こんにちは、福岡で、出版社をやっております、福元です。
「石牟礼道子と水俣病運動」というテーマで話せ、と主催者から連絡がありました。渡辺京二さんのご指名のようなので、これは断れないと参上しました。人前で水俣病のことについてお話しするのは今日が初めてです。そして多分これが最後になるだろうと思っております。
今回お話しすることは、一般論としての水俣病運動ではありません。そういうことにつきましては、語る資格も興味も私にはありません。今日お話しするのは、あくまでも私が体験した七〇年代初期の水俣病闘争です。それも極めて私的な覚え書きのようなことになると思いますが、お許し下さい。
七〇年五月二十五日
実は、もう三十五年前になりますが、私が二十歳を過ぎた頃に水俣と縁がありました。これが、いきなり逮捕されるというところから話は始まります。一九七〇年五月二十五日のことです。
この日、東京の厚生省に、水俣病患者の遺影を掲げた集団がデモをかけ、その隙をついて十数人の男たちが厚生省の一室を占拠するという事件がありました。国に対してチッソを訴えた「訴訟派」の患者とは別に、チッソとの調停を厚生省に一任する「一任派」の患者に対する調停案がその日提示されようとしていました。その額は、死者に対し四〇〇万円。男たちは実力でそれを阻止しようとして逮捕されたのです。その中に私もおりました。
私はそれまで、水俣病の患者さんと会ったこともありません。もちろん水俣病の問題は知っておりましたし、患者さん達が六九年の六月に提訴をしておりますので、裁判がおこなわれるということも知っておりました。
その頃、六〇年代末ですが、私は熊本大学の学生でした。いわゆる全共闘世代で、その真っ只中にいたわけですが、七〇年というのは、すでに全共闘運動の終末期でした。知人に、水俣病のことに関わっている人間がおりまして、厚生省がチッソの代理人として水俣病被害者を低額の補償金で処理しようとしているので、東京で抗議行動を行うという話を聞きました。それは許せない話だから、東京行動に参加する人間に協力しようと、街頭でカンパ活動などをしたわけです。自分が東京へ行くなどとは、考えておりませんでした。
それで初めて「水俣病を告発する会」の会合に参加しました。五月の阻止行動の直前の会議で、私たち学生が何人か出席しました。会議では、「全存在を賭けて、補償処理委員会の回答を阻止する」と、東京での実力行動について熱っぽく討議されていました。
私たちは、大学での騒動をそれなりに体験していたので、ちょっと生意気な学生ではあったんですね。それで、私も余計なことを言ったわけです。「全存在を賭けるなんてことはできるはずがない」と。そうしましたら、渡辺京二さんから「しいことを言うな。これは浪花節だ」と一喝されました。それで、行きがかり上東京に行く羽目になりました。
東京では、百人ほどが、患者さんの遺影を先頭に厚生省の正面にデモをかけました。石牟礼さんもその中にいらっしゃいました。それは陽動作戦で、十六人が厚生省の裏の壁をよじ登りまして、(厚生省の内部告発派の職員の手引きもあり)裏側から中に入りました。まあ、不法侵入ですね、何階だったか忘れましたけれども、補償処理委員会の一室を占拠しました。それで、十六人のうち十三人が逮捕されました。
一連の逮捕に到る出来事は、私自身にとって自分で選び取ったというよりは、ある種の縁のなせるわざとしか言いようがありませんでした。この逮捕によって、私の水俣への関りが始まったわけです。
この阻止行動は、マスメディアを通じ全国に衝撃を与えました。公害問題がクローズアップされると共に、ラディカルな市民運動の出現と受け取られたわけです。
均質化への抗い
私自身についてもう少し説明しますと、当時全共闘運動に関わっていたわけですが、私はいわゆる活動家ではなく、クラブ活動で一年の三分の一はヨットに乗ってる、能天気な学生でした。ところが六八年末に大学でストライキが始まると、クラブ活動の暇な時期でもあり、ひょんなことから法文学部のリーダーになってしまったのです。どの党派にも属さずに、リーダーでありながら学生運動というものにそぐわない感じを持ち続けていました。アジビラも書き、アジテーションをぶつこともありましたが、当時風靡していた活動家風の用語は意識的に使いませんでした。学生達は大学の自治だとか大学の解体とかいうことを叫んでおり、政治的な革命が起こるようなことを言っている連中もいたわけですけれども、私はそういうことは一切信じておりませんでした。
