「夢野久作」
ある時フランスの出版人と会った。夢野久作の『ドグラ・マグラ』を翻訳出版したいがどう思うか、という。もちろん久作は日本を代表する特異な作家だが、いわば裏舞台の人だ。フランス人の眼力に驚きながら、「日本では常に異端視されてきた作品だが、没後数十年にわたって根強い読者をもちつづけている。きわめて論理的な構成なので、むしろ貴国の読者にとって普遍性を持つかもしれぬ」と述べたことがあった。
夢野久作はご存じのように福岡人である。これまでも何度か時代の熱と共鳴しあうブームの波はあった。しかしその作品はどの程度読まれているのか。福岡ゆかりの作家である檀一雄や五木寛之の作品ほど読まれているとは思えない。
そういう私も、その難解で知られる『ドグラ・マグラ』こそ読みはしたものの、ほかにいくつかの代表作を読んだにすぎない。ただ久作の作品の中で唯一愛読するものに、『近世快人伝』がある。これはめちゃくちゃにおもしろい。大げさにいうと福博に住んでいながら、これを読まずに死ぬのは、もったいない。
『近世快人伝』(葦書房版)は、頭山満や杉山茂丸、奈良原至、内田良平ら玄洋社系の人物と魚市場の酔狂人篠崎仁三郎のことを記した痛快な作品だ。久作は、「現代の軽薄神経過敏なる世相と福岡県人中に見受来る面白からざる気風に対し、一服の清涼剤を与ふる目的」で書いたと日記に記している。昭和10年のことである。
この作品の中に一貫して流れるのは、「西洋文化崇拝」や「唯物功利主義」への執拗な違和である。久作の真骨頂は、これらに対置するものとして、徹底的な「ナンセンス=意味抜き」の物語を置いたことである。
たとえば久作いうところの「巨大な平凡児」頭山満が、ある市長のところに談判にゆく。やり手といわれる尊大な市長は、頭山を待たせたままいっこうに出てこない。頭山は黙ってむずむずする自分の尻の穴からサナダムシを引きちぎり引きちぎりして、火鉢の縁に並べてゆく。それが火鉢の縁に二周り半ほどにもなったころ、おもむろに登場した市長は、そのサナダムシに仰天卒倒する。
こういうグロテスクで無意味なエピソードに満ちているのだが、これらが精彩を放つのは、その背景に、藩閥政府の横暴・拝金主義に対する玄洋社一党の、痛烈な拒否感があるからだ。
そもそも玄洋社は、明治維新に遅れてきた青年たちの結社である。彼らの先輩は勤王・佐幕両派とも、左右に刃のついた時代(政治権力)の振り子によってことごとく粛清されてしまった。彼らが終生、官=政治を信用しなかった根拠である。
久作が描く玄洋社の人物たちを、時代の波(明治維新)に乗り遅れた在野の反政府グループとしてでなく、政治権力を相対化する「ナンセンス」として読むとき、そこに時代を超えた「同時代人」としての夢野久作が、浮かび上がってくる。
1995・8〜12
(石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』
「博多 バブル前後 1990年代」より再録)