『越南ルート』(松浦豊敏著/石風社)を読む

2011/10/27 「日本経済新聞」掲載
福元満治
2011/11/14

戦争を、人間の「自然」として描く

 自伝的小説集である。戦中戦後を巡る4本の作品が収められている。熊本県松橋町に生まれた著者は、早熟で柄もでかく喧嘩もめっぽう強かった。だが、ただの不良ではなく、硬直した「戦争の時代」に対して熱くなれない知的な少年だった。

 旧制中学の時、県知事が閲兵にやってくる。感想文の提出を命じられた著者は、訓示の退屈さに、知事の不格好なさまをリアルに描写してしまう。それが危険思想ということで、無期停学になる。そもそも海賊松浦党の末裔で、醸造業を始めたという伝聞を持つ一族の血は、海辺の田舎町での安住を許さなかった。

 中学を出ると山西省太原にある会社に入る。これは河本大作率いる国策会社で、仕事は共産軍の動静を探る特務。十代の著者は、ここで大陸の空気にふれ、中国人の懐の深さを知ることになる。第1編の「別れ」は、中国人同僚の幼い娘との別れであり、出征する息子を、一晩旅館で抱いて寝てくれた母との別れである。少女の父は、兵隊に行けば生きて帰れぬだろうという著者に、「死ぬのはよくない」必ず帰ってこいという。

 徴兵され河北駐屯の部隊に入隊すると直ちに、ビルマに向かっての行軍が始まる。全長5千キロ、日本で最長の行軍をした冬部隊である。著者の戦争体験の原点「越南ルート」で描かれるのは、行軍の果てベトナムで入院するまでの4千キロの行軍の日々である。

 目的はビルマ戦への支援であるが、すでに海路輸送は断たれての消耗戦で、長沙を越えるあたりから、「地獄」が始まる。ろくな食い物もなく、歩くミイラとなり「身も心も乾いて枯れて、フケが飛ぶようにどこかへ消えてしまう」。

 著者は,行軍途中の村での徴発という名の略奪や栄養失調や病で死に行く戦友をいかに無慈悲にあつかったかも描写している。しかしそこでは、国家や自己への倫理的告発は抑制されている。

 無駄のない文体で「戦争」も「人間」も、あたかも「自然」の一部であるかのように描かれる。それは、戦争を被害者/加害者の視点で考察する戦後思想の潮流から自由なだけに、反って倫理的でさえある。戦争文学の知られざる傑作といえる。

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