ただ、やっていることが無意味だというふうには思っていませんでした。今考えると、それが何だったのか、自分なりに結論を出しました。それは単純なことです。六〇年代末から七〇年代というのは、日本が都市中心の社会にシフトし高度消費社会に突入するトバ口で、日本の市民社会が、都市も地方も急激に均質化していく時期なんですね。可能な限り人間を平準化、均質化することで社会システムを効率化し生産性を上げていこうという動きがあり、それが時代のニーズでもあったわけです。全国どこでも、町も人も金太郎飴化してゆく。学生達の騒動は、そういう時代の趨勢に対し、身をもってする「抗い」であったというふうに今は思っております。
スローガンが何であろうと、今から起ころうとすることに対する学生達の本能的な反応だったろうと思います。それに政治的なスローガンが付いたりするのはおまけで、表層的なスローガンと本質的な問題というのは、ぴったりと合っているわけじゃないということは、その後もいろんなところで見てきたことです。そう考えると、私が水俣病問題と出会ったのもある意味必然であったのかなとも思えます。
個別水俣病闘争
水俣病闘争は、患者さん達が訴訟に踏み切り、それを支援するということで始まったわけですが、裁判支援に止まりませんでした。裁判自体は、チッソという企業が自分たちの犯した犯罪の事実と責任を認めず、国家も行政もその責任を認めないという中で、被害者としてぎりぎりの選択であったわけです。しかし裁判そのものでは、患者さん達の積年の無念は晴らせない。裁判という近代法上のシステムでは、「損害賠償請求」という枠組みを、一歩も出ることは出来ない。じゃあ、殺されていった人たち、それから生きながら、劇症の病を負わされた人たちの無念というのは一体どうなるのかということです。
熊本の「水俣病を告発する会」は、裁判を徹底して支えることはもちろんですが、裁判では表現することのできない、患者、家族の思いをどういう回路で表現するか、裁判の枠から自由な場所で、どう表現するかということを追求したわけです。そして、その根拠になったのが、石牟礼さんが『苦海浄土』で描いた世界だったと思います。
この闘争を特徴づけるものは何だったのかというと、三つのことが言えると思います。一つは「個別性」、それから「直接性」、そして「異形性」ということです。
まず「個別性」というのはどういうことか。七〇年五月二十五日の厚生省への阻止行動をきっかけに、全国的に公害問題が浮上し、「反公害」闘争が盛り上がっていくわけです。水俣病というのは、重化学工場が起こした企業犯罪です。その私企業による企業犯罪を公害とよんだわけですが、それは水俣病だけではなくて、工業化社会の矛盾として日本全国で噴出していたわけです。そこで、全国各地の市民グループや労働組合が、企業犯罪を「公害問題」という形でって、企業や行政の責任を追及するということになったわけです。これはある意味自然なことです。
また被害者というのは工場周辺に住む民衆ですが、水俣病の場合ですと、大半は沿岸の比較的貧しい漁村の人たちであり、天草から渡ってきたような人たちです。そういう階層に集中的に矛盾が起こってくる。左翼的な概念で言えば、階級問題になる。つまり水俣病闘争は反公害闘争であると同時に階級闘争になります。
ところが、私たちは、従来の左翼や新左翼あるいは市民運動の概念にどこか馴染まなかったのです。水俣病を「反公害闘争」の一つと一般化したり、「階級闘争」であると位置づけてしまうと、どうなるか。被害者である死者たち、患者たち、その家族一人ひとりの具体的な「生」というものが、こぼれていくわけです。これは理屈以前の感覚でもあったわけですが、「公害問題」として一般化することを決定的に押しとどめたのは、やはり石牟礼さんの描いた世界だったろうと思います。
それで、私たちは「個別水俣病闘争」という言い方をその時にしたわけです。それは水俣の海辺で生き死にしていった人たち、その人たちの個別具体的な「生」あるいは「死」を、どう触知し内在化するか、どう思想化するかということだったと思います。
直接性の追求
