を訪問し、その地を気に入った三毛は清泉の谷間に流れる上坪渓という川を見下ろせる場所のレンガ造りの小さな家を借りて「三毛的家」(三毛の家)と名付けていた。
「数年前に師範大学の同窓会で清泉とその近くの雪覇国立公園に行ったけど、景色がもう素晴らしい、素晴らしい。三毛も気に入った清泉の風景も良いし、その清泉から上がったところの雪覇国立公園では雄大な山を見ながらレストランで食事ができたのよ。それに丁神父のお話が良いのよ。この神父さんに会うだけでも行くかいがある」
目をキラキラ輝かせて話す妹尾さんの話に引き寄せられて、その場で清泉行きの話がまとまった。
同席していた間(あいだ)さんはこの種の旅のプロ。カレンダーを取り出すや、すぐにみんなのスケジュールから旅行の日程を調整決定、航空券を調べ、ホテルをチェック。清泉での活動と交通については、行ったことのある妹尾さんが手配してくれることになり、月一で開かれる「三毛作品を語る会」では丁神父の著書『清泉故事』を読んで予習することが瞬く間に決まった。
三毛については、1998年に言語交換(外国人同士お互いに自分の母語を教えあうこと)で知り合った台湾人のJoyceに紹介されて『撒哈拉的故事』(サハラ物語)を読んだのが最初だった。当時どれだけ理解できたか分からないが、華人のサハラ体験記として読みだしたものの、そんなの抜きで面白かった。Joyceが「三毛を読んでアラビア語科に入った」というのを聞いて個人的ではあろうが三毛の影響力の大きさにも感じ入っていた。その後、中国の近現代文学を読む勉強会で出会った妹尾さんがその『撒哈拉的故事』を翻訳出版していたと知り、驚くばかりだった。また、妹尾さん、間さんのおかげで『撒哈拉的故事』では分からなかった三毛の別の面を知り、こうして清泉にも行くことになって、思えば遠くへきたもんだ的な感慨にふけっていた。
この旅行が決まってから妹尾さんは「清泉に行くのはこれが最後かもしれない、体力がいるし、台湾にもよう行かん」と時々漏らしていた。そう聞くと、妹尾さんと共に清泉に行く最後の機会かもしれない、これは行かねばという気持ちも強くなり、同時に体力勝負の山歩きの旅になりそうだと予想していた。
この清泉訪問までに妹尾さん、間さんは、台湾の美濃で三毛の「狗碗」(犬のどんぶり)を探すというイベントで講演したり、妹尾さんは直前に福岡の民宿で三毛の従妹さんに偶然出会ったり、三毛との縁の強さを感じる出来事も続いていた。
そうして、妹尾さん、間さん、同行者Kさん、台湾朋友の劉さんと私は、2025年2月の金曜日に清泉の最寄りの新竹市に集合して清泉を巡る旅が始まった。このコラムの場所を借りて、旅の中の個人的な忘れがたいことを番外編として記したい。
一つは「三毛的家」のことだ。丁神父の著書『遇見三毛』(三毛に出会って)に掲載されている写真で三毛ファンにはおなじみだろう。山懐に抱かれた赤レンガの家、そこは「星の王子さま」が頭上に郷里の星を眺めながら休むことのできる場所だと三毛が喜んだところでもある。
その清泉の「三毛的家」のすぐ隣に建つ棕櫚居という民宿に私たちは二泊した。楽しみにしていた三毛の記念館ともいうべき「三毛的家」。実はここは現在「三毛夢屋」という名前が付けられ、その谷川を見下ろす入口の前面部分は、日覆いの張られたカフェになって、イスやテーブルが置かれていた。そのため赤レンガ造りの建物全体は見えなかったのだ。「三毛夢屋」の中は三毛の写真やポスターが貼られ、新聞や雑誌の記事、著作などが並べられていた。
