◇介護で太った?

 ジイジの入院中の話としてウォーキングのことをチラと書いたが、私は基本的に歩くことが好きである。うれしいにつけ、悲しいにつけ、なにかにつけ、歩いてきた。

 東京で大学に通うときは高田馬場から早稲田まで必ず徒歩だった。休日、下宿の近辺を、足が疲れるまで歩いた。汗で全身の衣服が重くなる。しかし、どこまでも行くということはなかった。必ずどこかで引き返すのだ。どこまでも行けばどうなるのだろうと思うこともあった。しかし私はどこかで限界をつくるのだ。自分をとことんやり抜くことができない半端者と思う気持ちから抜けきれなかった。

「何という苦い絶望した風景であろう。私は私の運命そのままの四囲のなかに歩いている。(中略)定罰のような闇、膚を劈く酷寒、そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じることが出来る。歩け。歩け。へたばるまで歩け」

 私は残酷な調子で自分を鞭打った。歩け。歩け。歩き殺してしまえ」(梶井基次郎「冬の蠅」、ちくま日本文学『梶井基次郎』)。

 地味な青春だった。就職して東京勤務のときは、皇居の回りを走ってもみた。皇居の回りは不思議なランニング環境であった。流れるプールなのだ。走っている人たちが流れをつくっている。スイスイ走れる。だが残念なことに、走り始めて半年後、腰が痛くなってやめた。

 二〇二五年夏、ウォーキングを再開した。「再開」というのはこれまでも「カチ歩き」と称してウォーキングらしきものはやっていたが、もう六〇代半ばにもなるので、本格的に、腰をすえてやってみようというのである。

 そのきっかけというのがほかでもない、ジイジの介護のため徳島に定期的に里帰りするようになって、私の腹が急に膨らんできた、という事情がある。加齢や運動不足による慢性的な膨れはあったが、今度のは急速すぎる。湯舟に入っていて足の指をマッサージしようとしても腹が邪魔で手が届きにくい。こんなことは初めてのことだ。

 肥満の原因として思い当たるのは、実家からクルマで五分程度のところにある讃岐うどんの店である。幼い頃から家族で親しみ、近隣の県からも客が来る。名物店なのだ。故郷の名所は、吉野川・大歩危小歩危の奇観や、かずら橋の祖谷でなく、この店ではないだろうか。店で毎日つくる麺にはコシがあり、だしも絶妙、「連絡船のうどん」の味を思い出させる。

 通わない手はない。実家に行くたび、二日に一回の割で店に行った。人気メニューは「釜揚げうどん」だ。ゆで麺を漬け汁で食べる。麺がなくなった器にはゆで汁がのこっている。そこに漬け汁を入れると、かけうどんの汁のような塩梅(釜揚げうどんの漬け汁を薄めたもので、かけうどんや、「連絡船のうどん」のような滋味はない)になる。漬け汁を器にそそぐと、驚いたように私を見る人もいる。

「ツウはこうするんだぜ」と視線を意識しながら私は汁を飲み干すのである。

 しかし、訪問看護師の播磨さんら介護チームによると、うどんの過食は肥満につながる。汁までぜんぶ飲んでいては太るのは当然である。せっかく徳島にいるのにもったいないが、店には行かないことにした。名店であるから、ジイジを時折連れていくぐらいはする。ジイジはうどん好きなのだ。

 肥満を挽回せねばならない。私としてはけっこう切羽詰まった気持ちでウォーキング再開を決めたのである。徳島にいるあいだは、裏山のふもと、家の墓があるあたりまで約二キロの坂道を毎日歩くことにした。墓掃除、お参りが終わっても、山の際の土讃線の線路まで足を伸ばし歩数を稼いだ。私がいつも乗る特急南風が一時間に二本の割で通った。

 ウォーキングの主戦場は福岡だ。絶好のコースが福岡市の自宅近くにある。福岡都市高速の高架の下は一般道の両脇に歩道が整備されているのだ。歩道は、五メートルほどの幅が確保されてある。高速下の歩道は人も自転車も少ない。信号もあまりないし、適度にアップダウンがある。平日はほぼ私の貸し切りといった感じなのだ。

 福岡高速五号線は博多区西月隈から西区福重三丁目まで一八・一キロ。西月隈から西へ約一キロ地点を起点に、西方まで延びた広い道を私は西へゆく。頭上の高速道路でクルマが行き交う。その下の一般道も交通量は多い。一般道とはいえ高速下なので信号が少なく、准高速というおもむきである。中央分離帯と一般道四車線の両脇に歩道がある。人の姿の少ない道路が延々と延びている。高架の下ということもあり、海の中を行くようだ。道=海を面白がる私は、自分を、海を行く潜水艦と想像することがある。

