◇一月三日

「きょう何日か言ってみて」

「正月の三日」

「おう」

 一時的にではあろうが、アタマはしっかりしている。明るい材料のひとつである。私がリビングを離れるのを待ちかねたように母の遺影に何事か語りかけている。依然食欲なし。朝、口にしたものは、お茶、みかん。バナナを勧めるが、「いまは食べん」ときっぱり言う。

「雪、とってくれ」

「雪? ないよ」

「ある。とってくれ」

 鼻毛が出ているので切ってほしい、とのこと。なぜそれが「雪」なのか不明。白くて雪に見えるからか。白い鼻毛を切ってやる。眉毛も長いのを切る。

 箱根駅伝をテレビで見ている。ジイジが言う。

「ワシの足と選手の足を替えてもらうことはできるかな?」

「足は替えられんよ」

「替えられんか」

「走っている人たちは二〇歳くらいの元気な人ばかり。毎日コツコツ練習している。晴れ舞台の箱根で、ひとりで二〇キロくらい走るんだ」

「そうか。足はのかんのか(外すことはできないのか)?」

「のかん」

「そうか」

 オムツ交換したばかりのジイジがオムツをおろして尻まるだしでソファに座ったのを見て驚愕。「こうやって座れとオマエが言った」「言っていない。座っといて、と言っただけ」。私はソファを拭く。

 本日より定時の食事タイムを随時に切り換える。食べたいときに食べたいものを食べることにする。定時にこだわることはないのだ。

 テレビで三味線など正月芸を披露している。

「営業の技術がちがうのぉ」

 ジイジは身を乗り出して観ている。

 テレビは観るが「チャンネルが分からん」と言う。「ちょっと教えといてくれ」。

 チャンネル3だとNHK、というようなことが理解できない。

「お茶は何番?」と私に訊く。チャンネルの何番かを押すとお茶が出てくる。そんなことはない。

「入浴は何番?」と私に訊く。チャンネルの何番かを押すと入浴ができる。そんなこともない。

 夜になった。ベッドに腰かけたまま動かず。沈思黙考、というより、何をしていいかわからない。何かしたいこともない。動かない、ということに落ち着く。

 横になったジイジにふとんをかける。

「朝、起きたら死んどるかもしれんぞ」と不穏なことをつぶやく。

 食欲不振が気になる。本日は、ミカン、せんべいなど少量を口にしただけ。「こんなことは初めてだ」とジイジがつぶやく。日々、初体験のことがある。老いるのはタイヘンだ。

「オムツがくさっとる」。私の部屋のふすまをがらっと開けてジイジが言う。いま何時だと時計を見る。一月四日午前五時五〇分。オムツが重そうに股間に垂れ下がっている。水分をずいぶん吸い込んでいる。「くさっとる」とはオムツのことを言っている。ため込んだおしっこの発するニオイである。

 ぬがしてみると、オムツだけでなくズボンもズボン下もずっしりと重い。昨夜寝るときに尿五回分吸収できる厚いオムツをパットとともに装着したのだが、五回分吸収でも、一晩過ごすと、オムツはおろか、ズボン下もズボンも濡れてしまう。尿一〇回分吸収できるものを購入することにする。

 九三歳になってもオムツと無縁だったので、このままオムツのお世話にならずにゴールか、と思っていた。オムツはいきなりやってきた。年末の入院で装着したのだが、私は軽く考えていた。外せなくなるとは思いもよらなかった。パンツ→オムツへの転換は大きな分岐点だとあとから思い知ることになる。

 トランクス型パンツをはいていた頃は、それはそれでトイレ通いが大変で、一晩に一〇回くらいはトイレに行った。そうなるとなかなか睡眠時間を確保することができず、朝になるとすっかり疲弊していたジイジである。オムツ装着はジイジには不本意であろうが、オムツと引き換えに安眠を手に入れると思えばいいのだ。

