2018 年に私は台湾の友人たちと清泉へ旅行してそこにある聖十字架天主堂を訪ねた。その際丁松青神父から『清泉故事』(丁松青著、三毛訳、皇冠雑誌社1984年)をいただいた。その本によって丁神父と那羅(ナールオ)という部落にある教会で奉仕していたイタリア人のシスター趙との交流を知った。
本の中のシスター趙はとても魅力的で忘れられない。2022年に再び清泉を訪れたとき、私は丁神父に彼女のことを聞いた。元気で那羅にいると言われた。
今回の私たちの『清泉を訪ねる旅』で訪問先の一つに那羅を加えてもらったのは、シスター趙のいる教会を見てみたい、シスター趙に会えたらいいなと思ったからだ。
『清泉故事』の中に「安全之旅」という一篇がある。丁神父がシスター趙を訪ねたことに関わる話だ。それを紹介しながら今回の私たちの旅を綴っていきたい。
那羅は台湾新竹県五峰郷桃山村清泉の北東の山の中にある原住民の部落だ。丁神父は当時清泉から数時間歩いてたびたびここを訪れている。そこにいるシスター趙に会うのが楽しみだった。
丁神父が清泉の天主堂に神父として赴任したのは1976年だが、初めて清泉を訪れたのはまだ神学生だった1969年だ。シスター趙との出会いもその頃だったのだろうか。二人が知り合ってから既に50年は経っている。
知り合った当時のシスターについて丁神父はこのように書いている。
シスター趙はひとりで長らく那羅に住み、彼女の教会に属する診療所の管理を受け持っている。医療活動のほか、幼稚園と裁縫学校を開いてその指導と布教活動に従事している。同時にすべての村人の良き友であり、そのうえ、彼女のもう一つの故郷――イタリアの極上パスタ料理の名手なのだ。(丁松青「安全之旅」)
神父によるとシスター趙は一見人に楚々とした印象を与えるが「絶対に平凡な女性ではない」そうだ。ある年の台風で彼女と他の二人のシスターが住んでいた修道院は崩壊し大水で川に流されすべてのものを失った。しかし彼女はこの災害にひるむことなくさっさと山の上の診療所に引っ越した。そこは彼女が長く村人のために医療奉仕活動をしてきた場所だった。
こんな話もある。わずか数か月の間にシスターは自らの手で、自身の住み家と教会に入り込んだ16匹の蛇を打ち殺したそうだ。このあたりには毒蛇もいる。
神父の那羅の話はこのように続く。
丁神父はある夏「三人の若い修道士を清泉に一か月派遣する」という手紙を上部の組織から受け取った。「ここには多くの仕事があります。私たちの村では彼らはとても安全です」と神父は返書した。
アメリカ人の修道士ティムとジョン、そしてもともと友人であるフィリピン出身の修道士道傑の三人がやってきた。しかしアメリカ人二人は英語しか話せないので子どもたちのために英語の教室を開催することにした。子どもたちはどっとやってきたが、二日目は半分に、数日後には三人となった。
子どもたちの行方を捜してみたら川で一日中水遊びをしていることがわかった。丁神父は修道士たちに川へ行くように勧める。英語の勉強は水の中の騎馬戦や川下りに変わり子どもも大人も共に大いに楽しんだ。
数日後、川から戻るとティムが高熱を発し「気息えんえん」となった。治療といっても村の保健室の点滴があるだけだったが、ジョンと道傑の些か風変りな激励と世話のもと、ティムの熱は下がり数日で回復した。
三人の修道士を元気づけるため、丁神父は那羅行を敢行することにした。
丁神父のシスター趙に対する最も強烈な記憶は彼女の料理と関係がある。
あるとき神父は山奥の小さな部落を訪ね、その帰途数時間歩いて那羅の近くまで来た。疲労困憊していた。那羅へ着いたらご馳走、行くたびいつもシスター趙が振舞ってくれる美味しいピザや手作りのお酒があると思うと歩調が弾んだ。
その時神父は急な下り坂を歩いていたが下の方からタクシーが上ってきた。乗っていたのはシスター趙と数人の神父だった。 それを見て那羅へ着いてもご馳走はないことが分かりがっくりした。