◇Uボート発進

 その場合の潜水艦とは、平和な時代の潜水艦(潜水艦は軍艦のみか?)ではなく、戦時の、具体的にいえば第二次大戦時の、北大西洋あたりの潜水艦、灰色のオオカミと言われたドイツのUボートがぴったりくる。

 潜水艦であるならば操艦が必要である。人が操らなければどんな巨艦にも生命は宿らない。自分が艦長なのか、副長なのか、航海士なのか、機関士なのか、一乗組員なのか、それとも、潜水艦そのものなのか。おそらく、そのどれもである。

 私は映画『Uボート』のユルゲン・プロホノフ演じる艦長になりきっている。考案した操艦の掛け声がある。「面舵いっぱい」の本来の意味は「進行方向に向かって舵を思い切り右へ切る」なのであるが、わがウォーキング・Uボートの規定では「道路の右端を歩く」という意味になる。「取舵いっぱい」は「舵を思いっきり左へ切る」が本来であるが、わがウォーキングでは「道路の左端を歩く」ことになる。

 私が歩くときは右端か左端のどちらかである。前方から人か自転車が来る。わが艦長は「面舵いっぱい」か「取舵いっぱい」のどちらかを命令。副長らが復唱し、前から来る人や自転車に道を譲る。進路そのままのときは「ヨーソロー」。本物の船乗りも「ヨーソロー」と言う。「よろしく候」という古来の船乗りの掛け声に由来するらしい。

 私は、パワー・ウォーキングといわれる速めの歩行を好む。しかし、ずっと速めよりも、時々ゆっくり歩けば効果的なのだという。「早歩き」と「ゆっくり歩く」を交互に繰り返すインターバル歩行は、筋力や体力の向上、生活習慣病の予防・改善には有効とされている。「早歩き」の際のポイントは①歩幅を大きく②かかとから着地する③腕を後ろに大きく振る④遠くを見る、など。

 ウォーキング・Uボートにおける「全速前進」は文字通りの意味であるが、「全速」といっても「早歩き」をずっと維持するのはむずかしいから、五分以上「全速前進」するなら、だいたい自分の七~八割の力と感じる程度でよしとする。

「微速前進」はちょこちょこ狭い歩幅で歩くという意味。歩幅を大きくすると脚の付け根など痛めてしまうことがある。ケガは気をつけないといけない。いつもとちがう感じが少しでもあれば、微速前進、ちょこちょこ歩いて脚の損傷を防ぐ。

「大股キープ」は「全速前進」に近いが、全速とまでいかないまでも、「歩幅を大きく」を維持せよという意味。「全速前進」と「大股キープ」は同時に発せられることが多い。「胸そらせ」は「遠くを見ろ」ということ。

「跳べ、跳べ」は「全速前進」に近い。「全速前進」は上り坂で命じられることが多いのであるが、下りにさしかかると、どうしてもスキーのジャンプのように前傾姿勢になり、足を前方に放り出す感じになるため、「跳べ、跳べ」という掛け声が適切になる。「跳べ、跳べ」とリフレーンなのは、「跳べ」だけだと、交互に足を前に投げ出す下り坂のニュアンスが出ないからだ。

「リズムきざめ」は、ヘロヘロになった段階で発せられる掛け声である。速度が出ないのは仕方ない、それは仕方ないが、せめて、フォームをしっかり維持せよ、ということだ。フォームさえしっかりしていればいつか挽回できる。「きざめー、きざめー」と中村獅童のような下士官(ドイツのUボートであるが日本人の獅童でも可)が兵を叱咤する。

「半速前進」「半速後退」は信号待ちのときなど発せられる。横断歩道の手前で、ちょっと前に出たり、少し下がるときなど立ち位置の微調整に使う。

「潜航」とは帽子を深くかぶり直すこと。「急速潜航」となると、手のあいた乗組員は艦首に突進だ。潜るためのオモリになる。急ぐあまりベッドから転げ落ちる乗組員もいる。「浮上」の際は帽子を浅くかぶり直す。ハッチから入ってくる空気が新鮮だ。

 高速下がメーンではあるが、遊歩道が整備された公園や、ため池沿いの直線の道など、面白そうな道があれば寄っていく。新しい景色と出合える道は、マンネリになりがちなウォーキングに〝喝〟を入れてくれる。道にはさらに分かれ道がある。私は少しでも遠回りの方を選ぶ。