 まだ朝六時前だ。オムツを替えると、ジイジはベッドに戻った。元気なころだといったん起きたならソファに座って新聞を読み始めたものだ。やはり本調子でない。

 午前七時四〇分、ベッドからむっくり起き上がったジイジ。

「ウンコがしとうて、たまらんのじゃ」

 ベッドの脇でオムツをおろそうとする。「わっ」と私は制止し、「こっちやろ」とジイジをトイレに連れてゆく。考える人のような姿勢でしばらく座っていたが、「出そうで出ない」とあきらめる。

「いつ出るんか」「四日もウンコしていないなら、そりゃ、便もたまる。いつか出るよ」と私は言う。「そうか」と納得した様子。自分の状態がよく分からない。私に言われてみて自分の状態を確認、ということの繰り返しだ。

 起きたついでにオムツを交換する。これでしばらくは大丈夫なはずだが、違和感はどうにもならないらしく、右手を尻につっこみ、パットを引き抜く。黒く汚れたパットを持て余して、リビングの食器棚の前に置く。素早く私はパットを片づけながら、「オムツ、ぬがんでな」と念を押す。

 夜、なかなかベッドに横になれず、身をよじりながらジイジは「いかんのう」と言う。排泄の不調は心身の崩壊が近いのを予告するかのようだ。ベッドが低いので年寄りは横になりにくい。これまでは苦もなく横になっていたのだが、排便で混乱し、からだの動かし方も自信がなくなっている。南さんに連絡して手すりをつけてもらわねばならない。介助してマクラをアタマに据えてやる。

 本日食べたものは柿少々、バナナ一本、たこ焼き二分の一個。

 体重は六〇キロ。適正体重保つ。

◇畑を掘る

 一月五日、正月休みがやっと終わった。

 長い夜がやっと明けた、という感じである。土の中にずっとひそんでいて、やっと外に出てきたモグラになった気がする。社会が動きだしてほっとした私がいる。私は丸上医院にジイジを連れて行った。

 レントゲンや血液検査の結果、肺炎の兆候はない。手足のむくみは一応おさまっている。しかし、意外なことに貧血になっている。体内で出血があるのだろうか。

 丸上医師は「心臓への負担がかかり過ぎて、心不全を誘発しないか、懸念しています。利尿剤をつづけるしかない。貧血対策で鉄剤を処方します。黒い便が出ますが、驚かないでください」と言う。

 私は、一二月三一日以来、ジイジがまともな食事をしていないことを話し、「点滴で栄養補給していただけませんか」と頼んだ。

「点滴といっても栄養はほとんどないんですけどね。まあ、ビタミンの補給にはなるのかな」と了承してくれた。

 ジイジは毛布をかけてもらい神妙にしている。年寄りには冷えは大敵なのだ。

 昼はジイジの食欲が盛り返した。肉じゃが、アユの燻製などをガツガツ食べた。丸上の治療が奏功したのかもしれないが、食欲が戻る頃合いなのかもしれない。

 ケアマネの南さんから「食欲がないのなら、バナナジュースなどがいいですよ。とろみのついたのが薬局の介護コーナーで売っていますよ」という助言もあった。

「買い物してくるから、どこにも行かないで家にいて」と念を押して、私は夕方の買い物に出た。食欲が戻ったので、ある程度ボリュームのあるオカズをそろえねばならない。一時間後に帰宅した。すると――。

 ジイジがいない。「どこにも行かないで」と言ったはずだが……。

 家の裏の畑に人の気配がする。

 ジイジがいる。下半身ハダカである。太ももから膝にかけて糞尿で汚れている。

 フリチンのまま、背丈よりも長い棒で、ガシガシ地面を掘っている。

 ウンチが詰まったオムツ、ウンチまみれのズボン、ズボン下、靴下などが足元にころがっている。穴を掘って、それら汚物を埋めてしまおうとしているのは明らかだ。

 オムツのウンチの量がいつになく多い。

 食欲不振と平行して便秘がつづいていた。

 出なかった数日分が一挙に出たものと思われる。

 ウンチはトイレで出たのではなく、トイレ以外のたとえば居間にいるとき、オムツに出て、あふれ出たのだろう。昼間は薄めのオムツでいいと思ったのが私の油断であった。便秘を計算に入れるのを忘れていた。オムツからあふれでた糞尿が、火砕流のように衣類に浸透していく様子を思い浮かべた。