それから「直接性」ということが言われました。それは何かといいますと、近代的な国家のもとでは、刑事事件に当たる問題が起こった場合には、当事者同士では解決できない、必ず国家が介在してくるわけです。たとえば自分の子どもが殺されたからということで、その親が相手を殺しに行くということは許されない。それを許容すると、国家の秩序も権力も成立しなくなりますので、法によって国家がそれを裁く、ということになっているわけです。そうしますと水俣病事件も当然、裁判という近代法的な枠の内でしか裁いてはいけない、ということになります。
実際に他の公害事件については、被害者による企業や国家に対する直接的アクションは、ほとんど見られませんでした。
機関紙「告発」創刊号に、「復讐法の倫理」と題して、石牟礼さんが書かれています。物騒なことばですけれども、ここで石牟礼さんが一つのイメージとして出されているのが「同態復讐法」、「眼には眼を」のハムラビ法典です。近代法の中で報われない問題、それをどうするか、そういうことで「復讐法の倫理」を書かれています。その文章の中に、患者家族の言葉として象徴的な言葉があります。
「銭は一銭もいらん。その代わり会社のえらか衆の、上から順々に有機水銀ば飲んでもらおう。四十何人死んでもらおう。あと、順々に生存患者になってもらおう」
こういうことを現実に実行することは不可能に近いわけですけれども、この言葉に凝縮された患者さんたちや家族の気持ちをどう表現していくか。それを一つの運動として、一つの闘争として、どう具体化していくか、ということが問われたわけです。運動は裁判支援を軸に行われましたが、同時に患者さんの生の気持ちを「直接に表現する方法」はないのかと模索し、それが闘争の形をとって行くわけです。
チッソ本社の自主交渉で、親を水俣病で失い、自身も患者であった川本輝夫さんは、社長に迫りました。
川本 社長、今日はな、われわれは血書を書こうと思ってカミソリば持ってきた。
社長 えっ。
川本 血書を書く、要求書の血書を。わしも切ってあんたも小指を切んなっせ、ほら。
社長 それはごかんべんを。
厚生省の斡旋を阻止しようと会場を占拠した時も、自主交渉でチッソ本社を占拠したときも、私たちは患者ではない、当事者ではない、支援者に過ぎないわけです。この直接性というのは、私の考えでは二つあります。基本的なことは近代法の枠組みを超えたところで、どう患者家族の気持ちを表現していくかということです。チッソの社長を含めた幹部たちと患者自身がいかに相対峙し、思いの丈をぶつけるか、ということです。
もう一つの直接性というのは、支援者の側の直接性です。水俣病事件における主体は患者さんと家族です。それを支援する部外者である人間たちに、何が出来るのかということが問われたわけです。従来の左翼的な概念でいきますと、いわゆる「大衆と知識人」という考え方があります。知識人が、大衆つまり患者さん達の意識を高めるよう指導していく、という考えがあります。つまり患者家族のチッソへの積年の恨みを、近代法や左翼的イデオロギーを通して普遍化していくという考え方です。
それは水俣病の運動の中にもありました。例えば弁護士は、患者たちの気持ちを裁判をとおして表現しようとするのではなくて、患者たちの被害を近代的な法の概念の中で解釈しようと考えていた。あるいは政治的な党派は、患者の存在を通して自分たちの政治思想を表現しようとした。しかし、私たちはそのどちらでもない、むしろ自分たちを無化していくといいますか、自分たちは、患者さんたちの表現の場を作るためだけに、そこで支えるということに徹する。それを「告発する会」代表の本田啓吉さんは「義によって助太刀いたす」というような言い方をされたわけです。古風な物言いで、左翼・新左翼からはそういうことが批判される、ということもあったわけです。患者さんの気持ちといいますか世界といいますか、それを可能な限り理解し、自分たちは黒子に徹するということです。
今まで自分たちがもっていたある種のリベラルで知的な言語であるとか、あるいは運動論であるとか、そういうものではとても理解できない。一度そういうものを棄ててしまう。そうすると何が残るかというと、そこには自分一個の肉体しか残っていない。ただ身をそこに横たえるという意味での直接性しか残っていない。厚生省での阻止行動で言われた「全存在を賭けて阻止する」というのは、そういう意味であったわけです。それはチッソ本社で行われた、患者とチッソ幹部との自主交渉の場を確保する時にも同様でした。