 少年の頃に読んだ漫画『巨人の星』に、主人公・星飛雄馬の父一徹が、ランニングをする飛雄馬少年を待ち構える場面がある。近道を走った飛雄馬を一徹は殴り、「今後、近道を選ぶなら、一徹の子ではないと思え」と言うのである。分かれ道のたび、私は一徹を思い浮かべる。一徹の子でもないのに、近道を忌避する私がいる。漫画の中の話なのに、なぜ? と思わないでもないが、これが自分だと思うしかない。

「内燃機関」という言葉があるが、歩きに熱を帯びたときの私は自分が「内燃」そのものになってしまった気がする。覚醒、衝突、攪拌……。お祭りのように細胞が騒いでいる。全速前進。「ターララララ♪ターララララー🎵」という『Uボート』のテーマがアタマの中で流れはじめている。私は無敵だ。と、ウッカリ悦に入っていると痛い目にあう。

 たとえば、こんなことがある。

 前方数十メートル。スマホを見ながら歩く中年の男、発見。歩くときぐらいスマホと縁を切れよ、と内心つぶやきながら、私は抜きにかかる。全速前進、アレレ? 追いつかない。スマホ男は依然、スマホを見ながらノンビリ歩いている。差は縮まらない。スマホ男に全速前進の私は太刀打ちできない。私の全速歩行はスマホ男のノンビリ歩きに及ばない。

 今度は別の男性だ。髪は白く、片手にペットボトル。七〇歳くらい。信号待ちをしている。彼に数メートルと迫った段階で信号が青に変わる。男性が歩きだす。道路二本と新幹線の高架下をまたぐ横断歩道、三〇メートルはあろうか。横断歩道を渡り終えるまでに男性を抜くぞと決めた。しかし、追いつかない。

 私の歩行がふるわないのは、年齢相応ということがあろう。人との比較で自分のトシを思い出す。気がつけば私は六〇代半ばなのだ。

 お尻ふりふり歩いても、ウォーキング界の平均進行速度より下なのかもしれない。全速? 笑わせる。謙虚になれ。自分が速いとは夢にも思わないことだ。そもそも「抜く」とか「差を縮める」とか競争のようなものをウォーキングにもちこむことが恥ずかしい。無心に歩こう。ヨーソロー。

 むろんいつもこのような潜水艦ごっこをやっているわけではない。ウォーキング・Uボートはあくまでの興に乗った場合の脳内エンターテインメントである。

◇ウンチの思い出

 私が何ごとかなすとき、私は意思をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。また人が何ごとかをなすのを見ると、私はその人が意思をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。しかし、「自分で」がいったい何を指しているのかを決定するのは容易ではないし、そこで想定されているような「意思」を行為の源泉と考えるのも難しい」(國分功一郎『中動態の世界 意思と責任の考古学』)

 朝が来た。ウォーキングに出かけよう。しかし、自分を促すものがないと、なかなか動けない。促すもの、それは新聞で朝読んだ禁欲主義者のコメントかもしれないし、テレビにチラと映ったアスリートのしなやかな動きから受けた刺激かもしれない。何年か前に読んだ村上春樹のジョギングの話に鼓舞された可能性もある。私の心身を動かすものが何かあるはずで、時間が来たからといってサッと出られるものではない。

 二〇二五年秋の初めにアマゾンで購入したサウナ・スーツ(ジャージと外見は変わらない)のおかげでウォーキングが楽しくなった。私のウォーキングには体重を減らすという目的があるので、汗が大量に出るのはありがたい。

 とにかく汗の出方が尋常でない。消防士の消火作業衣を思わせる熱を封じ込める銀色の素材がサウナ・スーツの内側をおおっている。全身をラップで包むようなものである。インターバル歩行を盛り込んだ三時間のウォーキングを終える。長袖の肌着、その上の長袖のシャツ、パンツまで、脱水前の洗濯物なみに重くなる。

 ウォーキングが佳境に入る。上半身だけでなく下半身も「内燃」化したからだから汗が噴き出る。太ももの内側を汗がツーと伝う感触。なつかしい。

 昔の小学生男子は学校でウンチをしなかった。むろん学校にはトイレがある。小便はしても大便はしなかった。個室に入ることはなかった。なぜだと聞かれても、そうだった。田舎の学校の帰り道は長いのだ。便意を抑えられず、溶岩のような熱いものが太ももを伝ってくる。

「昔の男子小学生は学校でウンチをしなかった」

 ジイジがデイケアを気に入っていることは既に述べた。ジイジが通うデイケア施設は町社会福祉協議会の運営。受け入れは平日だけである。私は土曜も受け入れてくれるデイケア施設を探した。クルマで約二〇分の距離にある私立の施設をケアマネの南さんが見つけてくれた。その見学にジイジとともに向かったときのことだ。