 股間に大量の熱い糞尿を抱えたのでは歩くのも困難だったろう。始末に困ったジイジは、こまかい考えは一切捨てて、関係汚物を丸ごと埋めてしまおうと決めたのだろう。燃えるごみの範疇に入らないプラスチックごみを下の畑に埋めてきたのと同じ発想だ。

 汚物まみれのジイジは懸命に穴を掘るのだが、老人の力はたかが知れている。数センチ程度土が削られた程度である。「まあまあ」と私はジイジを制した。穴掘りはやめてもらう。

 衣類やオムツはとりあえず畑に置いておく。

 下半身ウンチまみれのジイジを家の中に誘導した。ウンチのついた手で台所のテーブルとかガラス戸などを触ろうとするのを、「触らんで!」と声かけしながら風呂場にいざなう。「古いズボンを持ってきてくれ」というジイジに「ウンチを洗ってしまわないとダメだ。お湯をかけるからしばらく我慢して」と言う。「ズボン持ってこい。寒くてたまらん」とジイジは切羽詰まった様子である。

 ウンチはジイジの太ももなどにこびりついていて湯をかけるだけではとれない。私はスポンジタオルをボディシャンプーで泡立て、それでゴシゴシとウンチを削りとっていった。泡が黄色く濁る。自分がどんなふうにウンチにまみれているかイメージできなかったジイジは泡の汚れをみて、「おう、おう」と納得した様子だ。湯を尻にかけ少しずつ洗う。お湯がたまったのを見計らって浴槽にジイジを入れる。ウンチの欠片があちこち浮く。不潔といえば不潔だがやむを得ない。ウンチを洗い流したのを見届けて、バスタオルを二枚使ってジイジを拭く。「寒い、寒い」というジイジに肌着やオムツを着せて黙らせる。

 ジイジのからだの汚れが一段落したなら、次は住居の清掃である。ジイジをソファに座らせ、ジイジが通ったルートのたたみや廊下を拭いた。どんなウンチのカケラも見逃すまいとするが、思わず踏んでしまって、「あっ」と靴下をぬいだりする。

「明日は、朝メシを早くして栄養補給してくれ」とジイジは言う。大量の排便でおなかがスッキリしたからでもあるまいが、食欲不振が一転、食欲がでてきた。いい気なものだと思うが健康改善のきざしでもあるから私は苦笑いするしかない。

 ケアマネの南さんから電話があった。

 明後日の七日、ショートステイを受け入れてくれる老人ホームの見学をすることになった。徳島・祖谷の「住宅式有料老人ホームやまびこ荘」である。この際、あたらしい「予定」はありがたい。目標ができる。なにか「明日」がありそうな気がする。

 明日の六日は久しぶりのデイケア。オムツ装着になったから辞退するつもりだったが、受け入れてくれるとのこと。聞いてみると、オムツ装着者が大半なのだ。オムツなしで通っていたジイジは稀有な存在だったのだ。

 オムツの世話に明け暮れたこの数日がアタマをよぎる。赤ん坊のオムツを替えるのとはわけがちがう。デイケアでオムツをみてもらえるのはありがたい。ジイジはひとりで頑張りすぎた。人に頼らなければだめだ。

 それにしてもフリチンで穴を掘っていたのは笑う。

 大便は大便として大変だが、小便もなかなか大変である。

 家の中の奥の間に私は寝ており、ガラス戸の向こうはトイレへと至る廊下である。一月五日から六日に日付けが変わろうかというころ、ガラス戸の向こうに人影を見た。

 おや、ジイジか。久しぶりだな、おしっこに立つのは。

 オムツをつけるようになってジイジは朝までトイレに行かないことが多い。ジイジが深夜に起きるのは久しぶりなのだ。私はガラス戸の向こうの影をボンヤリしたアタマで見るともなしに見ていた。

 トイレに向かう途中、ジイジは立ち止まったかに見えた。そのままUターンして寝室に戻ってしまったのである。

 えっ、何? いまのは、なんだ?