ところがシスターはタクシーの中から大きなバスケットを取り出した。中に詰められていたものは焼き菓子の類とブドウ、それに自身で醸した有名な酒。そのうえなんとぴかぴかに磨き上げられたグラスも現れた。その急な坂道に立ったまま、神父はパイとブドウとグラスに注いだお酒をご馳走になり元気を取り戻した。それからシスターたちの車は神父の下りてきた山に向かって上っていった。
このようなすばらしい思い出があったので、神父は、那羅行を修道士たちの短い台湾滞在期間における「必修の科目」としていた。
ところが、三人を伴って清泉を出て次の部落へ通じる道まで行くと、そこは崩れ落ちた土砂で埋まっていた。彼らは元々落石をよけて進むのは危険すぎると思ってはいたがやはり危険すぎた。ティムの頭にはすでに何度も石が落ちてきていた。
そこで仕方なく下の川まではい下りて、それからまたはい登り土砂崩れの先へ出るほかなかった。
極暑の日中、着衣には汗がしたたり、気の毒な修道士たちは暑気あたりで倒れる寸前だった。それでもなんとか那羅に着いた。
シスター趙は清潔この上ない小さな診療所へ案内してくれた。
ティムの怪我の手当をしてくれたあと、ご馳走が始まった。スパゲッティ、酒と各種のピザやパイ。「スパゲッティのお代わりは?」「もっとお酒はいかが?」「紅茶は?」と「シスターは散々皆を甘やかしてくれた」と神父は書いている。
食後、修道士たちの会話に変化が起こった。「もしここへ来ていたら絶対病気にならなかったよ」「ここは清潔で優雅だ。あそことは違う」「ここを離れたくないね。あそこよりずっといい」
どうすればこの修道士たちの機嫌をとって清泉に連れ帰ることができるのか神父は考えた。
それには清泉の山奥にある神木を見せると言って、彼らを那羅の人々、シスター趙、それからシスター手製の美酒と一流のイタリア料理から引き離すという手を使う他なかった。

2025年2月、念願の那羅行も決まり私たちの「清泉を訪ねる旅」は始まった。出発直前に仲間の一人がコロナに感染して抜けるというハプニングもあったが、台湾の友人一人も加わった五人の旅だ。
朝9時、清泉の民宿の主人が運転するバンで新竹を出発。途中横山郷にある古い鉄道の駅舎「合興車站」を見学したり、山に入ってからは奇石のそびえる渓流のほとりを歩いたりしたあと那羅に向かった。
二時すぎに那羅に着いた。車中で民宿の主人から、那羅天主堂のシスター趙は90歳を過ぎており、ごく最近新竹にある修道女会の施設に移られたと聞いていた。
民家がぼつぼつ並ぶ那羅の部落に入ると車を降りて細い道を教会の方に向かった。人影はほとんどない。急な上り坂を少し歩くと写真で見たことのある教会の赤い屋根が見えた。近づくと門は閉まっていた。一行の姿を見て近所の家から出てきた男性が、今日は教会にはだれもいないだろうと言った。
フェンス越しに教会を見学していこうとしていたら、建物の中から黒い修道服に身を包んだ若い小柄なシスターが出てきた。そして中に入るように勧めてくれた。
そのシスターは突然現れた見知らぬ外国人たちに、穏やかに教会の敷地内にある幼稚園、聖堂を案内してくれた。それからお茶を飲んで休憩していくようにと聖堂のそばにある裁縫学校へ誘ってくれた。中国人ではなさそうだったが自在に中国語を話す。
この裁縫学校は丁神父の文章によればシスター趙が始めたものらしく、学校の教室ほどの広さの裁縫学校の部屋にはミシンが数台、大きな作業台などがあってあちこちに作業中の色とりどりの衣装のようなものが載せてあった。窓際には出来上がった衣装やカバン類がかけてあったがどれも鮮やかな色彩で、一目で原住民独特のものだとわかった。
お茶とお菓子が運ばれ、シスターは活動の紹介や自身のことも話してくれた。
彼女の名前はシスターエナ(安娜修女)といい、13年前にベトナムから台湾へやってきて、輔仁大学で4年間神学と中国語も学び2年前に那羅へ赴任した。現地の言葉タイヤル語も覚えた。少しの間だがシスター趙とも共に暮らした。
