◇エノキのおっさん

「ワシの運転免許証はのう、いったい、いつ戻ってくるんかのう?」

「……」

「免許がないと不便じゃ」

「健康を完全に取り戻してからだろうね」

「タクシーなんてワシャ乗らんぞ。免許がなかっても、ちょっとくらい乗っても(警察には)分からんのじゃ」

「分かるよ。すぐ捕まるよ。新聞に出て、積み上げてきたものが水の泡」

「ほうか」

 平日午後の徳島の道はすいていた。

 ジイジは助手席で心地よげに目を閉じる。

 私はジイジを時々横目で見る。狂気めいたオーラが消え、憑きものが落ちたかのようにサッパリしている。振動に揺り起こされるたび、左官か何かの職人が一仕事終えたかのように、もっともらしい顔で窓の外に目をやる。

 道の駅のトイレ休憩のときジイジは自販機で買ったパインジュースをうまそうに飲んだ。転ばないように気をつけながら、クルマに戻る。家が近づくにつれ、見慣れた地域の景色に「おお」と喜びの声をもらす。そのようにしてサッパリと円満に帰宅したのだったが、ジイジのアタマの中はぜんぜんサッパリしていなかった。

「エノキのおっさんとその嫁さんはどうした?」と家についたとたん、言い始めた。

 エノキのおっさん? いきなりの新キャラクター登場である。いつか述べた通り、ジイジにとって、「家に帰る」ということは、自分の親やきょうだいのいるなつかしい家に帰るということなのだ。ということは、「エノキのおっさん」とはジイジの親が健在のときの知り合いなのであろうか。それともジイジの年長の友人か。いずれにしても私のぜんぜん知らないヒトである。とっくに故人であろう。

 訝しがる私にジイジが言う。

「きょうワシは退院したんじゃ。そこまでは分かるな? エノキのおっさんとその嫁さんを、大阪で乗せたぞ。荷物をワシがうしろに積んだんじゃ。まちがえるはずがあるまい。それと、ワシのケアマネの人は、名前はなんだっかな? そうそう南さん。南さんも梅田におった。入院でいかにワシが難儀したか南さんに話した。点滴の跡まで見せた。それはまちがいない事実だろう?」と念押しをしてくる。ケアマネの南さんまで出てきた。梅田におった? ありえん。そんなバカなーという感じである。

「徳島市の阿波白鷺病院を退院してから、クルマに乗って、そのまま帰ってきただろう? だれにも会っていない。大阪なんて行ってない。だいたい海を越えて大阪まで何時間かかるんだ? エノキのおっさんってダレだ!」と私は極力冷静になろうとしていた。

「陽が昇って一日が始まる。陽が沈んで一日が終わる。エノキのおっさんと一緒にワシが帰ってきたことは、それと同じくらい厳然たる事実だ。田んぼでコイを育てるのがいかに難しいか、親しく意見を交わしながら帰ってきたのだ」

「……」

「ワシは事実を言っておるのだ。大阪を出発するとき、ずいぶん探したが、もうあきらめて発とうかというとき、エノキのおっさんがカバンを下げて走ってくるのをワシが見つけた。おっさんの嫁さんも乗せて、合計四人で帰ってきたのだ。道々、四人で税金やボーナスの話をしながら帰ったではないか。道の駅でジュースも飲んだ。それが事実だ。ワシは事実を語っているのだ」

「……」

 いつになくジイジが強く主張する。帰りの道沿いに「コイの養殖」という看板があった気がする。田んぼでコイ云々はその看板が引き起こした幻の話題か。道の途中でタクシーに乗り込む家族連れも見た。ジイジも見たに違いなく、そのシーンが、エノキのおっさんとその妻をクルマに乗せる幻覚につながったのか。阿波白鷺病院の事務の人が「ケアマネさんにお渡しください」と引き継ぎ書を私に渡したのもジイジは見ていたに違いなく、ケアマネという言葉に誘発され、幻の南さんが梅田にあらわれたのだろう。

 晩飯の心配をしなければならない。ジイジのヨタ話に付き合っているほどヒマでないのだ。お湯をわかすなど食事の支度を始めると、「エノキのおっさんはたしかに来た。いったいどこへ行った?」とまつわりついてくる。無視もできない。

「エノキのおっさんはどこへも行っとらん。そもそも来とらんだろ。帰ってきたのはオヤジとオレだ。クルマにはふたりしか乗っていなかった。覚えていないのか?」と私が言うと、「ワシは事実を言っとるのだ。エノキのおっさんとその嫁さんはたしかにクルマに乗っとった。四人で帰った。それが事実だ」とジイジが言う。

 私は返事をしなかった。返事をしないのが返事だ。ジイジは「エノキ」「嫁さん」「事実」と不満げにつぶやいている。たしかにジイジはエノキのおっさんと一緒に帰ってきたのだろう。だがそれはジイジのアタマの中の世界での話だ。ジイジにとっては事実なのだが、私にしてみれば、妄想としか言いようがない。エノキのおっさんって言われても、話の合わせようがない。お互い一歩も退かないので、なんだか険悪な感じになってきた。

 午後五時、思わぬ援軍があらわれた。「こんにちわー」。ケアマネの南さんが来てくれたのだ。いしだあゆみ似のスリムな南さんの登場で荒天に陽がさしたようだ。

「お元気そうで、よかった」と言う南さん。その声の明るい調子に救われる思いがする。第三者の登場でジイジのアタマの中も組み換えがおこなわれるのではないか、それを期待したい。