『苦海浄土』
さて、水俣病闘争の源泉になった石牟礼さんの作品『苦海浄土』にふれます。これは、ある意味では水俣病問題を告発した作品です。私は「告発」と言いましたけれども、それは私の粗雑な読み方でありまして、この作品は、水俣病事件を社会問題として告発しているだけではないということです。
『苦海浄土』は、第一回「大宅壮一ノンフィクション賞」に決まったんですが、それを石牟礼さんは辞退された。ノンフィクション賞ですから一種のルポルタージュ作品として優れている、と認められたということです。ところが渡辺京二さんは『苦海浄土』(講談社文庫)の解説で、ルポルタージュであることを否定して、「作品成立の本質的内因」でみれば、「石牟礼道子の私小説である」と書いていらっしゃる。
『苦海浄土』に描かれた世界は美しい。描かれた水俣病の悲惨も壮絶ですが、それだけではない。漁師や海辺で暮らす人間だけではなく、魚だとか貝だとか、それから川とか森とか樹木だとか、そこに棲む小動物や精霊たち、その自然と人間の交歓が極めて美しく描かれています。その世界はほとんど神話的です。その光景を『苦海浄土』からランダムに拾いあげてみますと、
「イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨ふきかけよるばってん、あのタコは、タコはほんにもぞかとばい。/こら、おまやもううち家の舟にあがってからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえとるとじゃけん。
わが食う魚にも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった」
「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。
これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」
一般的に『苦海浄土』は、石牟礼さんの聞き書きだと思われているわけです。水俣病が発生したあと、石牟礼さんは丹念に海辺の村々を歩いていますし、いろいろと取材もされています。しかしそれは詩人石牟礼道子によって描かれた一種のフィクションなのだ、ということですね。それはなぜか。「彼女が記録作家ではなく、一個の幻想的詩人だからである」と渡辺さんは記しています。『苦海浄土』に描かれている世界は悲惨です。しかし美しい。浄瑠璃の語りのように美しい。実際の会話がああいうふうに成立するはずはない、と思わせるほど劇的です。しかしそれは紛れもなく水俣病の患者の世界である。
ではなぜ、石牟礼道子は患者の世界が描けたのかということなんですけれども、じつはチッソという近代を象徴する企業によって崩壊させられてゆく世界は、石牟礼さんの世界なんですね。石牟礼さん自身が、天草から渡ってきた石工の娘です。それから、幼女の頃から気がふれていたおばあさんとの濃密な交わりがあり、弟さんは病んで鉄道自殺をする……、患者さん達が引き受けた世界というものを、石牟礼さん自身は自分の身内の中で生きていたということなんですね。
『苦海浄土』は、ルポルタージュや聞き書きではなくて、石牟礼道子の幻想的な私小説であると渡辺さんは言い、石牟礼さんが描いた世界のことを「もともとそれは、有機水銀汚染が起こらなくとも、遠からず崩壊すべき世界だったのではなかろうか」と書いています。ここには、石牟礼文学の奥行きの深さ、石牟礼さんの視ている闇の深さが暗示されています。
渡辺さんはある意味では、石牟礼道子という一人の表現者に対して非常に特権的な位置にいる方です。『苦海浄土』は、「空と海のあいだに」というタイトルで、渡辺さんの出されていた「熊本風土記」という雑誌に最初発表されたのです。そこで渡辺さんは石牟礼文学成立過程の、いわば秘密を知り得る場所にいらっしゃった、というわけです。
異形性
私たちの関わった水俣病闘争の性格を、「個別性」、「直接性」と言いましたが、もうひとつ「異形性」があります。
