◇強制退院

 翌六月三日、私はJR四国の特急南風(阿波池田~岡山)、新幹線のぞみ号(岡山~博多)を乗り継ぎ、福岡市の自宅に着いた。所要時間、四時間弱。肉体よりもアタマが疲弊している。考えがまとまらない。とにかくジイジは入院したのだ。私も、数日はゆっくりしていられる。リュックをおろした。キャリーバッグの車輪を雑巾で拭く。スマホが振動した。わるい予感がする。阿波白鷺病院からだ。

 出てみると、ジイジの主治医の青年医師である。主治医といっても、病棟入口で立ち話をした程度である。大学生に毛のはえたような三〇歳そこそこの若者だ。いかにも毛並みのよさそうなこの人を私はひそかにボンボンと呼んでいた。

「きょうが入院二日目。お父さんのせん妄がはげしく、もはや、対応できません。看護師が対応しきれない。限られた人数でやっていますので」と言う。

「はあ」と私は言葉に詰まる。「もはや」とは何だよ。

「きょう、退院していただきます。介護タクシーで自宅までお送りします」

 はあ? 介護タクシーで家までって、いったいいくらかかると思っているんだ。それよりも何より、家に帰ってもジイジは一人なんだ。認知悪化の年寄りは場所の移動に敏感なんだ。病院から自宅へ、イキナリ環境が変わる。混乱するに決まっているだろう。ジイジは宅配の荷物じゃないんだぞ。一人置き去りにしてどうするんだ。病状だけではなく環境全体に気を配るのが医者だろう。お前じゃ話にならん。院長と電話を代われ、とは口にださず、私は極力ソフトに言う。

「あ、でも、父は自宅のカギを持っていません。私が預かっていますから。せっかく家まで送っていただいても家に入れません」

「えっ、そうなのですか」とボンボンは驚いた様子である。

「無理です」と私は言う。

「それでは明日退院していただきます。正午までに迎えにきていただけますか?」

 ボンボンが逆襲してきた。なにがなんでも追い出すつもりである。

「すみませんが、私はいま、福岡にいます。明日正午までなんて行けませんよ」

「あっ、福岡、そうすると飛行機ですか」

「いいや、新幹線です。分かりました。迎えに行きます。ただし、正午までというのは無理です。午後四時でお願いします」

「そうですか、午後四時、やむをえないでしょう。それではお待ちします。お気をつけていらしてください」

 やれやれという安堵の気配が電話の向こうから伝わってきた。

 私は足元の荷物をながめた。また明日、これらを抱えて新幹線に飛び乗らねばならない。のぞみ号(博多~岡山)、JR四国の特急南風(岡山~阿波池田)を乗り継いで徳島へ。きょうの行程を明日また逆にたどるのだと思うとなんともいえない倦怠感、徒労感、無常観に包まれる。行きたくないなー。カネももったいないなあ、と本音もアタマをかすめる。非常事態と自分を納得させるしかない。

 翌日の六月四日、私は徳島に戻った。白鷺病院に行く。ナースセンターの白衣の若い娘に交じってジイジがニコニコしている。「息子が迎えに来る、と朝から楽しみだったんですよ」と見知らぬナースが言う。なんだか和気あいあいとしている。よく溶け込んだものだ。ジイジを入院させたとき、私は半日しか病棟にいなかった。看護師はテキパキよく気のつく人ばかりであったが、入院のしきたりが分からず時々立ちすくむ私は、若い女性特有のピリピリした感じに気圧されるようであったのだ。

「溶け込んだ」と私は書いたが、実際はそんな甘いものではなかっただろう。ボケた爺さんがナースセンターという医療者専用エリアに入ってくる。追い出しても性懲りもなく来る。言っても分からない。仕方がない。まもなく退院するのだから、このまま部屋に置いておいてやろう、そういう合意ができていたのであろう。