裁縫学校では部落の女性たちに裁縫を教えている。タイヤル族伝統の色や絵柄を使って衣装やカバン、装身具を作る。シスター自身もデザインを考える。彼女たちが技術を身に付け、製品を販売して収入を得られるよう図っている。私たちにもそれらユニークな衣装を試着させ楽しませてくれた。
若くして故国を離れ布教のためにこの地に生涯を捧げようとする人がいる。静かではあるが強靭な意志を感じ、深い印象が残った。
私たちは那羅でシスター趙には会えなかったが、若いシスターエナに会うことができた。

同行した台湾の友人がその後知らせてくれたことだが、シスターエナがシスター趙と知り合ったのは、シスター趙が自身が所属する「天守教耶蘇肋傷修女会」(Missionary Sisters Del SacroCostato)に参加する若い人を募集するため2005年にベトナムを訪れた時で、シスターエナはその後2012年に台湾に渡った。2022年7月、シスターエナは耶蘇肋傷修女会会長からシスター趙の使命を継ぐよう那羅天主堂に派遣された。彼女は、シスター趙に倣い、自分のすべてを惜しみなく捧げ、全能の神にとっての一粒の麦でありたいと語っている。
丁神父が那羅から三人の修道士を連れ戻す手段とした神木の話だが、彼らは、「この村ではとても安全」とは思えぬ出来事と「親密な接触」をした。
清泉から二台のバイクに分乗して山に向かった四人であるが、途中道傑の運転するバイクが転倒して後ろに乗っていたティム共々二人はかなりの怪我をした。それでも神木に向かうが、聞いていたこととは異なり山頂まで4時間近くかかり、着いたときは濃霧でほとんど何も見えず、その後の「短い道のり」にさらに2時間も要した。だが、この旅最大の災難は腰の高さにも及ぶ湿った草むらに立ったとき襲ってきた。皆の両腕のあちこちに血が滲んでいるのでよく見るとびっしりヒルが吸い付いているのだ。四人は神木にもたれて座り込み凍えそうな寒気の中、必死でヒルをはぎ取るほかなかった。
その日ティムは神父に言っている。「私の一生においてあなたと一緒に遊びに出かけた今回ほど、死に神とこんなに親密な接触をしたことはない」
一か月の訪問期間中、死に神と何度か親密な接触をした後、哀れな修道士たちは去っていき、台湾各地でそれぞれの奉仕プロジェクトに参加した仲間たちと合流した。
その後、道傑はある集会のことを丁神父に話した。その集会で、あの二人は冒険談を披露したそうだ。さまざまなプロジェクトを実施したすべての修道士の話の中で、「話すこと」が最も多く、「した仕事」がもっとも少なかったのはティムとジョンだったそうだ。
「彼らは絶対もうここへは来ないだろうね」と言う神父に道傑は答えた。「また戻ってくると言っていました。ここではなく那羅のシスター趙のところへね。あそこはあなたといるよりかなり安全だって」
2025年の私たちの旅だが、車は那羅を後にして清泉に向かった。山の中のその道はヘアピンまたヘアピン、またまたヘアピンのカーブが続く。車の中の人間は右へごろり、左へごろり、しばしばジャンプもする。50年の昔、丁神父が「何時間も何時間もかけて」歩いた道は今回の旅でもスリル満点ではあったが、廻り道をして小さな教会のある部落へ寄ったりしても一時間足らずのまずまず安全なドライブだった。
最近、シスター趙(趙秀容)の訃報に接した。シスターは今年5月30日、新竹市にあるカトリック修道女のための施設「天主教耶穌肋傷修女省會院」で安らかに93歳の天寿を全うされたそうだ。28歳でイタリアから台湾に渡り、その後65年の生涯を山地の部落の人々のために捧げた。台湾のマザーテレサと称えられている。
今回の旅では那羅という初めて訪れた土地で、二人の修道女の布教の生活を身近に実感した。宗教というものが擁する深淵な世界の中で、人と人とがなんの分け隔てもなく手を伸ばし手にすがる。丁松青神父の『清泉故事』はまた私の世界を広げてくれた。







