詩人の捨てぜりふ
中村哲医師の最初の著作『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』(一九八九年)の中に〈「トウキョウ」を撃て〉という文章がある。書かれた時期は、ほぼバブル期まっただなかの一九八〇年代末である。中村医師は、一九八四年の春、パキスタン・ペシャワールのミッション病院へ赴任し、ハンセン病の主任医師として勤務していた。
当時のペシャワールは、一九七九年十二月、クーデターによって成立したアフガニスタンの社会主義政権を守るために侵攻してきた旧ソビエト軍とムジャヘディン(イスラム党反政府ゲリラ)との戦争によって、三百万人を超える難民がひしめいていた。アフガン難民のあふれる町でハンセン病患者を診る日本人医師の目にバブル日本がどう見えたか、想像に難くない。中村医師は、「トウキョウ」を、「組織化・集中化による経済効率至上主義の帰結」、「地域社会の打ち壊しと拝金主義の根源」と言い、「手前の都合で人間を置き去りに自己運動」する「それは我々の中にある東京」でもあると規定している。そのあとに述べたのが次の文章である。
「国内で平和を謳歌する我々が、かつて「東亜解放」を信じて戦場に逝ったきまじめな将兵たちに比べて、思いやりがあるとも、平和的だとも思われない。敗戦後の日本の、華麗な変節の中で、生き恥をさらして生活せざるを得なかった元兵士たる庶民の良心的心情を代表して、自ら世を去った一人の詩人の捨てぜりふが、ますます鮮やかに私の心を離れない」
その後に掲げているのが次の詩である。
将軍たちよ
もしも君達の崩れた堡塁に
古ぼけた大砲が残っているならば
乾いた土の弾を込め
我々を砲撃してくれないか
華美なショーウィンドウを狙うんだ
街路なんか土埃で埋めちまえ
サロンには
焼けつくようなルビーの硝煙を詰め込むんだ
この文章の中で、そうとは明言していないが、「元兵士たる庶民の良心的心情を代表して、自ら世を去った詩人」とは、火野葦平のことである。当時、私はこれが火野葦平について書かれた文章であることに思い至らなかった。そしてこの詩はランボオ作小林秀雄訳の『地獄の季節』(「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」)の中の詩であることにも考えがおよばなかった(註ランボオの原詩とは異同があるので、後述)。
報道班員火野葦平
火野葦平は中村医師の母秀子の兄で、叔父にあたる。『花と龍』の主人公、若松の港湾労働者の元締めだった玉井金五郎の長男玉井勝則である。中村医師は幼少年の一時期を葦平が建てた若松の家で過ごしており、葦平と哲少年が写った写真が残されている。この時期金五郎の妻マンも同居していて、この祖母から人の世の道理を教わったという。父中村勉が火野葦平の文学仲間であったこともあり、葦平の著作には少年期から親しみ、とくに葦平の「兵隊もの」には、ある種の共感をもって接したことを語っている。
火野は、一九〇六年北九州若松の生まれだが、戦中は『土と兵隊』(一九三八年)、『麦と兵隊』(一九三八年)、『花と兵隊』(一九三九年)の三部作で国民的作家として人気を博した。中国戦線には一伍長として従軍したのだが、その無名下士官の作品に目を付けたのが、文藝春秋の菊池寛である。一九三七年に同人誌「文学会議」に掲載された『糞尿譚』は第6回芥川賞を受賞、授与式は一九三八年中国戦線の杭州の駐屯地で行われた。授与式に参じたのは、菊池寛の命を受けた小林秀雄である。
芥川賞作家となった火野は日本帝国陸軍の報道部へ転属を命ぜられた。中国を転戦中に書いたのが兵隊三部作で、銃後の国民に熱烈に迎えられベストセラーになっている。昭和十六年対米戦争が始まると南方戦に報道班員として従軍し、大東亜共栄圏構想にもとづく宣撫工作に務めた。この宣撫工作については、「大東亜共栄圏という思想は私にとっては空念仏ではありませんでした」〈『革命前後』(中央公論 一九六〇年)〉と記し、欧米の植民地支配からアジアを解放しようと本気で考えていたと述べている。
