『神々の村』を読んで

石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』「石牟礼道子ノート」より
福元満治
2025/06/27

 私はこの四百ページほどの本を読みつつ、芳醇なアリアを聴いたと思った。黙読している間その声は鳴り響いていた。粛然となり、こみ上げるものがあり、時に頬が緩んだ。

 読後浮かんできた思いは、もし水俣に石牟礼道子という表現者がいなかったら、ということであった。もちろん石牟礼さんがいなくても、水俣病事件は日本近代史に残る社会問題であり損害賠償請求事件として闘われたことは間違いない。

 しかしその存在がなければ、私たちは水俣病被害の背後に拡がる、奥行きのある深く重層した世界に気づくことがあっただろうか。私たち近代の市民は、チッソという重化学工場の廃液によって毒殺されその生活領域を汚染された不知火海の被害民という認識には到達できる。チッソだけではなく国家や行政の責任、医学やメディアの責任を問うこともできる。わが身の罪を問うこともできる。しかしそれだけである。そこに見えるのはひどく貧しい風景である。

「ありとあらゆる賤民の名を冠せられ続け、おのれ自身の流血や吐血で、魂を浄めてきたものの子孫たちが殺されつつあった。かつて一度も歴史の面に立ちあらわれることなく、しかも人類史を網羅的に養ってきた血脈たちが、ほろびようとしていた」

 と記すとき、石牟礼さんが逆説的に描き出そうとしているのは、水俣病によって現象した被害やそれに対抗する事象ではない。そういうもの全てを生み出した近代の文明そのものである。だからこそそこにはある種の絶望がある。

 本書『神々の村』は『苦海浄土』三部作中第二部にあたり、一つの軸になっているのは、水俣病の運動である。それは、一九六九年のチッソ提訴に始まり、七〇年五月の補償処理委員会会場占拠、同年十一月のチッソ株主総会乗り込みにいたるできごとである。しかし記されているのは、その運動の経緯ではない。むしろ著者はその様な直線的で硬直した時間軸を自在に骨抜きにする。そして運動というものでは表現不能な世界のことを、次のように述べている。

「時の流れの表に出て、しかとは自分を主張したことがないゆえに、探し出されたこともない精神の秘境が、人びとの心の中にまだ保たれていた」

 精神の秘境とは如何なるものか。

 長らく水俣病を病みながら、蜜蜂を飼い、暇を見つけては山深く兎や狸を追う「野の哲人」は著者の家に訪ねてきて、「黙っとる世界の方が、なんちゅうか、ゆたかじゃし。石のごたる者の心が深かかもしれん、オラそげんおもうばい」と洩らす。

 実子というもの言わぬ胎児性患者の娘をもつ「御詠歌の師匠」は、チッソ株主総会に上阪する道々、わが子は「逆世の実りとして生まれて来たのだ」と言い「水俣病患者の姿はみなそうじゃ。逆世の真実を身に負うとる」とわが身に言い聞かせるように語る。

 それは著者自身の世界でもある。著者は自らを「じぶんが人間であることがうまくゆかない半毀れのにんげん」といい、その片割れが「ろくろ首のようになっておそるおそる世の中を眺めたりしている始末だった」と述べている。これはジャーナリスティックな資質とはもっとも遠いものだが、幼児期に「現身のあるところすべてこれ地獄」との認識を得たという著者は、それは水俣病事件に出合う「啓示」であったのだろうという。

 著者のある意味特異な水俣病との関わりは、その来歴と資質に由来するところが大きい。それ故時にシャーマニスティックといわれることもある。誤解を恐れずに言えば、その背景にマナ(超自然的な力の観念)をもつ言葉ゆえに、「秘境」への隘路が示されているといえるのである。

(二〇〇六年十二月)

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