無敵の男3

作家(「評伝 石牟礼道子 渚に立つひと」で読売文学賞 評論伝記賞受賞)
米本浩二
2025/10/17

◇タクシー

 クルマを封じるのであるならば、代替手段を示さねばならない。当面、丸上医院にどうやって行くかが問題になる。クルマだと五分程度なのであるが、ジイジの足だと歩くと三〇分はかかる。遠隔介護の私としては、タクシーに頼るしかないのだ。

 ジイジは電話が不得手なので、ジイジがタクシーを利用するときは私に電話し(私への電話はワンタッチでかかるように設定してある)、私がタクシーを手配する、ということになった。余談ではあるが、タクシーの運転手に聞くところ、利用者の八~九割は食料品などを買うお年寄りという。

 二〇二五年二月一五日、丸上医院へ行く日がきた。午前九時前である。

「あ、もしもし」

「……はい、やまびこタクシーです」

「あ、すみません。一台お願いします。あの、えっと、年寄りを迎えに行ってほしいのですが……」と言いかけると、

「いま空いているクルマがありません。もうしばらくしてから電話いただけますか」

「あの、予約、できませんか」

「人が少なくて、この電話もタクシーの中で受けています。すみません」

 電話が切れた。最初からつまずいた。きのうのうちに予約をとるべきだったのか。鼓動が激しくなってきた。タクシーがつかまらないとジイジは病院に行けない。電話がかかってきた。タクシー会社から折り返しの電話である。

「クルマが空きました」という。私は住所を伝えた。これでタクシーを確保した。ジイジに電話する。電話をかけるから電話の近くで待機するように言っていたが、ジイジは出ない。トイレにでも行ったか。これはだめかと思い始めた頃、「はい、お待たせしました」とジイジが出た。ジイジは認知機能が低下しても「お待たせしました」と言える人なのである。

「タクシーが来るから。外に出て待っといて」

 ジイジのアタマにねじこむような勢いで私は言った。

「わかった」とジイジは言うが、数分もたたないうち、

「丸上にはどうやって行くんや?」と電話してくる。

「タクシーが迎えにいくから」と説明する。

「どうやっていくんや?」

「タクシー」

「ワシが運転していこうか」

「タクシー」

「丸上医院って、高松にあるのか?」

「タクシー」

 丸上にタクシーで行く。簡単なことに思えるが、認知機能が低下しはじめた人に普段とはちがったことを実行させるのは至難のワザなのだ。ジイジのアタマに染みるまで繰り返し言わねばならない。きょうは丸上にタクシーで行く。

 タクシーが丸上医院に着いた頃を見計らって、私は丸上に電話をかけた。山法師が出た。

「あの、米本松雄の息子です」

「……あ、はい」と言って、黙っている。察しがわるい。「どうしました?」くらい言ってくれないか。

「あの、きょう、父はタクシーで行きました」

「……あ、はい。あ、お見えになりました。代わりますか?」

 私はイラついた。ジイジと話したいわけではないのだ。

「診察が終わったらタクシーを呼んでやってください。オヤジは足がないもので」

「あ、タクシー、分かりました。代わらないでいいですか? あっ、米本さん、息子さんから電話。どうぞ」

 ジイジが電話に出た。この際だからジイジにも念押しする。

「タクシーに無事乗れたようだね。帰りもタクシーに乗ってね」

「よっしゃ、分かった」

 これで万全のはずである。診察が終わったらタクシーで帰宅すればいいのだ。実に簡単なことである。しかし、思うようにはいかないものだ。ジイジにとっては、自宅からタクシーに乗ること自体が珍しい。そのタクシーで医院に行くという慣れない状況に混乱してしまったらしい。

 ジイジは、診察してもらったのち、長いことトイレに行き、医院内を彷徨した挙句、診察代を払わず、クスリももらわず、徒歩で帰ってしまった。

「歩くと遠いのぉ」とジイジは語ったものだ。

 事情を聞いた訪問看護師が医院に出向いてクスリはもらってくれた。

 山法師から「今後、おみえになるときはどなたかの付き添いが必要です」と言い渡された。私は、念を押していたにもかかわらず、オヤジから目を離して、無断帰宅を許してしまった山法師への不満を抱えていたが、今後の付き合いを考えるとこちらの都合を言うわけにもいかない。患者ひとりひとりに目を配るのはむつかしいのは理解できる。

◇付き添う

 以上の「タクシーに乗れませんでした」事件は、憎めない年寄りの、ほほえましい失敗の一挿話に過ぎないのである。しかし、私にとっては笑いごとでなく、日常の暮らしの変更を迫られる、転換点ともいえる出来事となった。

 以後、月一回の丸上医院への通院に私が付き添うようになったのだ。

 福岡市から徳島に出向いて、ジイジを丸上に連れて行く。二〇二五年三月以後、そういうミッションが私に課せられた。徳島に行ってすぐ福岡に戻っては手間とカネがもったいない。ジイジも私が来ると喜んでくれている。独りにしては危険な年齢でもある。そうなると私は、最低一週間は徳島にいることになる。丸上には毎月中旬に行くので、だいたいその頃、私は徳島に七~一〇日間滞在するということになったのである。

 福岡とか徳島とかの地名を出して、私は、読者が混乱しないか心配している。地図の上では福岡は九州の一番上にある。分かりやすい。人口も多く、ニュースも豊富で、福岡にピンとくる人は多いだろう。しかし、徳島となると、そういう県の名前は聞いたことがあったとしても、四国のどの辺か分かる人は少ないかもしれない。そもそも徳島が四国にあるということが知られていない。例えば、東京の大学に通っている頃、私が「徳島出身です」と言うと、サークルの先輩から「おお、あのコンビナートがあるところか」と言われた。山口県の徳山と勘違いしているのだ。その程度の存在感である。