 トイレに行ったのなら、寝室に戻るまでにもう少し時間がかかるはず。トイレの手前まで行って、ちょっとたたずんだのち、引き返したように見えた。

 私は起きて、ガラス戸を開けた。灯かりをつけると、廊下の、トイレの前に大きな水たまりができている。私はかがんで水質を見極めようとする。小便のようなニオイがしない。コップの水でもこぼしたのかもしれない。私はぞうきんで拭き取った。小便だったときにそなえて、固く絞ったぞうきんで何回も拭いた。

 ジイジは寝ている。ジイジに確かめることはやめた。寝ているならなによりである。

 次の異変は午前三時ごろだ。カチと音がしてジイジが廊下に出てきた。「スクランブル!」と私は飛び起きて、バケツとぞうきんを手にした。ガラス戸を開けた。ジイジは廊下を歩きながらオムツの前をおろし、むきだしになった下腹部から小便が噴き出た。

「おしっこするな! ここは廊下だ!」と私はあわてた。完全に目が覚めていないジイジは事態が理解できないようで、「廊下におしっこ? そんなことワシがするか」と寝ぼけつつもきっぱりと言う。「下見て! 小便が出とるじゃないか!」とさけぶと、「ほんまじゃ」と驚愕する。

「おしっこはオムツにしてくれ。なんのために分厚いオムツをしているんだ」と廊下をたたきながら私は無念の思いに沈む。しかし、その思いが、ジイジに届いたかどうか。ジイジは足が濡れたのも構わずトイレに入り、便器に向かうが、もう出ないようだ。振り返ってまたも水たまりに足を濡らし、そのまま寝室に向かう。

「ストップ! 歩かんで! 足拭くから!」

 ゴシゴシとジイジの足を拭く。水たまりの始末にかかる。これではっきりした。二回つづけて廊下に小便したのだ。一回目はトイレの前の廊下に用を足した。二回目は、寝室を出た直後に放水が始まった。マットの一部も濡れた。

 ベッド脇にたたずむジイジはオムツの尻に手を入れ、「汚れとる」と言う。私は洗面所にジイジを誘導して汚れたジイジの指を洗った。ズボンとズボン下をおろし、ウエットティッシュで拭きとったのち、温かいタオルで拭いてやる。オムツを交換する。

「弱ったのう、もう家にはおれんのう。弱った」と珍しくジイジが弱音を吐く。

 ここぞとばかり私は「施設があるよ」と言う。

「そんな施設があるんか?」

「あるんよ。こんど見に行こう」

 オムツ交換や衣服の洗濯など、私のやるべきことは次から次にあるので、たとえジイジとのあいだで感情がこじれても、ウヤムヤというか、生煮えのまますすんでいく。それゆえにトータルでのこじれはより大きくなる気がする。

 一月七日朝。七時過ぎにジイジの様子を見に行くと、「寒い」と震えている。

 毛布がベッドの下にずり落ちている。羽毛ふとん一枚だけかぶって寝ている。なぜ寒いのか。ふとんをめくってみると、下半身、すっぽんぽんだ。衣類はどこかと探すと、ふとんの足元に、オムツ、ズボン下、ズボンが押し込められている。就寝中、オムツが嫌でたまらず、ズボンごとぬいでしまったのだ。「寒くて、寒くて、はやく朝にならんかと念じていた」とジイジが震えている。

 一晩ハダカ同然で過ごしたのは体にこたえたろう。その後の体調悪化の一因になったのは疑いなく、気をつけてやれなかったことが悔やまれる。

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