◇ジイジの弟
ジイジの入院などに気を取られているあいだ、世間のことは忘れていた。ウンチで騒いでいるあいだにも四季は移ろい、森羅万象は変化しつづけている。
突然、なんの前触れもなしに、過去がアタマをもたげ、ワタシを忘れるなと詰め寄ってくることがある。地震や台風のように気がついたらそこにいて私たちを翻弄することになる。
二〇二五年の秋のある朝、徳島のジイジから福岡の私に電話があった。
「おまえとのー、話したいという人がのぉ、おるんじゃ」
「その人はどこの人? ウチに来るって言っているの?」
「いま来とる」
とジイジは言う。時計を見ると朝の九時である。こんな早朝に訪問者?
私は徳島新聞にエッセイを書くことがある。それを読んだ人が時々ジイジに「息子さん、書いとったな」と声をかけることがある。このときもそんなことかと思った。
「もしもし、はじめまして、私は……」
ジイジに代わって電話に出た男性は、隣の自治体の建設管理課長と名乗った。
意表を突かれた私に課長が突然の訪問の理由を話した。それによると--。
ジイジの弟一家が住んだ一軒家が空き家になって久しく、老朽化がいちじるしい。建物が崩壊しはじめており、近隣の住民から役所に苦情が来ている。弟は故人であり、空き家はその妻の所有となっている。取り壊すにも所有者の許可がいる。費用の相談もしたい。「連絡をとりたい」旨の内容証明郵便を送ってもなしのツブテである。困惑した役所は、妻の義兄であるジイジが健在なのを知り、訪ねてきた、というわけなのだった。
ジイジとしても、見知らぬ訪問者からあれこれ聞かれても、話の趣旨も分からず、答えようがない。そこで、息子に丸投げしたのである。
一週間後、徳島に行った私は、ジイジの家で改めて課長と面会した。取り壊すに際し、その費用の一部でもジイジに負担してほしい、という話かと思って私は身構えていたが、そうではないらしい。ジイジが弟の妻と連絡をとれる関係であるならば、役所と妻を橋渡ししてもらえないかというのであった。
「弟一家はおったが、ワシは知らん。どんな事情があって空き家になったか、知らん。覚えとらん。その家には行ったことがない。まったくのゼロじゃ。ホンマじゃ。シロじゃ。連絡先? どうなったか分からんのだもん、知らん」とジイジは困惑している。
取り壊しには二〇〇万円かかる。空き家の中の状態次第ではもっとかかる。役所からは八〇万円の補助金がでる。弟の妻は大阪在住である。職員が訪ねていって妻と話をしたいが、アポなしに行っても、面会を拒絶される可能性がある。
ジイジは五人きょうだい。長男のジイジの下に二男の博志がいる。博志が今回の弟。やせ型のジイジとちがって博志叔父さんは恰幅のいい人であった。博志は分家して隣町(現在は市)に居を構えた。子供ふたりに恵まれたが、なかなか子供ができなかった時期、博志叔父さんは私に「ワシがじいさんになったら、コウジ、おまえが面倒みてくれ。なあ、みてくれよ」とよく言ったものだ。
博志の妻の光子は社交的で一族の中で一番はなやかな人であった。「中卒が短大卒をもらった」と親戚の集まりでだれかがヒソヒソ話すのを聞いたことがある。夫婦喧嘩は熾烈であった。割れた茶わんやコップが散乱する家にジイジが仲裁に行ったことがある。ぶぜんとしてあぐらを組む博志。座り込んで涙の顔を押さえたままの光子。大人の本気の喧嘩を私はまのあたりにした。
博志は四〇代の若さで、消化器系のがんで亡くなった。スエコは「覚えとる。あのがっちりした人がものすごく痩せた」と言う。亡くなる前後、病状を心配したジイジが「博志のやつ、なにも食えないらしい。ワシも食欲がない」と母に言っているのを私は覚えている。
大きな私立病院に、博志は運転手として、光子は事務職として勤めていた。博志叔父さんは少年の私に「医者になれ。医者はいいぞ。労働者は最低じゃ」とよく言った。
病院の経営者と光子とは折り合いがわるかったようだ。博志が亡くなってすぐ、光子は幹部事務職からヒラの掃除係へと配置換えとなった。いまならいかにワンマン経営者でもそのような横暴は許されまいが、一九八〇年代はまだそうでもなかったようだ。
光子と子供ふたりは、一軒家も家財道具もそのままにして、夜逃げのように徳島を出ていった。知人にも親戚にも何も言わなかったので、本当の理由は分からない。不当な職場に移されたのに、職場の仲間も親戚もだれも力になってくれようとしない。そんな人たちとはこちらからオサラバしてやる、というようなことだろうか。
以来四〇年近く、ジイジも私も光子と音信不通だった。だから役所から「連絡をとりたい。協力してほしい」と言われても、どうしようもないのである。大阪府在住というのも初めて知った。