 クルマは昔の通学路を通った。薬局、呉服店、鍛冶屋の跡……。なつかしい道の様子をみていると、「ひりかついだ」記憶がよみがえった。

「昔の男子小学生は学校でウンチをしなかったなあ」と私は声に出した。すると同乗の私立施設の女性スタッフが、

「女子もしませんでした」と言ったので、

「えっ」と思った。

「時間がかかるとバレちゃうんです。女子も学校でウンチはしませんでした」

 三〇代と思われる若い女性である。そうなのか。パッとできそうな気もするが、その辺は追及しない。

 私立施設は民家を改造した家庭的な雰囲気のところだった。同乗の女性スタッフは偶然、ジイジの郵便局時代の同僚の娘さんであった。早く亡くなった同僚はジイジの記憶にも刻まれていた。

「ユウジくんの娘さんか!」とジイジが驚きの声をあげた。

◇もう一度やり直す

 それだけでもびっくりなのだが、もうひとつ驚きがあった。六〇歳過ぎの女性スタッフ(看護師)がジイジの妹、多恵子叔母さんに背格好も顔も声もそっくりなのだ。ジイジは知らん顔だが、ジイジは感情を封印するクセがある。頃合いをみて、「多恵子オバちゃんに似とると思わん?」と聞くと、「似とる」と即座に答えた。「よー似とるわ」と相好を崩すのだ。

 ジイジは五人きょうだいの上から二番目の長男。多恵子は末っ子の三女。ジイジと多恵子はひとまわり、一二歳離れている。多恵子は二〇二三年に七九歳で亡くなった。

 多恵子叔母さんは地元の高校卒業後、兵庫県に就職した。そこで電気工の男性と結婚、ふたりの子供に恵まれた。同い年のご主人と還暦を過ぎたのを機に生まれ故郷に戻ってきた。ジイジが所有する畑のひとつに家を建てた。田畑を宅地に替えるのは難しいと聞いているが、吉野川に向けて下る斜面にとにかく家は建った。

 そこで静かに晩年を過ごすはずだったが、思わぬことが起こる。多恵子叔母さん夫妻は村八分に遭ってしまったのだ。その時期、私は帰省をほとんどしなかったので詳しいことは分からない。徳島県阿南市に住む叔父(母の弟)に聞くと、

「仕切ろうとして、失敗したらしいよ」という。多恵子さんのご主人は村おこしに一役買おうとつい張り切ったらしい。それが万事保守的な村人の癇に障った。ジイジも糾弾する側に回った。ジイジは怖かったのだ。故郷を敵に回してしまうことが。

「あのアホーが」と多恵子夫妻を罵倒するのを聞いたこともある。村人の歓心を得ようと必要以上に多恵子夫妻に攻撃的になったようだ。ご主人は七〇歳頃に亡くなった。多恵子叔母さんはひとりになった。

 それともうひとつ。必要以上といえば、ジイジは必要以上に妻(私の母)の機嫌を損じまいとした。妻以外の女性を必要以上に遠ざけた。妻死去後も、いや死去後はその傾向はエスカレートし、実の妹の多恵子すら遠ざけた。つらくあたった。多恵子もジイジを避けるようになる。事情を何も知らぬ人たちは「高齢のきょうだい同士、近くに住んでいれば、お互いに助け合っていいですね」などと言うのだが、冷え切ってこじれまくった関係は修復不可能であった。そのうち多恵子が孤独死した。葬儀は兵庫県で営まれた。ジイジは呼ばれなかった。

 その多恵子叔母さんにデイケアのスタッフはそっくりなのだ。「コウジくん」と私のことを呼ぶのにも驚いた。多恵子叔母さんは私のことを「コウジくん」と呼んでいた。ケアマネはじめ介護関係者は私のことを通常、「息子さん」と呼ぶ。「コウジくん」とは、まるで多恵子叔母さんから引き継ぎがあったかのようである。

 ジイジが発熱したとき、救急外来に連れて行ってくれて、勤務時間外まで付き添ってくれたのもこの女性である。ジイジは多恵子そっくりのスタッフが気に入った。彼女の方でもジイジを気にかけてくれて、送迎の際も自宅にあがりこんであれこれ世話をやいてくれる。ジイジは、関係がこじれたまま死なせてしまった妹ともう一度やり直すつもりなのかもしれない。ウォーキングの話からずいぶん脱線してしまった。

 ジイジの入院の話に戻ろう。

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