しかし幾度もの死線をくぐり抜けて復員した火野を待ち受けていたものは、進駐軍と「民主主義」によって価値転倒した戦後日本である。国民的作家は、一転戦争協力者のレッテルを貼られ「戦犯」としてGHQに公職追放される(一九四八~一九五〇年)。ただ、GHQが問題にしたのは、彼の「兵隊三部作」ではなく、対米英戦争下におけるフィリピンやビルマでの宣撫工作であった。欧米世界は火野の戦記物を「作品」としてそれなりに評価しており、むしろ日本の戦後左派が「戦争協力者」として批判したのである。
葦平の自死
火野は公職追放が解除されると、作家活動を再開して『花と龍』(一九五八年)など、多くの作品を残すのだが、『革命前後』を脱稿した直後の一九六〇年の一月二十四日に自死している。ただ、表向きは病死とされ「自死」については十三回忌まで伏せられていた。遺書には「死にます。芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或る漠然とした不安のために」とあった。また最近死の数ヵ月前に記したメモ原稿が発見され(北九州市立文学館所蔵)、体調不良や経済問題、そして才能に対する不安や孤独について書かれている。
火野が自死した一九六〇年、中村哲少年は中学一年生である。叔父の死が自死であったことを知るのは、のちのことではないかと思うが、『革命前後』については、青年期の早い時期に読んだのではないだろうか。
その『革命前後』の巻頭に付されていたのが先の『地獄の季節』の一節である。小林秀雄訳では次のように散文詩として記されている(註『革命前後』のエピグラフとしては、この散文詩が行分けして記されていて、中村引用とは異なる)。
「将軍よ、君の崩れた堡塁に、古ぼけた大砲が残っているならば、乾いた土の塊をこめて、俺たちを砲撃してはくれまいか。すばらしい商店の飾窓を狙うんだ、サロンにぶち込むんだ。街にどろっ埃を食わせてやれ。蛇口などは皆んな錆びつかせてやれ。閨房にはどいつも焼けつくような紅玉の硝煙をつめ込んじまえ……」
『革命前後』は、終戦直前の西部軍のもとに組織された報道部にあつめられた文化人を群像劇の形で描いた小説である。報道部事務局は、西日本新聞社四階講堂に置かれていた。登場するのは、九州・東京の作家や詩人に映画監督や劇作家などの知識人で、西部軍管区報道部長の「井出大佐」は、軍人作家の町田敬二である。作品では八月十五日の終戦日を軸に、人物たちの思想的・処世的ドタバタを虚実入れ混ぜた悲喜劇として描いている。その中の一つの軸が「九州独立論」である。上陸する米軍を西部軍が東京の大本営から独立して迎え撃つというもので、いわばこれが「革命」である。結果から言うと、天皇の玉音放送によって威勢のいい「独立論」は雲散霧消し、元軍人など進駐軍のためのダンスホールの経営を目論むまでに変節するのである。
中村医師が火野葦平について書いたものは少ないが、「火野葦平と私」(福岡県筑前町立大刀洗平和記念館 二〇一〇年)という短い文章がある。そのなかで次のように記している。
「戦後日本の激変にあって、殆どの日本人が器用に変質する中、彼は時流に乗れない人であった。今、多くの者が「戦争体験の風化」を嘆くが、風化の源流が終戦直後の世相に胚胎することに触れる者は少ない。葦平は戦争体験を引きずりながら、内心忸怩たるものがあったろう。自決までの十年、酒に耽溺するデカダンを装い、豪放磊落な九州人を装っても、戦争を生きた己と人間らしい魂との相克が、彼を苛んできたであろう」