「あんた、大阪におったのぉ?」と控え目にジイジが聞く。私の顔色で状況を察したらしい、南さんは「大阪にはいません」とそっけなく言う。感情を排して事実のみを伝えるというトーンである。

「は? 大阪におっただろうがい?」とジイジ。

「いません。ずっと西阿波の事務所にいました」と南さん。

ジイジの妄想劇に出てくる当事者の言葉だけに、効き目があった。「うーん」と唸ってジイジは黙り込んだ。チラと見ると、苦悩の銅像のように固まっている。南さんは素知らぬ顔で阿波白鷺病院からのケアマネへの引き継ぎ書に目を通している。ジイジはトイレに行った。「どこへ行った? エノキのおっさん……」とつぶやきながら。

◇はじめての徘徊

 まぁ、しかし、これで終わりではなかったのである。

 南さんが帰ったあと、ジイジが台所で着替えをした。パンツひとつになっている。これは初めてのことだ。いままではジイジのベッドのある部屋で着替えていたはずである。

 食事をすませ、入浴後の、午後八時頃、二階に洗濯物を干した私は、一階にジイジがいないのに気がついた。ジイジのサンダルがない。前庭と後ろの畑を探したが、いない。ほんの五分くらいのあいだに消えてしまった。

 自慢ではないが、家の周辺は夜になると、平安時代もかくやとばかり、真っ暗になる。街燈がない。出かけたとしても、足元が不如意である。心臓の手術をし、誤嚥し、点滴をし、やっと回復したと思ったら、徘徊か……。下の畑はあまりにも暗すぎて、行っていないだろう。行くとしたら上の畑だ。

 ドキドキしながら私は、家の周辺を探した。こんな穴ぼこに突然おちこむなんて。日常に深淵が口をあけているってホントだなあ……。一寸先は闇だなあ……。昔から知っている近所のおじさん、おばさんの顔が次々に思い浮かぶ。これらの人たちに話した方がいいだろうか。相談しに行った方がいいだろうか。それともダイレクトに警察か……。もっと気をつければよかった……。後悔先に立たずとはこのことである。

 三〇分くらい探した。上の畑の農業倉庫に灯かりがついた。ジイジがいた。

 懐中電灯もなしで、徒歩一〇分くらいの旧友の家のあたり(途中に急坂あり)まで行ったらしい。真っ暗なのによく転倒しなかった。自宅にしまっているカバンなどの品をわざわざ農業倉庫に持ってきて、雑草運搬用の袋に押し込もうとしている。目がトロンとし、口許が弛緩、せん妄のときの顔だ。こういうときは常識的なことを発言した方がいいと判断した私は、

「出かけるなら、出かけると言ってよ」と言った。

「そうか、悪かった」とジイジは言う。

 その返事が普通っぽかったので少し安心した。

 その後、落ち着いてから考えてみると、ジイジの行動も分かるような気がするのだ。

 六日間も病室に隔離され、せん妄の嵐に翻弄され、「死」をも覚悟する寝た切りの状態にジイジは陥った。冥府魔道に迷い込んだかのように自分を見失う体験をしたジイジは、自分が知っている故郷を歩いて、自分が何者か確認したかったのではないか? 

 このまま何もしないでいたら、魔界に引きずりこまれ、魔物に喰われるか同化するかして、自分という存在が揺らいてしまう。自分探しのつもりで、夜の道に出たのであろう。

 とにかくやれやれである。夜も深まっているのにジイジは外が気になる様子で、「もうトシマサさんは寝とるぞ」と向かいの家の状況を報告する。そうだろ、もうみんな寝ているんだ。わが家も、もう寝る時間である。ふとんに入ってもジイジの徘徊がアタマからはなれない。「そうか、故郷かぁ。精神史の旅という感じだなあ……。ジイジなりにタイヘンだったなあ」などと考え、ウトウトし始めた私を、ふすまを開けて入ってきたジイジが揺り起こす。

「上の畑の、柿の木の状態を見てこよう。手入れが大事だからな」

 私はジイジを柱時計の下に連れて行き、

「夜の一二時だ」と言うと、「夜なのか」と驚いている。

「朝になったら、柿の木を見に行こう。朝まで待ってもおそくない」と言うと、「そうか」と納得してくれた。正確にいうと、「納得したフリ」である。ジイジ自身にも抑えがきかないもうひとりのジイジが話しているのである。事態を早く収拾したいジイジもいるのだ。

 ジイジはギンギンに目がさえている。躁の波は容易に消えてゆかない。午前二時半、ジイジがソファでブツブツ言っている。母の遺影に話しかけているのだが、独り言のようでもある。私はムックリ起きた。ジイジに「時計見て」と言うと、「エヘヘ」と笑う。

 午前三時、セキをしている。潜水艦のソナー担当者のように私は耳を澄ます。声の聞こえてくる感じだと、寝室からのようである。ベッドに入ってくれたのなら安心だ。

 朝の五時、ジイジが外に出た。

 柿の木のところにひとりで行った模様である。

 すぐ帰ってきたジイジの手には朝刊。

 これで平常に復してくれるだろうか。

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