陽が落ちて寒くなる中、カフェの女主人の徐秀容さん(民宿のオーナー大帥の奥さん)が夕食時間までいろいろ説明をしてくれた。長い黒髪は束ねず、ゆったりとした丈の長いワンピースを着ていた徐さん。その雰囲気はどこかサハラでの三毛のスタイルを思わせた。徐さんは三毛に会ったことはないけれども、何冊も彼女の本を読むうちに彼女がいろいろ語りかけてくる感覚があると言う。話を聞くうちに「三毛夢屋」は三毛ファンである徐さんが「三毛的家」に開いた、いわば私設の展示室なのだと合点がいった。
また、徐さんは三毛の友人から譲られた手紙類を含む遺品のことを話してくれた。内容を尋ねると、三毛の個人的な手紙や思い出の品、また『紅楼夢』を書き写したものがあるとのこと、「わあ、すごいね、見たいねえ」と一同期待の声が上がった。
忘れがたいことの二つめは、翌日曜日の丁神父のミサに参加したことだ。対岸にある清泉のカトリック教会には歩いて行く予定だったが、あいにく雨が降ったので民宿のご主人大帥がバンで連れて行ってくれた。幸いにも大帥のバンのおかげで清泉での全行程は体力勝負の山歩きにはならず、丁神父たちの移動の苦労は体感することなく終わった。
教会に入ると、ステンドグラスとタイヤル族の風物を描いた壁画と装飾に目を奪われる。丁神父たちの着ているミサ用の服にもタイヤル族の意匠が縁取りに使われていた。
ミサは丁神父の中国語での祈りと説教が、タイヤル族の男性信者が訳すタイヤル語で進められた。
説教の最後で、その日初めて参加した私たちのことも紹介された。
ミサの後半は讃美歌合唱。中国語の曲とタイヤル語の曲が載った讃美歌集が配られ、オルガンに合わせて皆で一緒に歌う。私たちは遠慮して後方に座っていたが、ミサの途中で入って後ろに座った人の歌声が、深みがあって素晴らしく包み込まれるような感覚もあって台湾版ゴスペルさながら教会中に響き渡って圧倒された。
ミサが終わって丁神父に挨拶した。大柄に見えた丁神父は傍によるとそう大きくはなく、著書にサインをもらったり、彼のほうから「清泉故事のどの話が面白かったですか?」と聞かれたりした。最初は笑みを浮かべて気さくに対応されていたが、しばらくすると疲れた感じが出てきて体調の悪さが見てとれた。そのとき、三毛が清泉にかかわった期間は数年だが、丁神父は50年にわたりこの清泉に住み、タイヤル族の人々を支援し、教会を運営していることをふと思い、丁神父に対して失礼なことをしていると感じだした。神父の活動をよく理解せぬまま「三毛の友人」の丁松青神父に会っていることに恥ずかしくなったのだ。三毛の翻訳によって丁神父の活動とその考えが広く伝えられたのは事実であるが、もしかすると、丁神父は今までも私たちのような三毛ファンの相手をしたのではなかろうか。自室に戻られる丁神父の後ろ姿にそんなことを思い、厚かまし過ぎたのではないかと申し訳ない気持ちになった。
忘れがたいことの三つめは三毛の手紙の現物を見たことだ。印象も非常に深かった。清泉二日目の観光から戻り、民宿のカフェに行くと徐さんが待っていた。寒い中、囲炉裏のような縁のある焚火台を囲み、香り高いコーヒーと焼き芋でほっとしていた私たちに、徐さんは「これが三毛の手紙よ」と一束の書類と写真を見せてくれた。妹尾さんと間さんが三毛の翻訳者であるため特別だったのだろうが、実物を出して見せてくれたことに驚きつつ、好奇心のおもむくまま一部に目を通していった。
中に『撒哈拉的故事』出版後に三毛が友人に送った出産祝いの手紙があった。その友人とは蘭嶼島に遊びに行った時に一緒だった親友だ。徐さんはその手紙を朗読して私たちに回してくれた。ただのファンに過ぎない私が読んでいいものかと畏れつつ見せてもらう。