この文章の後にも、先のランボオの詩を掲げている。ただこの文章にははっきりとランボオの詩であることを記している。おそらく中村医師は、〈「トウキョウ」を撃て〉を書いた時には、それを「詩人の捨てぜりふ=葦平の詩として」暗記していたのではないかとも思える。註にも述べたが、その異同を再度記す。
「すばらしい商店の飾窓を狙うんだ。サロンにぶち込むんだ。街にどろっ埃を食わせてやれ。蛇口などは皆んな錆びつかせてやれ。閨房にはどいつも焼けつくような紅玉の硝煙をつめ込んじまえ……」(小林秀雄訳)
「華美なショーウィンドウを狙うんだ 街路なんか土埃で埋めちまえ サロンには 焼けつくようなルビーの硝煙を詰め込むんだ」(中村哲)
中村医師はこの文章の末尾を、「時代に翻弄されて逝った彼の軌跡は、猛々しくも、華美な日本の風潮をアフガニスタンから見るにつけ、共感を覚えずにはいられない」と締めくくっている。
これを読むと、葦平が砲弾をぶち込もうとしていたのが、軽々と変節した戦後日本であり、中村哲が砲撃しようとしていたのが、トウキョウに象徴される華美で浮薄な拝金大国ニッポンであることがわかる。
中村哲は、終戦後の昭和二十一年九月十五日に福岡市で生まれている。火野葦平の友人だった父中村勉は、転向の経歴を持つ社会活動家であった。その前年父方の祖父母は六月十九日の米軍空爆(福岡空襲)で亡くなっている。福岡県古賀市立小学校を卒業、西南学院中学の時にキリスト者として洗礼を受けた。なぜクリスチャンになったかについては詳らかに語っていないが、早熟で内省的な少年だったのだろう。福岡高校を卒業すると六六年に九州大学医学部に入学しているので、六〇年代末の学生運動にも関わっている。
中村は寡黙に見えるが、現地でのフィールドワークや事業現場への移動中に問わず語りに様々なことを語ってくれた。学生運動についても、ある日九大校内の米軍ジェット機墜落現場に雨靴を履いて偶然立ち寄ったところ、私服警官に「こいつだ!」と逮捕されて、二週間ほど拘留されたとも話してくれた。しかし、彼の中では、先鋭化して政治セクト化する学生運動に対する〈異和〉が膨らんでいったようである。一時休学して町工場で働いていたこともあるが、教授の計らいで学籍が残っていた彼は復学、卒業後は佐賀の国立肥前療養所で精神科医として勤務している。
その後大牟田の労災病院に移るが福岡の登山会からティリッチミール(七七〇八メートル)遠征隊へ同行医師としての誘いがあった。一九七八年のことである。この無医地区での入山に際し、医師は村人の診療を拒否できないという条件があった。昆虫少年だった中村は、医療奉仕というより蝶の原産地に対する関心がこの地へ赴かせたのだと述べている(『ペシャワールにて』)。ただ、中村を待ち受けていたのは、楽しい登山や蝶との出会いではなかった。押し寄せる結核やハンセン病の患者を前に、隊員のための有効な薬を使うことはできず、処方箋を書いて麓の病院にゆくことを促しても、病院にゆく旅費も払える治療費もないという厳しい現実のまえに、重い気持ちと後ろめたさだけが残された。中村が、ペシャワールへハンセン病の主任医師として赴任するのは、それから六年後のことである。
「当地への赴任は最初にヒンドゥクッシュ山脈を訪れたときの一つの衝撃の帰結であった。同時に、余りの不平等という不条理に対する復讐でもあった」(『ペシャワールにて』)
しかし、彼の激情の底には、常にある種の諦念も潜んでいた。
「悠々たるインダスの流れも、壮大なカラコルムの山々も、太古より連綿と続く自然の摂理の中で、つかのまの人間たちの盲目の乱舞を嘲笑っているのかもしれない。やがては総てが漠々たる沙漠の塵と化し、熱風の中に消えてゆくという確実な実感がここにはある」(『ペシャワールにて』)
農民の深部に向かう事業