水俣病闘争のデモや裁判風景をご記憶かと思いますが、あの異様なる風景というのがあるわけです。「怨」という字を刻した黒い旗をなびかせ、「死民」という黒いゼッケンをつけてのデモンストレーションです。例えばチッソの株主総会に七〇年の秋に乗り込みますけれども、その時に患者たちは巡礼姿でまず高野山に参って、そのまま巡礼姿で株主総会に乗り込んでいきました。総会が始まると白装束で「御詠歌」を唱和したわけです。そういうものは近代市民の感覚からすると、禍々しくおどろおどろしい「異形のもの」に映ったはずです。
一方で株主総会は、極めて近代的といいますか、資本制を支える根幹の一つといっていいわけです。ですからそんなところになぜ行くのか、ということにもなるわけです。
これは、ある弁護士さんが発案されたのですが、あの当時「一株運動」というのがありました。例えば原発に反対するために一株を取得し、電力会社の株主として問題を提起するということがありますが、それはあくまでも資本制のルールにのって異議申し立てをするわけです。そのための入場券としての一株です。弁護士は、一株運動によって株主として異議申し立てをすることを考えた。要するに、企業責任をどうするのか、補償をどうするのか、ということを合法的に株主総会で提起しようとしたわけです。
この弁護士さんの発想と、それを受けた患者代表の渡辺栄蔵じいさんの発想は違いました。栄蔵じいさんはその時何と言ったかというと、ただ一言、「社長にものが言えますか」と言ったのです。資本制を支える「株券」じゃなくて、患者たちが思ったのは社長に直接にものが言えるかどうかということでした。裁判では代理人同士で話が進むわけで、当事者は何も言えないからです。だから直接にものが言える、ということが一番重要だったわけです。
私もその現場におりましたけれども、会場には総会屋と右翼がバリケードを築いておりましたので、そこに学生達と支援者が患者をガードして入ったわけです。そして株主総会は始まりました。混乱もありました。細かいことは憶えておりませんけれども、黙祷のあと鈴の音が響き「御詠歌」が始まりました。すると一瞬のうちに会場が静まりかえったわけです。その時は場を超えた感情といいますか、自然に涙が流れていきました……。それは異様なほど演劇的でした。
そのあと、浜元フミヨさんが社長に向かって声を発しました。「俺はもうおなごじゃなか、おとこになったぞ」と。会場の舞台に上がり、社長に向かって積年の思いを吐き出されました。浜元さんは、チッソ本社での直接交渉の時には、補償金の現金を社長につき返して、血の決済を求めました。それは、水俣の死者たちが憑依したような光景でした。
総会乗り込みは、患者さんが、社長に直接ものが言えるというその一点だけで実行しました。それはいわば一回性のことです。他の地域の「告発する会」のなかには、翌年も総会乗り込みをやったところもありますが、そこのところが熊本の「告発する会」の考え方とは違ったのです。毎年やるということは、株主の発言権としてのそれですから、患者がチッソ幹部にものを言うということとは質的に違ってくるわけです。私たちにとっては一回きりの株主総会になったわけです。
市民と「死民」
熊本の「告発する会」の中心メンバーは、教師だとか放送局の職員であるとか、新聞記者であるとか労組員とか学生でしたから、やはり知識層ですね。そういう知識層の市民が中心になっているので、一般的には市民運動と見なされたわけです。しかしそれまでの市民運動とは異質な色調を帯びていました。抽象的な言い方ですが、従来の政治運動や市民運動では、人間が直面している根源的な問題には、触れることができないという共通感覚があったということです。想像力を政治的に上昇させるのではなく、より深く下降させることで、「人間」を再生させようという感覚です。それが市民の権利としての運動へ上昇するのではなく、「死民」や「怨」という黒旗の「異形なもの」へと下降することで、未生の世界を幻視しようとしたということです。
では石牟礼さんにとって、なぜ「死民」なのか。
「私は〈水俣病死民会議〉という吹き流しを二十本作った。死者たちへの思慕を込めて。かぜにやさしく吹き流れるやるせない黒い布に、わたしは化身する。うつつの集団への親愛と訣別を込めて。わたし一人ならぬ〈私〉のそれはひそかな義務でもあった。(中略)こののっぺらとした鉄とコンクリートと造り花で飾られたみやこの(東京のことですね)穴ぼこのようなまなざしの中でこそ、呪術の復活はなされねばならなかった」(『石牟礼道子全集・不知火』(第二巻、藤原書店)
