「石風亭日乗」
石風亭のある第2ワタベビルは、数年前までは「勝共連合」の事務所があることで、それなりに有名だった。それで驚くことはないが、第1ワタベビルには「オウム真理教」の事務所もあったのである。ちょっと驚いたでしょう。
さて石風亭は続いている。毎週木曜日夜、一回も休み無し。あるとき亭主が出張で、10時過ぎに石風亭に戻ってみると、すでに閉店していた。「なんで気を入れてやらんのか!?」とフジムラは亭主に怒鳴られた。本業の上でもそんなにファイトしたことないくせに、「このオッサン何考えとんじゃ」、というような顔でフジムラは亭主を見ておった。それ以降、石風亭が12時前に閉店したことはない。
さて、八月某日、石風亭番外編は「花火大会」。
第2ワタベビルの屋上から大濠公園の花火が眼下に見える。ここは一つ、会費制で人を集めて赤字がちの石風亭の穴埋めをしようと、探偵アカシと亭主が狸の皮算用を目論んだわけである。客は50人ほど、石風亭の常連の他書店の関係者にペシャワール会の会員になぜか外人さんもいる。1階のサライに借りたアフガン絨毯を敷いて、飲み喰いの大盤振舞。ナカツが目を光らせて会費3000円を集めている。
東京の(株)包(パオ)のヤスナカさんも、久しぶりに与那原恵さんを連れてきた。彼女は『物語の海、揺れる島』(小学館)を出版したばかり、「作られた伝説〈神戸レイプ多発報道の背景〉」は、人間の先入観を覆すいいルポだった。
花火に気をとられて飲み喰いはおろそかになる(よって酒は少なくてすむ)、という読みは見事にはずれ、花火が打ち上がると、それをレーザー光線で混ぜくるという大バカな演出を、装幀家の毛利さんと共に罵りながら、皆のピッチがあがる。リョウコとタカコは、粋な浴衣姿でワインをがんがん飲んでいる。ということで、収支は、八千円の黒字(?)。
八月の中過ぎになると、アカシがリョウコとタカコを連れて、二週間ほどカンボジアの小学校に出かけた。フンセン第二首相にラナリット第一首相が追い出されて内戦が勃発した後だったので、みな心配する。それだけでなく、いつもミニスカートのタカコの足の方をもっと案じている。
九月になると、石風亭の喰い物もフジムラのたこ焼きなどが登場して、少し多彩になってくる。飲み物は赤ワインが完全に定着した。それも基本は渋めのカベルネソービニオン。実を言うと亭主はワインに偏見をもっていた。もっと言うと、ワインなんてコジャレタものを飲む輩が性に合わない、「男は黙って芋焼酎」派であった。ところがころりと転向してしまった。そのわけはちょっとだけブンガクだ。亭主はリービ英雄の連載を愛読していたが、その中でカベルネソービニオンの話が出てくるのである(『アイデンティティーズ』講談社)。そしてある日この憶えにくい銘柄のワインを偶然アカシが持ってきたのが運の尽きだった。かくて、渋くて安い赤ワインは石風亭の定番となった。
十月になると、モンゴが退院して帰ってきた。モンゴはフジムラのセンパイながらまだ卒業未定のQ大生。シンガーソングライターでもあるらしい。新良幸人のコンサートの打ち上げの時、太鼓のサンディに「こいつはモンゴルから来た相撲取りだ」と紹介したら、本気にしていた。そのくらい体がでかい。そのモンゴが中国を旅行中の七月、大事故にあってしまった。
彼は中国に二年程留学していたこともあり、旅慣れている。彼の乗ったバスは、雲南から四川に向かって、4000メートルを超える山道を走っていた。そのバスの運転席付近で突然爆発が起こったのである。運転手が即死、運転手の後ろ座席で眠っていた彼は、爆風と破片をもろに受けた。細かい経緯は省くが、結果的に彼は片目を失明し、片目の水晶体を失ってしまった。
片方に牛乳瓶の底より厚いレンズのメガネをかけたモンゴが、淡々と語る事故の詳細、バス会社の対応、保険会社の処置、病院での治療、中国公安の監視、借金して飛んできた中国人のガールフレンド等の話を聞く内に、亭主の頭には思わず本の目次やタイトルが浮かんでくる。「お前そのことを本に書け、題名は『ボクのバスが爆発した』に決まりや」
(1998年3月)
(石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』
「博多 バブル前後 1990年代」より再録)