中村医師は、パキスタン・ペシャワールでハンセン病の診療を行いながら、一九九〇年代に入るとアフガニスタン国内山岳部に三カ所の診療所を開設した。他の国際的な援助団体が都市部に学校や病院を作る中で、彼は外国人が入ることのなかった辺境無医地区に診療所を作っていった。彼が当時言っていたことは「みんなが行くところには誰かが行く。誰も行かないところにこそ行く必要がある」ということである。天の邪鬼にみえるが、現地の知識層・富裕層をコーディネーターにすると、その視線はどうしても都市部に向かう。都市部でなければメディアのスポットが当たらないからだ。日本を含めた欧米先進国の援助団体は、プロジェクトの調整者として英語が堪能な現地の都市知識層に頼りがちである。すると視線は現地の表層を滑るばかりで、その土地の深部には届かない。中村医師はそのことを直感的に知っていたのだと思う。
ある時中村医師が私に言ったことがある。アフガニスタンの村々を「偵察診療」と称して巡回し村の青年をペシャワールの病院に連れ帰って教育していたときの話である。「村を離れたくないという青年を連れてきたんですよ。ペシャワールで英語を勉強したいとか外国に行きたいと言う者は連れてきませんでした」。最初、私にはその意味が分からなかった。結論から言うと、上昇志向の強い青年は、村に戻らないということだ。たとえば青年医師をリバプールの熱帯医学校に研修に出すことがあった。研修を終えた彼らの多くは、その付加価値をもってより報酬の高いところへ行き戻らない。しかし愛郷心の強い青年たちは、研修を終えて村に戻る。村にはジルガ(長老会議)という伝統的な自治組織があり、その青年たちの仲介で事業は進められた。
アフガニスタンはじめ途上国は伝統社会である。伝統社会は保守的で頑固である。そこへ近代的な教育や医療にデモクラシーという政治システムをいきなり持ち込もうとしても抵抗・拒否されるのは当然である。アフガニスタンという国の人口の八割は農民で一割が遊牧民である。旱魃以前は九三パーセントもの穀物自給率のあった本来は豊かな農業国である。ごく一部の都市知識層の回路を通しては、アフガン農民の深部に達することはできないのだ。
アフガニスタンという国は、十九世紀の大英帝国の侵攻にはじまり、旧ソビエトのアフガン戦争(一九七九年~一九八九年)で二百万人の死者と六百万人の難民を出した。二〇〇一年のä¨月からは、9・11同時多発テロへの報復として、米軍の空爆を受け続けている。しかし9・11事件の十九人の実行犯のなかには一人のアフガン人もいない(うち十五人はサウジアラビア人)にも関わらず「悪のタリバン対自由と正義のアメリカ」という構図が国際社会では形成されていた。タリバンは農民のメンタリティを持った国土防衛の土着組織がベースにある。また高学歴で根無し草のインターナショナリストであるアルカイダとも違う。事実を見ない国際社会の虚構に対して、中村医師はひたすら自らの「現地事業」で立ち向かおうとしたのである。
アフガニスタンは、9・11事件の起こる前年の二〇〇〇年には大旱魃に襲われていた。戦乱という人災に加え、天災の襲来である。人口二千万人のうち千二百万人が被災し、四百万人が飢餓線上にあり、そのまま放置すれば百万人が餓死すると国連機関は警告していた。しかし国際社会は旱魃には一切関心を示さず、国連安保理の制裁によって急進化したタリバンの一派がバーミヤンの石仏を破壊した時にだけ「人類の共通遺産に対するなんたる暴挙!」と大合唱を唱えた。
国際社会の無関心の中、中村医師は、「飢えと渇きは薬では治せない」と水源確保のためのチームを作り、千六百本の井戸を掘った。しかし飲料水だけでは人は生きてゆけない。しかもアフガニスタンは、本来豊かな農業国だ。二〇〇三年三月からはさらに灌漑用水路建設に着工して、これまで一万六千五百ヘクタールの田畑を甦らせて六十万人の生活空間を確保している。その灌漑工法は、斜め堰や蛇籠工・柳枝工など、日本の江戸時代に完成した伝統工法を基礎にしていた。この灌漑用水路で農地が回復するまで、農民は難民になるか米軍や軍閥など武装集団の傭兵となるしかなく、治安は極度に悪化していたのである。