光子が徳島の役所を困らせたのは今回の空き家の件が初めてではなかった。固定資産税の滞納でトラブルを起こしている。そのときは連絡がとれて、光子から役所に「今後、やりとりは書面でしてほしい」のとの申し入れがあったという。税金は無事納めた。
しかし、今回の空き家の件では光子は役所からの配達証明を無視しつづけている。光子の年齢をはっきりと知らなかったのだが、ジイジより二歳下だ。だとすると九一歳の高齢ということになる。認知症が懸念されるし、どこか施設に入居した可能性もある。払えないなら年金を差し押さえられるのだろうか。子供が払うのだろうか。
役所が博志の兄であるジイジの存在を知ったのは、戸籍や住民票を調べたからだと私は思っていたが、課長によると、空き家の近隣の住民で、ジイジの名をはっきりと口にしている人がいるらしい。博志の家を訪れるジイジの姿は近隣の住民の記憶にはっきりと刻まれていたのだった。
「連絡先も分からないということであれば、それはそれでいいのです。私どもとしてはご親戚ということで、連絡をとっておられるなら、仲介していただけないかという思いがあったものですから。事情は分かりました」と課長は言う。金銭的負担を求めるつもりはない、安心しろ、とジイジと私に暗に言ったのであろう。
課長がウチを訪問する前から私も、博志叔父さんのことを思い出すことがあった。ジイジは博志の墓参りにも行かない。墓の場所は「知らない」という。そんなことはない。ジイジは行ったことがあるはずだ。探さねばならない。
知らんフリをしていたとしても、若くして死んだ弟への哀惜の念は、ジイジはもちつづけていたであろう。亡き弟の家族が突然いなくなるという事態に遭遇し、その異常さから、世間体を重視するジイジは弟もその家族のことも忘れてしまおうと考えたのか。
ジイジをクルマの助手席に乗せて買い物などに行く際、「博志のおっちゃん、死んでからずいぶんたつね」と振ってみても、ジイジは顔を強張らせて黙っている。「聞いてはいけなかったかな」と反省するのだが、その沈黙の深さから、ジイジも心の奥底では弟のことを悔恨の塊としていつまでも抱きつづけているのが分かるのである。
課長と面会時はひょうひょうとしていたジイジだが、面会して話した中身は忘れてしまったかというと概略は覚えているようだ。不意に「裁判に呼ばれたりせんか」と私に聞くことがある。弟の空き家が経済的な災禍としてふりかかってこないか心配しているのだ。そっちかよー、弟の妻のことは気にならないのかよー、と私は思うが、運命が暗転した親戚を冷酷に忘れようとしたことにかんしては私も同罪である。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
夏目漱石『道草』の有名な一節が思い浮かぶ。漱石は幼くして養子に出され、養父母を実の親と思って育った。『道草』では、主人公(漱石)が、年老いたかつての養父母にカネを要求され、カネは出さないことに片付いた経緯が記される。「すっかり片付いちゃった」と安堵する妻に漱石は「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない……」とシビアに言い渡すのだ。
今回の空き家問題のことでいうと、「すっかり片付いちゃった」というより、「すっかり忘れていた」空き家の存在がクローズアップされ、ジイジも私も「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と痛感することになった。片付かないのは空き家だけだろうか。ジイジも私も生きてきた時間の容量分、片付かないものがあるような気がする。
◇草刈りの愉楽
片付かないもの……。
田畑を片付けねばならない。
「コウジ君、あんたんとこの裏庭の、植木がちょっと道に出てるんや。切ってもいいかな? 了解をとっとかんといかんと思ってな」
「ああ、どうぞ切ってください。お邪魔になってすみません」
というやりとりが発端である。私に「切ってもいいかな」と了解を求めてきたのは近所のおじさんである。わが田舎では私はいつまでも「コウジ君」なのだ。
「切ってもいいかな」というのは「切ってくれ」ということだ。おじさんに切られる前に切ったのは言うまでもない。
狭い坂を登るクルマの運転手の目になってながめてみると、たしかにウチの植木が曲がり角で邪魔になっている。SUVのような大きなクルマでは車体に枝が引っかかってしまう心配がある。ウカツであった。
道にはみ出した枝を切りながら、他の畑は大丈夫だろうか、気になった。田畑の保全・管理は当たり前のようにジイジに委ねてきた。委ねてきた、というより、自然になんとかなるものと思ってきた。田畑の状態がどうなっているかなど考えたこともなかった。
