「欲望の水準とモノの質」
3月(2005年)の初旬からアフガニスタンに行き、帰って来たところで地震にあった(2005年3月20日、震度6弱)。一年に一度行くアフガンで地雷を踏む確率より、福岡で地震に遭う確率の方が低いと思っていたのだが、逆だったようだ。
アフガンで原研哉著「デザインのデザイン」を読んでいて、その中にたまたま地震と「2DK」の記述があり、記憶に残っていた。著者によると庶民は、明治以来近代的な住居に対するモデルを与えられないまま暮らして来て、いざ住居購入という時に教材とするのが、2DKとか3LDKとかで表示された「不動産業者が新聞に折り込むチラシである」という。そもそも「2DK」という規格は、西山卯三という建築家が関東大震災の後、日本人の合理的標準の生活空間として考案した苦心のアイデアだという。それを読んで、ああ、団地やマンションなるものは、震災後の仮設住宅の発想なのか(著者はそうとは言っていないが)と、妙に納得したのである。
これは「欲望のエデユケーショナル」の章で著者が述べていることの一つなのだが、著者がいいたいのは、私たちの「欲望の水準」が「モノの質」を決定するということである。住宅について言えば、私達の住空間への欲望の質が「2DK」を基準とする限りは、住宅の質もそこに止まるということである。
不動産業者に言わせると。同じ間取りであれば、ドアが装飾的であったり、シャンデリアが付いている方が高くても売れるという。簡素な方が美しいのだが、客のニーズは装飾的で高価な方にあるという。つまり細かいマーケティングをして客のニーズ(欲望)に添うように売ってゆくと、確実に質の悪い(品のない)住宅が増えてゆくわけである。それは住宅に限らずあらゆる商品や文学にまで言えることで、「顧客の本音に寄り添った商品はよく売れるが、これは一方でマーケティングを通した生活文化の甘やかしであり、この反復によって、文化全体が怠惰な方向に傾いていく危険性をはらんでいる」と著者は憂慮する。
ラスキンやモリスが。機械生産への危機感の中から生み出したデザイン思想から説き起こし、「経済をドライブさせていく力」としてのデザインを熟知しながら、「デザインとはものの本質を探り当てる営みである」とする著者の考察は、門外漢にも刺激を与えてくれる。