中村医師は、スローガンとしての「平和構築」を一切掲げなかったが、灌漑用水路の竣工によって砂漠化した荒野が沃野となり、難民や傭兵の多くが帰農することで治安は安定に向かった。用水路にそってバザールや学校やモスクも自然に出来ていった。中村医師が目指したことは「農民が家族一緒に三度の食事をとり穏やかに暮らせる」ということだった。きわめてシンプルで基本的なことだが、戦乱と災害の打ち続く地では、たやすいことではなかった。彼は「平和は、戦争以上に努力と忍耐を要する」とも語っていた。
私はある時、中村医師に後継者について尋ねたことがある。答えは「私の後継者は用水路だ」ということだった。用水路が必要とされる限り、中村は人々の中で生き続けるということだ。またこうも尋ねた。「キャプテンがいなくなったら、船は航行不能になるんじゃないですか」。すると、「しばらくは慣性で進む」と即答された。現地では、日本側と密に連携をとりながらアフガン人のチーム(PMS=平和医療団・日本)によって医療、農業、灌漑用水路の事業が着実に進められている。
戦争は風のごとく
「ここに集った代表はことごとく、純粋の農夫ばかりと思はれ、もとより教育などあらう筈はなく、身体つきは頑丈で、色は真黒に焦げ、顔は折り畳んだやうな深い皺で刻まれ、伝単を受け取る手は節だらけで八角金盤のやうに廣く大きい。彼等は町の支那人のやうに日本の兵隊を見てもへらへらと笑はない」
これは、『麦と兵隊』で中国人農民を描写した火野葦平の文章である。葦平が日本軍の報道班員として中国農民にむけて宣撫工作を行い、伝単(宣伝ビラ)を手渡すために、農民の代表を集めたときのエピソードである。町の人間たちは、日本軍がきた時には日の丸を、中国軍がきた時には中国旗を掲げ、へらへらとやり過ごしていた。中村医師も、9・11事件のあとタリバン政権が地下に潜り、米軍を後ろ盾に「北部同盟」がカーブルに進駐してきた時、町の市民が北部同盟とタリバンの二種の旗を持って彼らを迎えたことを書いている。この時、中村医師の胸に、叔父の作品の一節が浮かんでこなかったはずはない。
目に一丁字もない農民たちは、手鼻をかみながら伝単を受け取り、果てはそれで鼻をかんでしまう。葦平は、笑い出してしまい、この朴訥で土のような農夫たちに限りない親しみを覚えたと記し、次のように結語する。
「一家の繁栄と麦の収穫とより外には彼等には、何の思想も政治も、国家すらも無意味なのであらう。戦争すらも彼等には、ただ農作物を荒す蝗か、洪水か、旱魃と同様に一つの災難に過ぎない。戦争は風のごとく通過する。すると、彼等は何事も無かつたやうに、ただ、ぶつぶつと呟きながら、ふたたび、その土の生活を続行するに相違ない」
私は中村医師が、深い共感を持ってこの文章を読んだと考えている。現に中村医師は、机上の人間よりも頑固な現場の人間を信頼した。また、時代の激流の中にあって、その流れにあわせて小石のようにころころと転がる人間になるな、いかなる流れのなかでも厳として動かぬ岩となれと現地スタッフに言ったということも聞いている。アフガニスタンの農民たちは、打ち続く戦乱にも収まらぬ旱魃のなかでも、それらを一時の嵐のようにやり過ごしてきた。その巌のような存在への畏怖と共感が、中村医師の事業継続のモチベーションの核にあったと、私は確信している。
日本にも世界にも良心的な医師はたくさんいる。しかし、農民の中に彼ほど深く入り込んで信を得て事業を成した医師は、そういないのではないだろうか。
アフガニスタンの長老は、砂漠化した大地に灌漑用水路が通り、荒れ地が緑の沃野に甦ったのを見て言ったという。
「この地にドクター・中村を招いてくれた神に感謝する」
(「アルテリ」十一号 二〇二一年二月)