「家に帰るぞ」とジイジは意気軒高である。しばらく黙っていたが、クルマが市街地から田舎道に入り、徳島西部の気配が濃厚になってくると、「オヤジは仕事から帰ってきてるかな」など奇妙なことを言う。「隆姉のいうことは聞かねばならんからの」とも言う。ジイジの親も姉の隆子さんも既に亡くなっている。私は了解した。認知悪化の年寄りが「家に帰る」とは文字通りの意味ではなく、「父母も、きょうだいもいる、あの懐かしい家に帰る」ということなのだ。クルマが家に着く。「お前はいったん帰るか? オヤジはまだ帰っていないようじゃ」とジイジは言う。実家の近くに私がもうひとつ別の家でも構えているかのような言い方である。「オヤジを見てないか?」とジイジが聞く。私は「見てない」と首を振るしかない。

 ジイジが落ち着いたのを見定めて、私は福岡に戻った。六月一四日、ジイジが熱を出したのを、デイケア施設の看護師からの電話で知った。午前中の検温で三八度超え。午後四時にはデイケアの業務は終わるのだが、例外的措置として、看護師らがジイジを菊水病院の救急外来に連れて行ってくれた。熱は下がらない。レントゲンやCT検査を受けた。風邪という診断である。午後六時過ぎ、スタッフが自宅まで送ってくれた。

 私は夕方、徳島に向けて出発した。ジイジの家に着いたのは午後九時過ぎである。勝手口から入る。居間にジイジの足が見えた。ソファで寝ればいいのに床に横になっている。エアコンの冷風をダイレクトに受けている。万が一の事態も想定して顔をのぞきこむと水洟が出てセキもひどい。ひきずるように隣の寝室のベッドに寝かせた。ダイコンが食器棚、食卓に南蛮漬けの酢汁、サカナなどが散乱、予備用のクスリが冷蔵庫の野菜コーナーにあるなど、混乱している。翌朝には三七度台、翌々日には平熱に戻った。

 私はデイケア施設に菓子折りを持参して、礼を述べた。勤務外にボランティア的に動いてくれたのである。病院に連れて行ってもらってなかったら、どうなっていたか分からない。一人暮らしの年寄りは発熱やケガが命取りになる。

◇正義は回復した

 志摩医師の診察があったのは、それから四日後の六月一八日だ。検査入院の結果を踏まえ、カテーテル手術ができるかどうか最終的に判断するのである。緊急退院のため、一連の検査で重要と思われるカテーテル検査をジイジは受けることができなかった。そのため、私は「手術は無理かもしれない」と思っていた。しかし、CT検査を受けていたのがよかった。精密な画像で手術の可否を判断することができたのである。

「年齢相応に血管が一部石灰化しています。通りにくい血管も散見されます。しかしカテーテル手術の際には、通りにくい血管を迂回することもできます。やりましょう。ただし」と志摩医師は私を見る。

「お父さんには家族の付き添いが必要です。検査入院のとき、せん妄がかなりひどかったようです。担当医師から報告が来ています。付き添い、大丈夫ですか?」

「付き添います」と私は即答した。手術となったら付き添いが必要になるだろうとはボンボンからも聞いていた。

「わかりました。それなら問題ないです」と志摩医師は言う。

「失敗の確率は、一般的には2パーセント。年齢を考慮すると、そうですね、4.5パーセントというところでしょうか」

 カテーテル手術を受けた百人のうち二人失敗する確率だ。身じろぎもしないジイジと私に志摩医師は、「当院のカテーテル治療中に、患者さんの心臓が止まったことはありません」と言った。この言葉をのちにケアマネの南さんや看護師の播磨さんに伝えると、「わざわざそういうことをおっしゃるとは、まあ、それはかなりの自信」と驚いていた。

 志摩医師は太めのボールペンを手にし、「これくらいの太さのカテーテルを血管に通していきます。右の動脈が狭いので、左脚から通します」という。医師は「長生きしましょうね」とジイジの膝をポンとたたく。カテーテル手術は七月一〇日に決まった。帰りの道沿いに志摩医院があった。志摩先生の実家だろうか。

