博多バブル前後(5)

1995/08-12 石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』「博多 バブル前後 1990年代」より再録
福元満治
2014/04/02

「銭 湯」

 なれない経済の話をすると肩がこる。だからというわけでもないが、今回は銭湯の話をしたい。

 私は風呂屋が好きで、今でもときどき大名町(福岡市)にある銭湯に行く。仕事がもっと暇だったころは、夕方には洗面器をもって出かけていた。もちろんふつうの勤め人はまだ仕事に精出している時間帯だ。客は老人と私のようなわけのわからぬ自営業者とか仕事前の飲み屋のオヤジ、そしてクリカラモンモンを背負ったオニイさん。

 オニイさんとは顔なじみになっても、目をそらすだけだが、老人たちとは言葉を交わすようになる。病気をめぐる話題が多いなかで、ある時は、博多湾の外で二百キロのマグロを釣ったと称する漁師のじいさんのホラ話に、眉につばをつけて聞いたこともある。町なかの銭湯なのに、なんで漁師がいるのか不思議に思った。でも風呂の中では物事を深く考えない。「ま、いいか」という気分になる。

 まだ夕暮れ前の、明るい日差しのさす浴槽で、泥のなかの田螺(たにし)みたいに、ぷふーっと息などして手足を伸ばしていると、これは極楽である。400円足らず(340円)で昼間っから極楽気分になれるのは、風呂屋しかない。サウナではこうはいかない。あそこは企業戦士の休息所で、緊張の芯を残したまま、お互い素知らぬ顔だ。

 しかしその風呂屋も絶滅寸前だ。先日、銭湯の番台で尋ねると、福岡市内の銭湯の数は、最盛期に300を超えていたものが、今では40足らずになったという。電話帳で調べたら33軒だった。ちなみにサウナは29軒。

 これだけ銭湯が減ったのは、各家庭に風呂がついたのが原因だが、それに地上げや固定資産税が追い打ちをかけた。年寄りが守る兼業銭湯は、今や風前のともしびなのだ。

 私の子どものころは、みな銭湯に行っていた。冬の寒い夜、風呂上がりにミカンをむきながら父親と歩いていると、ドーンと桜島が爆発して火柱が美しく上がった。

 とりとめなく風呂屋をめぐる話をすると、私の高校は毎年1月15日に有志の寒中水泳があり、錦江(きんこう)湾からあがると一杯のぜんざいと一緒に風呂券がもらえた。冷凍食品のように冷え切った体を、湯に浸したときの甦(よみがえ)りのここちは、今でもからだが覚えている。ついでにいうとここの風呂屋の亭主が気骨ある変わり者だった。戦前は反戦主義者で獄につながれ、戦後温泉を掘り当てて一財産築いたという伝説的人物で、毛沢東主義者ながら市長にまでなった。

 高校生の時、この市長の孫が同級生だったので、この大きな風呂屋の二階で、浮き世風呂ならぬクリスマスパーティーをやった。そして、この時生まれてはじめて女の子とダンスを踊ったのだ。相手はセーラー服。曲はビートルズのミッシェル。はるか30年も昔の話だが、この夜のことを思うと今でも胸に甘酸っぱいものが甦る。

 銭湯がなつかしの文化財にならないうちに、みんな銭湯に行こう!

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