スナックに 煮凝りのある ママの過去
変哲
俳号変哲、ご存じ小沢昭一の句である。
話しても演じても歌ってもハーモニカを吹いても「芸」になる人だった。放浪芸の研究も芸人と同じ土の上に立とうとした。地道な努力は人様には微塵も見せず、いかがわしさや、可笑しさや底にそっと流れる哀しみを愛しているように見えた。
逃れられぬ人の悪にも目を逸らさなかったようにも感じる。勿論そんな様子は決して出しはしなかったのだけれど。大仰さや深刻ぶるのは何より嫌だっただろうから。
私は何故だかこの句を 「突き出しに 煮凝りを出す ママの過去」と記憶ちがいしていたのだが、この句を読んだと同時にふっと腑に落ちたのは良く覚えている。
カウンターの隅で、ママのツっとさりげなく出した煮凝りを箸の先で少しずつ口に運びながら変哲の句ならばハイボールを、私の勘違いの句ならばひや酒を(冷酒ではない)飲む様子が浮かぶ。
新宿に胡桃というスナックがあった。
狭い階段を登り小さなドアを開けると着物に糊のきいた白い割烹着を着たママが、牡丹のような笑顔で迎えてくれる。さっと作るつまみがどれもきりっと旨かった。
入り口近くのカウンターにいつも新政の樽がありそこからとくとくと酒を注ぐ。マドラーをくるりとまわしてウイスキーを作る。時々桝に注いだ新政をくいっと飲む。
その手が細すぎず太すぎず、生活と色香の丁度良い案配なのだった。北関東の訛りが少しあり、さばさばとした会話に思いやりがあった。
思い返せば50年近く前、私はまだ二十代半ばヒヤァーと恥ずかしい。若く浅く阿呆であったので、カラオケの音に眉をしかめていた。
では今では何か分かったのかと問われれば心細い。ただ、ものごとには襞(ひだ)があると知ったのみである。
その、ママの手は又、ペンを持つ手でもあった。
1998年の「両手」以来一昨年、2024年の「今日の日」まで5冊の句集がある。
私たちが東京を離れてしばらくして第一句集が届いた。句を詠まれることも知らなかったので、驚きと共に頁を繰る。
葉牡丹の 董のたってる 駐在所
四月馬鹿 耳に噛みつく イヤリング
俳句を詠み学び始めた頃の二句。情と客観の上に立つママの眼がいかにも良くて好きであったが、私には詠句を読む力はなく表面をなぞったに過ぎなかった。一昨年、米寿を迎えられた年の「今日の日」を頂き、読み進めながらそう思った。句集を重ねる毎に言葉は研がれ奇をてらわず自然でありながら深くなっていった。
米寿のお祝いと頂いた本のお礼も兼ねて久しぶりに電話をかけた。年相応の骨折や眼の病に会いながら、その声は張りのある昔の声だった。
話は自然と亡夫のことになった。人と交わることが何より好きで場を明るくする、何故か若い時から一目置かれる逸話は途切れることが無かった。
「私の中では二人ともあの時のまんまだよぉ」
私の中でも白い割烹着であでやかに笑うあの頃の姿がずっと頭にあり、私たちは一瞬沈黙のまま時の移ろいの中にいた。
先日久しぶりに句集を数冊取り出し読んでいて、2005年の第二句集「青丹」の句に眼が止まった。
寡婦であり 竹皮を脱ぐ 日々であり
当時闘病中の私は、この句を読んでも分からなかった。筍の皮を剥くという表現はあるが、竹皮を脱ぐとはどういう事だろうなどと思っていた。そして今ああっと声が出そうになるほどわかる。
寡婦になって8年目、早いのか遅いのか時間の感覚は、ずれたまま戻らない。しかしこの頃何か軽くなった気がする。それを年を取ると随分楽になるものだなと思っていた。見栄も欲も無くなっていくので自然そうなるのだと。
それもあるのだけれど、一人になり、5年を過ぎたころから竹皮をゆっくりと一枚一枚脱いでいたのだと、この句を読んで気付いた。一度も喧嘩せず声荒げることもなく、亡夫の望むように生きることを決めてそうしてきた。後悔はない。良かったと思う。けれどそれは、気付かぬうちに沢山の竹皮を身に着けて生きる日々でもあったのだろう。
私も又この数年、竹皮を脱ぎ続ける日々であったのか。
先日、今年白寿を迎えられたママと二年振りに話した。片目は見えず、もう一方の眼は視界が半分、何とか読めるが書くのが難しいので代筆で毎日句を詠んでいると、変わらぬ張りのある、あの懐かしい微かな訛りをおびた声が心地よかった。
「俳句があったから生きてこられたのかもしれないわねえ」
今も句会には新宿まで出かけるのだと聞き、今年は会いましょうと話した。
電話をしたのにはもうひとつ訳があった。
「青丹」その20年も前の本の扉に 装幀 毛利一枝 とあり後書きに友人にお願いしたと書かれているのに気づいたのだ。
毛利さんは、言うまでもなく福岡在住の装幀家としてよく知られていて多くの本に磁場を作っておられる。
ママの友人とは知らぬまま、その毛利さんとお知り合いになっていたとは。
思いもせぬ不思議なご縁であった。
豆撒いて 鬼追い出して 早く寝る
好井 由江
