不可止先生は義父の友人であった。
めったに来客の無い家の珍しい客人で、持病があったのか月に一度ほどの診察に診療時間ギリギリに顔を出しそのまま少し話して帰るのが常だった。
その日は、入り口の灯りを消そうとしたところに来患があり、義父の診察の間ちょっとお茶をと部屋に入った。狭い居間の小さなソファにじっと座っておられる姿は端正な顔立ちで大変上品な佇まいであったが、しかしどこかに「ずれ」を感じさせる独特の雰囲気が不思議だった。
茶を差し出す私に不可止先生は突然「音楽は何を聴きますか」と尋ねた。
その頃は乳飲み子を抱えながらの義母の看病で音楽を聴くゆとりはなかった。しばらく前に聴いていた曲がふと浮かんで何ともいい加減な返事をする。
「ちょっと前ですが、サティとディーリアスを」あまりきちんと聞いたわけでは、と言いかけたところに、即座に返事が戻ってきた。
「知りませんな」
言うなりそのまま黙られた。
背中の赤子が泣き出したのでそのまま退出したが、これが先生と直接交わした、たった一度の会話であった。
それからすぐに義母を見送り、看病のために東京から帰るなり義父のところに住んでいた私たちは近くのアパートを借りて、家で作った夕食を毎日持参して義父と共に食べるという生活になった。
そんなある日、不可止先生から私宛に葉書が届いているという。今はあまり見なくなった往復はがきである。
「ディーリアスは美しいが不安にもなる。サティは奇妙です。どちらも馴染みがない音楽ですが気になって聞いています。貴君が何故この二つを聞いておられたのか、お教え願いたい」と書かれていた。
義父は笑いながら、「不可止君は変わっとうけん、無理せんでよかですよ」と言った。
私は深く考えてもいなかったので、サティは映画音楽で聴いて気になったこと、ディーリアスは雑誌の音楽の紹介欄で読んだこと。そこには、坂口安吾のエッセイにあるという「ディーリアスはあまり知られていない。しかし針の孔のように小さい覗き穴からのぞくその世界は限りなく大きい」というようなことが書かれていたと、返答するしかなかった。(今はこの文章の記憶も曖昧である)
そして、どちらも自分の深層心理を引き出すような気がするのです、と付け加えた。
若くて脂汗の出るような恥ずかしさである。
間をおかず封書が届いた。「深層心理といわれるとビクリとします。これから、書いたものを送ります。いずれにもご返信一切無用」というメモと共にきちんとプリントアウトされた随筆が入っていた。ワープロが普及し始めた頃だった。
題名は「死後の世界」であった。
宇宙の生成や命の誕生など基本的なことすらわかっておらず、人間の死後のことなど五里霧中と始まりカントや鈴木大拙なども傾倒したスウェーデンボルグ「死の世界を考える」に従って順次検討したい、というものだった。
死後の世界について肯定論はひとつ証明すればよいが否定論はすべてを否定しなくてはならないという困難がある、と続く。
私は目を丸くした。ちょっと困ったが返信不要に従って、申しわけないがそれから時々届く文章を読むだけにしていた。不可止先生はこの「死の世界を考える」を肯定否定共に丁寧に読み解き随筆は17回まで続いた。
17章最後の文章は短く「死後の世界」については太古の昔から繰り返し論議し永遠の謎とされてきたもので、生命、宇宙の根源に絡み人間の深層にもかかわりを持つ難問と書かれていた。
変だな、と私は思った。一章ずつの結論はやはりあり得ないとなっていたからである。
最後はブッダの毒矢の例えを出し「分からぬものをいつまでもくよくよ想い煩うのは愚である。私も有無はどうでもよくなってきた。結局苦労して回りまわってネジの溝が一段上がったのかもしれない」とむすばれていた。
やはり、変だなと思った。
「兄(けい、不可止先生は義父をこうよんでおられた)に死後の世界のことをきいてみましたが、一刀両断、あるわけがなかろうもんと言われました。この何の迷いのない返答には驚き、さすが兄だと感じ入りました」と添えられていた。いや、義父のほうが一般的ではないかとおかしくもあった。
それからしばらくして専門の育児について、今多くの育児法があるがもともと子育ては生活であり、育児法にしばられることはないという明治の随想をおもわせるような文章のエッセイが届いた。今読んでも頷ける指南で嬉しく拝読した。
これが最後の便りでメモが添えられていた。
「ひと回りしてユングを読み返しています」
何の脈略もなくふいに一瞬だがマズイとおもった。そのような要素はないにもかかわらず、なぜかそれが言葉に出た。しかし、ただ一瞬の思い付きのようなものであったのであまり気にもせずに忘れてしまっていた。
それからどのくらいの時が経っていただろう。
義父に届いたのは、不可止先生の訃報だった。
自死であった。
不可止という名前を与えられた先生は、しかし、自ら命を絶たれたのだった。
通夜に伺ったが義父は淡々と頭を下げただけで一言も話さなかった。表情を変えることもなく、一人もお参りの無い時間だったにもかかわらず、ご遺族への慰めもなかった。義父が「仰らしい」ことをとても嫌いなのは知っていた。
しかし、これはあまりにも淡々としすぎているのではないかとおもった。
それから後、義父が不可止先生の名をだすことは一度もなかった。少し情に欠けるのではないかと感じていた。一方私自身も又、あの直感を忘れていたことを自ら問い直すこともないままであった。
不可止先生が旅立たれて30余年義父は生きた。
亡くなって古い診察机を整理していた。物の少ない人で余分なものは入っておらず底にはほこり避けにか、きちんと紙が敷いてあった。小引き出しにそれとは違う厚めの紙が見えた。上には鋏とテープがあるばかりで半分以上が見えている。
引き出してみるとそれは、古いカルテだった。
氏名欄には、不可止先生の名前が書かれていた。
義父は30年近く、毎日このカルテを目にしながら生きたのだった。