ジイジは二〇二四年くらいから「田畑からワシはもう引退させてもらう。ご先祖さまに申し訳ない」と独り言をよく言っていた。「そうか」と私は聞き流していたが、私に聞かせるという意味もあったろう。
わが家には先祖代々の田畑がある。町内に四カ所ある。飛び地なのは、先祖は元々小作人であり、農地解放かなにか国の施策で土地を得たのだろうか。町の資料によるとジイジが所有する田畑は以下の通りだ。「切っていいかな」という打診があったのはAの畑だ。
A 水田面積64平方㍍(家庭菜園)
B水田面積625平方㍍(自己保全管理)
C水田面積84平方㍍(家庭菜園)
D水田面積224平方㍍(家庭菜園)
A~Dの合計 水稲作付面積目安560平方㍍
ジイジは郵便局に勤めながら農業をした。私が高校生の頃までウチはコメをつくっていたのだ。収穫となると親戚の応援などでにぎわった。「コメを買ったことがない」と放言した大臣がいたが、わが家もコメは買ったことがなかった。地域の人口減とともに、わが家をふくむ多くの家がコメづくりをやめた。
コメから離れたジイジは家庭菜園と称してトマトやダイコンなどをつくった。つくってもカネにはならない。田畑があるから仕方なくつくる、という感じである。ウチだけではない。他の家も田畑事情は大同小異である。
田畑は放っておけばおとなしくしてくれるというものではない。雑草や雑木が生える。田畑に携わる人は草刈りに多くの時間と労力をさかざるを得ないという現実がある。田畑は、マメに手入れしなければ暴走してしまう生きものなのだ。
二〇二五年秋、一番大きなBの畑(625平方㍍)をながめてみると、大人の背丈ほどもある雑草や灌木がひしめきあうジャングルさながらであった。保全・管理を放棄したらこうなるぞ、という見本のようなものであった。応急措置として道にはみでている稲よりも高い雑草をカットした。それだけでも半日かかる。
丈の高い草をカットした経験のある人には分かってもらえるだろうが、草というのは前後左右の草と入り混じっていて、根元をたどろうとすればするほど、切っても切っても草が減っていかない。パンチを繰り出しても相手のからだの柔らかさに吸収されてしまう格闘技のようなものだ。
混合油を燃料にした大音量の草刈り機をジイジは所有していたが、二〇二四年後半から「エンジンがかからん」というようになった。ひもを引っ張って起動させるタイプである。老齢で引っ張る力が足りないのだろうか。私はもっと軽量の、充電式の草刈り機が扱いやすいと思い、一万円台の通販の手ごろなヤツを買っておいた。
アメリカン・レーキ(熊手)も買った。刈った草や枯れ葉、枝木類などをかきあつめるのに便利と思ったのである。スダチの木にからみつく蔓を除去するのに大いに役にたった。うっそうたるたたずまいで近づき難かった木も、蔓などがなくなってしまうと、木の輪郭がわかるようになる。そうなるとなんとなく攻略できそうな気もするのだ。
Bの畑の隣には、農道をはさんで、土方の事務所みたいなプレハブの建物がある。そこに早朝、作業員が集まり、野良猫にエサをやったり、牛乳飲んだり、思い思いのときを過ごしたのち、クルマに分乗して各現場に出かけて行く。そこの親方みたいな人から「頑張っとるのー」と私はよく声をかけられた。「ぼちぼちやります」と私は応える。見知らぬ人から話かけられるとうれしいものだ。
「頑張っとるのー」と声をかけてくれた親方も、改めて田畑をながめ渡し、「しかし、これは……」と絶句する。それほどのジャングルだったのだ。
私のやり方は極めてシンプルだ。レーキでとれるだけとる。近づきがたい藪であっても最初にレーキを入れておくと、切る必要のある部分が見えてくる。艦砲射撃し、ある程度の安全を確保したのち、歩兵が上陸するようなものだ。
各ポイントを仕切っている硬い雑木を草刈りガマで刈ってゆく。獰猛系の雑木が減り、セイタカアワダチソウのようなやわらかめの植生が姿をあらわにした段階で、草刈り機で刈ってゆく。根元から刈らないでいい。真ん中へんでも上の方だけでも、とにかく刈って、視界を広げてゆくことが肝要だ。視界が広がるたび、自分内の士気も上がる。刈り落としたものをレーキで集める。生き残りの木や草を草刈り機で刈る。集める。刈る。繰り返す。地面が見えてくる。そうなったらしめたものだ。切り株を取り壊してゆく。
畑がだんだん平らに整地されてゆくことで、充実感や達成感を得られ、私はじゅうぶん満足した。ところが、思いがけない恵みがあった。ウォーキングに匹敵するような発汗効果が畑仕事にはあるということだ。