「いよいよ手術」「だれが?」「ジイジ」「ワシか」というやり取りは帰りのクルマの中で数限りなくやった(以下省略)。クルマは家に着いた。ジイジは早速トイレに行く。帰りに二回ほどトイレ休憩をしたが、「やっぱり、わんく(わが家)のトイレが一番ええ」と言う。南蛮漬けと煮しめを買っている。白ご飯も炊けた。午後六時を過ぎるのでそろそろ晩飯をとジイジを探す。いない。

 私は外に出た。石垣の上の畑に人の気配がする。麦わら帽子に草刈りガマを手にしたジイジが彫刻のように立っている。何だか知らないがこの畑をフィールドにひと働きした風情である。夕方となっても初夏の日差しはきつい。ジイジはチラと空を見る。陽をうけたジイジの顔は仁王様のように真っ赤だ。ワルモノはやっつけた。正義は回復した。『荒野の七人』のユル・ブリンナーのように何か威厳に満ちている。いや、満ちているというか、威厳を保とうとしている。病院で背中を丸めている自分は自分ではない。本来のワシはコレだ、そう言いたかったのか。「病人なのだからおとなしくしていないとだめだ」とはとても言えない。「だれもジイジを止められない。止めてはならないのだ」と私は自分に言い聞かせた。ラウンド終了を告げるレフェリーのように、「ごはんだよ」と告げた。

「まだ来んのぉ、みんな、どこへ行った」。ジイジと私、ふたりきりの食卓である。ジイジがよく口にするフレーズだ。「みんな」とは私や妹のスエコの子供らを指していた。数年前までは私や妹の家族もジイジの家によく来ていたのである。免許を返納した頃から、「みんな」とは、ジイジの父母やきょうだいを指していると気づくようになった。「みんな」がなんでも私はかまわない。「早く食べんと、なくなってしまうぞ、と言うてこい」「そのうち来るよ」と私は言う。

 ジイジと私のふたりだけの食事がすむ。「オヤジたちがまだ食べてない」とジイジが言う。「そのうち食べるよ」と私は言う。それで納得すればよいが、「巻き寿司はないか」と言い出すときがある。巻き寿司はジイジのソウル・フードのひとつである。ある夜、あまりしつこく「オヤジたちに巻き寿司を」と言うので、一緒に巻き寿司を買いに行ったことがあった。最寄りのスーパーまでクルマで約一五分。午後七時を過ぎている。この時間のスーパーは初めてだ。幸いひとつ巻き寿司がのこっている。それを買って帰途につく。家についてしまえばジイジの妄想はすっかり冷めている。巻き寿司のパックを前に「やってしまった。仕方ない」とつぶやく。

 福岡市にいる私に「巻き寿司、買うてきてくれ」と電話してきたこともある。午後六時を過ぎている。ちょっとアタマにきた私は、いまから博多駅に行って、新幹線、特急をのりついて、徳島に行こうかと思った。徳島のスーパーで巻き寿司を買って、「はい、買ってきたよ」と巻き寿司を置いて、そのまま博多に戻る。ジイジはあぜんとするだろう。いま思うと、そんなことしなくてよかった。

 ジイジはおかずをまとめ買いするとき、巻き寿司を入れることが多い。巻き寿司は冷蔵庫に入れたままである。食べないのになぜ買う? と不審だったが、巻き寿司には「お供えもの」の意味もあるのだ。「減ってないのう」と冷蔵庫の巻き寿司を見るジイジは眉をくもらせる。ストレートに母の遺影の前に置くこともある。「ぜんぜん食べんのじゃ。写真になってしまって、もう食べんのじゃろか?」と真から困ったように私を見る。「置いといたら食べるよ」と私は言う。

「みんな、来んのう」とか「巻き寿司」とかジイジが言うときは暮らしの回転がまだうまくいっている方なのである。私がせっかく食卓をととのえても、おなかはすいているはずなのに、食べに来ないときがある。強いることにならないよう、気を遣い、遣いして声をかけても、無理な場合がある。不快なことがあったわけではない。不満があるわけでもない。一日をどんなに愉快に過ごしたとしても、いやおうなく訪れる、ジイジと私のあいだのぎくしゃくした感じ。父子といえども、いや父子だからこそ、骨肉ゆえの深淵というものがある。それは仕方のないものだ。

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