もう少し読んでみますと、
「死民とは市民という概念の対語ではない。
いや、市民といえばまぎれもなく近代主義時代に入ってからの概念だから、わがまぼろしの中の住民たちもたちまちその質を変えられてしまうのである。まして水俣病の中でいえば〈市民〉はわたくしの占有領域の中には存在しない。いるのは、〈村〉のにんげんたちだけである。このにんげんたちの愛恩はたぶん運命的なものである。
死民とは生きていようと死んでいようと、わが愛恩のまわりにたちあらわれる水俣病結縁のものたちである。ゆえにこのものたちとのえにしは一蓮托生にしてたちがたい。
さらにこの中にして、水俣病の総体から剥離し、情況とやらの裂けめに深々と墜ち続けてやまない影絵がある。そのような影絵のひとつをすくいとってみれば、ひき裂けたじぶんの情念の片割れであったりする。
わたくしの生きている世界は極限的にせまい」
水俣病によって亡くなっていった人たち、殺されていった人たちの、積年の思いを表現するためには、近代とは異なる回路を、やはり通らざるを得なかったということです。
では石牟礼さんの描く世界は、近代を忌避しているものなのか、失われたものに対するノスタルジーなのかと思われがちですが、そう単純ではない。
石牟礼さんは、その出自が、谷川雁主催の「サークル村」であることからもわかるように、一度「近代」の洗礼を受けています。信じられないことに石牟礼さんは、反安保デモにも市民の一人として参加しているのです。そのときチッソ工場への抗議行動からはぐれた漁民の集団数百人と、前衛党の反安保デモ隊数千人が偶然合流します。しかし前衛党の側は、漁民の心情の奥を感知することはできませんでした。
「〝おくれた、まだめざめない、自然発生的エネルギーは持つこともある、人民大衆〟とは何であろうか。常に組織される人びとを、常民とか細民、などとかねがねわたくしたちはわけしり顔にいう。おもえば、わたくしたち自身のさまよえる思想がまだ、漁民たちの心情の奥につつみこまれていた。最深部の思想が」(『苦海浄土』)
石牟礼さんの資質は、過去も未来も含めて、近代/反近代などという尺度よりはるか遠くを見ていたのだと思います。
近代的な文学は、「個」あるいは個と世界との関係を表現することが基本になっていると思いますが、概ね、自然は人間に対立するものとして描かれています。ところが石牟礼さんの作品では、人間と自然が対立するものとしては描かれていない。季節のめぐりのなかで人間と他の生類が交歓し、互いに呼びかけあうような濃密なコスモスを形成している。神話的という言葉を前にも使いましたが、歴史が形成される以前と見紛う世界です。
現実にそういう世界が存在するかというと、私たちにはその存在を感知することが難しい。しかし石牟礼さんには、それが視えるし存在する。ただ、私たち凡庸な人間といえど、そういう幻を希求せざるを得ないといいますか、幻を抱えていないと生きていけないということはあるわけです。石牟礼さんが描いた世界を理想にして、それを実現しようとしても不可能だろうと思いますが、人間の難しいところは、そういうものを一切なくして生きていけるかというと、生き難い。何かそういう、人間が根底に抱える問題を、石牟礼さんの描く世界は内包しているのではないかと思います。だから、それ自体も幻であったような水俣病の闘争が、一瞬現出したのではないでしょうか。
私は、水俣にいささか関わった人間として今日はお話をしておりますが、そのことが、今の私を呪縛してもいるし解放もしてくれていると言えるかも知れません。
こういうことを言うと、渡辺さんに怒られるかも知れませんけれども、私が述べた水俣病の運動というのは、やはり渡辺京二という一人の思想家の存在がなければ、具体化しなかったと思います。渡辺さんは水俣病事件について次のような認識を示しています。
「水俣病事件の輪郭は、社会学的・政治学的に観察し叙述しうるような一公害現象、一社会問題の範囲をはるかに超えている。水俣病はそれに関わるものをおのずと日本近代の深奥部に導くのみならず、人間存在の解きがたい暗部にまでふれさせずにはおかない」(『水俣病闘争──わが死民』現代評論社)