 福岡市から徳島県西部の町へどうやって行くか、を述べておこう。福岡市内在住の私は博多駅までJR在来線でいく。二駅である。博多から岡山まで新幹線。約一時間四〇分。岡山から高知行き特急『南風』に乗り、約一時間二〇分で阿波池田駅に着く。所要時間はトータルで三時間余り。料金は約一万七千円である。阿波池田駅からジイジの家までタクシーで約一五分。料金は約二千円。歩くと一時間はかかる。費用がかさむのはやむを得ない。

 余談になるが、上記の行程は本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が一九八八年にできてからのものである。それまでは瀬戸内海を航行する国鉄の宇高連絡船というのがあり、岡山県の宇野駅と香川県の高松駅をつないでいた。海上の時間は約一時間。席の確保は早い者勝ちであり、乗船のときは、殺気立った乗客が出入り口にひしめいた。私も早くから前の方に並び、ダッシュしたものである。

 それはともかく、ジイジは丸上に行くのである。ジイジが診察を受けるあいだ、ジイジの斜め後ろの椅子に私は控えている。ジイジの診察に私が付き添うようになり、二カ月、三カ月とたっていったが、丸上先生のおとなしい印象は変わらない。ずいぶんあっさりした診察だと毎回思う。血圧をはかる。血中酸素を測定する。体温をはかる。この三つが終わると、「はい、それではまた来月」で終わりなのだ。

 世間話のひとつもできないのではいけないと丸上先生も思うらしく、ある日、「お願いします」とアタマを下げたジイジに丸上先生が「きょうは天気が……」と言いかけた。雨が降って足元がタイヘンでしたねということなのであるが、あとがつづかない。「えっ……」と ジイジも臨機応変に応えるタイプではない。気まずい沈黙が訪れる。

 血圧、酸素、体温の三つの測定はヘルパーさんも訪問看護師もする。この三つだけならわざわざ医院まで行く必要はないという気もする。もちろんクスリを処方してもらうには医師の診察が不可欠なのではあるが。いつぞやタクシーの運転手さんが言っていたように、丸上先生は聴診器をあてない。「体内の音を聴かなくて大丈夫か」と私も思う。

 私にまったく話しかけないのも気になった。患者がひとりでは心もとないから付き添っているわけだ。「息子さんからみてどうですか? 気になることはありませんか?」の一言があってしかるべきではないのか。

◇ケアマネジャー

 以上のような不満を私はケアマネに訴えた。なんだかんだ言っても私も医師本人に不満を言う気はない。介護保険関係者や看護師らにはあれこれ言うことがあっても、医師本人には何も言わない、というのが日本の患者・家族の平均的ありようというものだろう。不満をいうなら、その医師と決別の覚悟がいる。まだしばらくはジイジを診てもらわねばならない。いま丸上医師から離れるわけにはいかないのだ。

「キミも、コミュニケーション障害が治ったら、そこがキミの医師としての第一歩だ。患者が増えるかもしれないよ」。ケアマネの前で、丸上先生をさとす自分を演じてみせる。ケアマネは「そうなんじゃー」と笑っている。

 ジイジのケアマネは南登志子さん。老人介護施設で介護福祉士を経験し、四〇代でケアマネに転じた。晩年のいしだあゆみのようにやせている。顔も似てきた。夏場でも首をおおう服を着て、スカーフをまいていたりする。首元から胸のあたり、骨が浮き出てあまりにも貧相なので、見えないようにしているのだ。知り合いの管理栄養士に献立をつくってもらい、ふたりの小学生男子を育てるかたわら、自分でちゃんと食事をつくり、しっかり食べているのに、太らない。診察を受けても「体質ですね」と片づけられてしまう。

「コミュ障克服からすべてははじまる」と私はふたたびギャグをとばす。「オレがコミュ障、治してやろうか」「はい、お願いします」と自分と丸上医師を一人二役で演じ、笑いを誘う。「イナカのお医者さんによくある、どうということもない話題で患者さんと笑いあう、というタイプではないのですね」と南さんは言う。仕方ない、が結論だ。

 南さんは、ジイジを担当してくれるケアマネの二代目だ。初代の合坂聡さんは南さんと同年配の四〇代。ほんわかとした雰囲気と体格がお笑い芸人の中川家礼二に似ていた。原因不明のたんこぶができたジイジに付き添って救急病院に行ってくれたりした。アタマなので脳への影響を心配したのだ。付き添ってくれても、ケアマネの決まりで、送迎はできない。このときジイジは合坂さんに呼んでもらったタクシーで病院に行き、病院で待機していた合坂さんと合流した。「たんなる打撲」という診断をジイジと一緒に聞いてくれて、私に伝えてくれたのである。

 いまの南さんも親切で、気がきいて、丁寧なのであるが、医療機関への付き添いは消極的である。ケアマネがそこまですることない、病院への付き添いなどは家族や、他の介護・医療関係者の仕事だと思っているようだ。「息子さん(ジイジの息子とは私のこと)は行けませんの?」と聞いてきたりする。

 合坂さんはケアマネの報酬が少ないのが不満で、老人介護施設に転職してしまった。南さんは逆に、給料は少なくともやりがいの面でケアマネの仕事を選んだという。人それぞれの事情がある。

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