博多バブル前後(9)

1995/08-12 石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』「博多 バブル前後 1990年代」より再録
福元満治
2014/04/07

「イベント疲労」

 バブルははじけたけれど、村おこしや町おこしはなお盛んである。

 むしろ景気に左右されない行政の金をめぐって、広告代理店やプランニング会社がしのぎを削っている。中には全国の村おこしプランを一手に引き受け、北海道から鹿児島までほとんど変わらぬマニュアルでこなしている大胆不敵な会社もあると聞く。

 いくら日本中が均質化したからといって、どこにいっても国際化だ○○共和国だという金太郎アメじゃ、うら悲しい(映画祭は定番、文化賞やシンポジウムというのも流行だ)。

 つまるところこれは村や町の画一的「商品化」だ。どういう衣裳で自分たちを売り込んだら、よその人間が金を払ってくれるか、化粧の仕方を教えてくれる会社まで繁盛しているわけだ。最近じゃ、役所のおいさんまで「コンセプト」がどうのこうのと、代理店みたいな口を利くようになった。ああ恥ずかしい。戦後50年、がむしゃらに生き抜いてきて、私たちの「欲望」の調整弁は吹っ飛んでしまったようだ。

 さて、福岡市は街おこし=イベントにかけては人後に落ちない。年がら年中アジアだ○○○だとイベントをやっている(賞の創設にかかわった教授が、一回目から受賞したお笑い権威主義もある)。

 だけど私には、官・代理店合作のイベントというやつがおもしろくない。確かにアジアは多様で濃密で刺激的だ。ところがイベントになると、おざなりで薄っぺらで退屈なのだ。いったいだれが喜んでいるんだろうか?

 映画祭にしても、ふつうの生活者にはとても見に行けそうにないスケジュールを組み、プレス(報道関係者)のネームをつけた連中だけがうろうろして、分厚いカタログができておしまい。

 ここらで何のためだれのためにやっているのか、いっぺん昼寝でもしてからゆっくり考えてもいいんじゃないか。
 街だってイベントだけじゃくたびれる。

 そこでへたなオチをひとつ。ある時、博多の飲み屋で、旧知の役者常田富士男さんに会った。私たちもなにかの打ち上げでいい気分、常田さんもきこしめしている。常田さんは長年別役実の作品を小劇場で演じている特異なキャラクターの役者だが、あの「日本昔ばなし」の声優としての方が有名である。

 座も盛り上がったところで、常田さんに一言ということになった。

 足元がふらつきながら、あの声とあのしわくちゃ顔にやさしい目でおっしゃった。

「エ~、日本国じゅう村おこし~村おこしといってはしゃいでおりますが~、村は~、起こしちゃいけません。村は~、寝かしとかなきゃ~いけません。ハイ」
と言った後、ほんとにその場に寝てしまった。

1995・8〜12
(石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』
「博多 バブル前後 1990年代」より再録)

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