石牟礼道子の作品世界があって、そこから喚起されたものをひとつの「闘争」という具体的な形にするには、さらに読解する力と構想力が必要だと思います。渡辺京二という希有な思想家が、石牟礼道子の世界を受けとめ読み解き、それを運動の形にするという作業があって、水俣病闘争は、戦後運動史のなかでも特異な痕跡を残すことになったのではないかと思うのです。
水俣での体験
最後に、私自身の小さな体験をお話しして終りたいと思います。
ほんの短い期間でしたが、患者さんのお宅に手伝いに行ったことがあります。茂道の漁師杉本さんのお宅です。
杉本栄子さんのご主人が入院されておりまして、それで、手伝いが必要ということで行ったわけです。朝暗いうちに起きて、エンジンを起こして漁に出るんです。二艘の舟で出て、円を描くように取り囲んだところで魚を追い込み、網で揚げるわけです。いりこが獲れれば、すぐ陸にあげて、大きな釜で茹で天日干しにする。私がヨット部だったことが少し役に立ったわけです。
漁から帰って朝飯を喰うと、今度はおばあさんと畑に行きます。二人で畑仕事をして、昼になるとそこら辺の枯れ草を集めて太刀魚の一夜干しを焼いて昼飯を食う。一仕事して戻って来ると、今度は夕方のボラ漁があります。茂道はボラがよく獲れるところでして、ボラの刺身ってのは非常にうまいんです。ネズミ獲りを二回り大きくした籠の中に、だんごにした餌にさなぎやマーガリンを入れたりして、岸から遠くないところに朝仕込んでおきます。その籠を、夕方行って引き揚げるわけです。大きなボラが二、三本入った籠が、バタバタバタと躍動するように上がってくる。これを揚げて、しめて帰る。
杉本家には、男の子が四人か五人いましたが、一番上が小学校五年生ぐらいでした。その子どもたちを五右衛門風呂に入れた後、ボラの刺身で晩飯を食いちょっと焼酎を飲む。すぐ眠くなるので、おばあさんと枕を並べて寝ていました。その頃は、おばあさんだと思っていたんですけれども、今考えると、今の私とあまり歳が変わらないんですね。
それで、そうした日々を過ごしたんですが、その時に不思議な感覚がありました。実は私は生まれは鹿児島で、町中の住宅地に住んでいたんですが、私が小学生の時、突然お袋が親戚からシラス台地の上の畑を借りて、百姓を始めたんです。それで、日曜日ごとに畑に連れていかれたんですね。これが嫌で嫌でしょうがなかったのです。
うちの母親もまったくの庶民で、水俣のおばあさんとほとんどメンタリティは変わらないと思うんですが、私が大学で騒動をしていた時に、母親や父親には、自分が今何をやっているのか、何とか説得しようとしたのですが、うまく説明できませんでした。話が通じないわけです。説明しようとしても。しかし水俣では、そういう気持ちがまったく起こりませんでした。ただ二人で畑仕事して焼酎飲んで寝て、時々「おまえはよか奴やから」と、隠していた酒を出して飲ましてくれたりしていました。そこでは、ことばが必要ないといいますか、私自身そういうことを説明する必要を感じませんでした。
当時全国から沢山の学生たちが、水俣に入ってきました。ヒューマニスティックで良心的な学生から、患者さんをオルグしようなんて思う者まで来るわけです。そういう者に対してはなじめないものがありました。そういう時は、ひたすら小さい漁舟の淦汲みなどをしておりました。
もう一つ私にとって忘れられないのは、杉本家の網子で、同い歳位の青年がいたんです。彼は中学校を出た後、あちこちを転々としては水俣に戻ってくる。彼の家に行くと、昼でもまっ暗で、家族も複雑な問題を抱えていました。漁に出ても二人ともあまり喋らないんですけれど、夜になると、ボウリングに行こうと誘いに来るわけです。こちらはそんな気にならないんで断っていましたが、それでも一回は付き合いました。
ボウリングをやったあと、彼の車でドライブするんですが、凄まじいスピードで走るんですね。夜の道を闇雲に暴走する。彼は何か怒りを抱えていたわけです。爆発しそうなものを抱えていた。二人の間では、そのことについて会話することが出来なかった。彼は、その後また水俣を出て行きました。
私にとっては、水俣の体験というのは運動に加わったというよりは、そこで会った水俣の患者さんや家族の人たちの「生」にいくらか触れたということにつきます。
整理されない話で申し訳ありませんが、これで終わりにします。どうもありがとうございました。
(二〇〇六年十一月)