畑仕事でも私は、博多から持参したサウナ・スーツを着る。博多ではウォーキング・Uボートと称して、歩きに歩く私だが、徳島に来た折は畑仕事に精を出す。レーキで草を集めたりすると、ふだん使わない筋肉を使う。レーキを振り下ろし、上半身と下半身を連動させて引く。踏ん張らないと引けない。腰にこたえる。全身運動といってよい。
博多で二週間ウォーキングをして、徳島で二週間畑仕事をする。期せずしてバランスがとれている。ウォーキングの連続では足腰を痛めてしまう。畑仕事だけでは腰をやられる。
徳島に行けば、ジイジの見守り、介護をおこなうとともに、運動もできる。これは私には予想外の喜びであった。ウォーキングをしていたからこそ、畑仕事にも喜びを見い出すことができたのだ。うまいことつながったものだ。
一週間で私は比較的広いBの畑を制圧した。刈り落とした草や木の山がいくつかできた。讃岐の七富士にならい、私は心中ひそかに〝敷地(ジイジの集落名)の七富士〟と命名した。
「やりとげたなー」
土方の親方から声をかけてもらった。からだをつかった仕事をする人同士しか分からない、大変さを理解した上での言葉のひびきがあった。
「やりましたけど、すぐにまた生えてきます」と謙遜して私は言った。
「それはそうかもしれんが、ここまで平らにしたら、しばらくは大丈夫よ」と親方は言う。
気をよくした私は足が弱ったジイジをクルマに乗せてBの畑まで連れていった。遠回りすればクルマの道がつながっているのだ。
「ホー」とジイジは感嘆した。当初はジイジもジャングルをみて攻略を絶望視していたのだ。
「うーん、これは……。まぁ、しかし、若いからできるんじゃ。ワシみたいなトシヨリではもう役に立たん。とてもこんなにはできん」と言う。
「若い」というのはジイジに比べての話である。にがい顔にみえるのは、息子とはいえライバル心があるのであろう。自分ができないことを他の者がやってしまえば面白くない。
私はその後の日々も、意気揚々と草刈り機とレーキを抱えて畑と家を行き来した。地元衆の私を見る目が微妙に変わったのを私は感じていた。荒々しく繁っていた草木と雑木を、まぁ大雑把とはいえ、一人で刈り取ったのである。
「オーイ、コウちゃん」
と家の向かいの徹也さんが私を呼ぶ。七〇代後半。わが家の二倍くらいの田畑を所有し、コメや野菜などをつくっている。ガソリンスタンドに勤めながらの兼業農家である。
「あんな畑を、よくきれいにしたな。正直、無理やと思とったぞ。で、草の山、どうする?」
徹也さんはドラム缶で自家用の焼却炉をつくっている。草刈りすれば刈った草がのこる。七富士の処置はあらたな課題である。燃やすのが徹也さんの意にかなっているだろう。
「少しずつ燃やします」
「そうか。燃やすか。そうじゃな、少しずつ、燃やしたほうがええ」
別の日、徹也さんの向かいの利正さんが私を呼び止める。農林高校の農業講師を長年務めた人だ。ジイジの五歳下。九〇歳近いが、軽トラを乗り回して田畑の保全に余念がない。奥さんが亡くなってからは軽トラで毎日の墓参りを欠かさない。
「一人でコツコツやったな。ワシは危ぶんでおったけどなー、まあ、がんばった。その結果、なかなかの草の山ができたなー、ほなけんどなー、三年くらいしたら、腐って土になるけんのー。作をせんのなら、あのまま腐らせた方がエエワ」と言うのである。
専門家らしい助言である。
「草の山の上からのー、石灰窒素をかけたらいい。たっぷりかけていくんじゃ。草も木も腐って土に還ってしまう。石灰窒素は高価だから消石灰でもいい。たっぷりかけるんじゃ。大丈夫、腐っていく。なくなっていくんよ。ほじゃからのー、刈り取ったもんは燃やさんほうがいいよ」
徹也さんと利正さんと意見が違うのである。農業に従事する人はジイジの集落ではこのふたりくらいだ。ふたりはよく畑のそばの小道で意見を交わし合っている。大半が雑談だが、徹也さんが利正さんに教えてを乞うこともあるようだ。相いれない部分があってもそこは知らんふりをして交際するのであろう。
「柿の木がわが家の庭に伸びています。切ってもいいですか?」
遠慮がちに言うのは、「切ってもいいか」と先に言ったおじさんではなく、別の家の青年である。こんどはDの畑だ。「切ってください。というか、切ります。すみません」と私は物置にしている二階から電動ノコギリをとってきた。
Dの畑の西側では柿の木の枝が隣家のフェンスを越えている。Dの畑の榊の木もフェンスに迫っている。切りにかかる。蔓がノコギリやレーキにからみつくので作業は難渋した。翌日から雨がつづき、年末年始に突入。D畑の作業が二〇二五年の畑仕事の仕事納めとなった。