親友にあてた彼女の自筆の手紙の中には「寫作的路很痛苦」(創作の道はとても苦しい)という一節があった。三毛は少女時代から文章を書くことで自我を保ち成長し軽やかに羽ばたいたのだと私は考えていたが、書くことに苦しんだことがあり、その辛さを親友に伝えていたのだと驚いた。同じ手紙には夫ホセの当時の状況と彼女の心情とを吐露した箇所もあった。彼女の著作のイラストにも添えられた特徴のある字、日本で一時期流行った丸文字にも似た印象の三毛自身の字で、子供をもった親友を祝福すると同時にうらやましいと素直に書いていた。潜水士としての職業にこだわるあまり、なかなか職に就かず働こうとしないホセへの苛立ちが経済的な悩みと同時に手紙の中に出てくるが、そこには若干の失望も含まれているように感じられた。そんな生活もホセとの間に子供がいたら違っていたかもしれないと三毛は綴っていた。「あなたは子供がいて本当に幸運よ」と書いているが、それは裏返すと自分はそうではないということなのだろう。そのくだりを読んだときに蜜月の終わりという言葉が浮かんだ。サハラでの三毛とホセのきらきらした幸せな日々が、カナリア諸島に移ってからは二人の考え方にズレが出てきて、すきま風が吹いていたようにも感じられたからだった。著作からはうかがい知ることのできない三毛の苦しい状況に読んでいる私も胸が痛くなった。その場はしばらく言葉もなく静かだった。
それにしても、三毛が親友に宛てて書いた手紙がなぜここにあるのだろうか。三毛は親友からその手紙を返してもらったのか、それともその親友は彼女の死後、研究資料として誰かに提供して、まわりまわってここにあるのだろうか。ときに有名作家の私信が発見公表されることがあるが、あれは発見というより、持っていた人や遺族からの提供公開がほとんどだろう。今ここにある三毛の手紙もそうなのだろうか。三毛もまさか清泉の「三毛的家」の前で自分が書いた手紙が異人の私たちに読まれるなんて想像もしなかっただろう。
しかもそれらの三毛の私信を含む遺品類は、三毛が自分の家の管理をある友人に託していて、彼女の死後、託されていたその人が数年前に徐さんに譲ったということなのだ。三毛のご家族もこのことは了解されてはいるらしいが。
「これらの資料や彼女の遺品を展示する資料館を作る。場所はこの民宿の下の前面のスペースで、来年には完成させる」と語る徐さん。個人で三毛夢屋を運営しつつ、新たに資料館を開設し、貴重な資料や遺品が散逸しないように維持管理をしていくのは大変なことに違いない。三毛の研究者や専門家とともに第一級の資料として解説等を含めて公開展示してはどうだろうか、クラウドファンディングを使って必要な資金は募って集めることもできるし、などと大きなお世話だろうが提案したくなった。考えるにつれて今後大帥、徐さん夫妻の苦労が予想されるけれども、「何とかなる」と台湾的大らかさで乗り切っていきそうな雰囲気も二人にはあった。
貴重なものを見せてもらって三毛ファンとしては小躍りして喜びつつ、資料の行く末を考えていた。
「来年、資料館ができたら清泉に見に来ないといかんですね」と話す私たちに、
「わあ、これは来年も資料館の確認のために清泉に来ないかんね」と心配しながらも清泉再訪の話に笑顔の出た妹尾さんだった。
旅から戻ると、妹尾さんが「三毛夢屋」の管理人徐秀容さんに関する新聞記事を探し出して見せてくれた。2017年のその記事によると、花蓮出身の徐さんは教師を退職後、三毛の没後30年経って荒廃していた「三毛的家」の経営を引き継いだそうだ。原住民青年たちを支援する場所として整備し、改めて三毛も望んでいた「原住民の若者たちの心の拠りどころ」にしたいという内容だった。今回の短い滞在では分からないことだった。せっかく清泉に行きながら、大帥、徐さん夫妻がどのように「三毛的家」の隣に民宿を建てて経営し、「三毛的家」まで管理しているかの沿革や考えを直接尋ねていなかった。重要なことなのに抜けていた。次回は清泉で忘れず尋ねようと思う。
それに雨のせいで星も雄大な雪覇山系も見えなかったのは何とも残念だった。
次回は晴れますように
こうして三毛を巡る旅はまだまだ続いていく。







