石牟礼さんと初めてお会いしたのは、一九七〇年の春だからすでに三十六年前のことである。私は二十二歳。まだ大学に籍だけはあった。最近では、年に一度もお会いすることはないが、お会いするとやさしく「ご飯食べてますか」と微笑される。その度に、欠食児童のような青臭さを引きずっている我が身には、石牟礼さんの慈悲の眼差しが痛く沁みる。二〇〇一年には、私の小さな出版社を見かねて、「詩集を出しませんか」とお声を掛けていただいた。この年は、「9・11」という世界史的な事件に小社も巻き込まれて、「生類たちのアポカリプス」と銘うった全詩集『はにかみの国』は、翌夏の出版になったが、石牟礼さんの本が出せるというだけで嬉しかった。わたし自身は詩集を編集することで、石牟礼さんの作品にいつも鳴り響いている音楽のようなものの秘密を、少し理解できたような気がした。
昨年(二〇〇五年)は、「石牟礼道子と水俣病運動」というテーマで話す機会を頂いた。この二十年近く、水俣病の運動だけでなく「運動」というものにはコミットしていないので、ためらいはあったが、七〇年代初めの水俣病闘争に関わったひとりとして、いくらかでも当時のことを整理できたらとお引き受けした。
その時には、三つのキーワードで話をさせて貰った。
それは、「個別性」、「直接性」そして「異形性」という言葉である。要約すると、「個別性」とは、水俣病問題を「公害問題」として一般化しなかったこと。水俣病闘争を「反公害闘争」と普遍化しなかった、ということである。「直接性」とは、近代法上では「損害賠償請求事件」として争われた水俣病事件だが、「闘争」としては、水俣病によって殺された死者や患者の積年の思いを、如何にして「直接的に」表現することが可能かを追求したことである。その前提になったのは、死者と患者とその家族個々の「生」や日常であったが、闘争が暗黙のうちに依拠したのは、石牟礼さんの『苦海浄土』に表現された世界であった。
そして「水俣病闘争」を他の近代的市民運動から際立たせていたのが、その「異形性」だったのではないかということである。「異形」というのは、「近代」という一つの運動が、その論理の整合性や明晰性を追求する過程で排除していった諸々のことである。その象徴が「死民」であり「怨」であったように思う。石牟礼さんは、『苦海浄土』第二部で、排除された側のことを次のように記している。
「おのれ自身の流血や吐血で、魂を浄めてきたものの子孫たちが殺されつつあった。かつて一度も歴史の面に立ちあらわれることなく、しかも人類史を網羅的に養ってきた血脈たちが、ほろびようとしていた」(『苦海浄土』第二部「神々の村」『石牟礼道子全集・第二巻』藤原書店、所収)。私は、話をするために、『苦海浄土』と幾つかの著作を読み直した。あらためてすごい作品だなと思いつつ読んだのだが、私はその講演のなかで、『苦海浄土』は、公害告発のルポルタージュではなく「フィクション」である、と喋っている。もちろんこれは、渡辺京二氏の「『苦海浄土』は、詩人石牟礼道子の私小説である」という「解説」(『苦海浄土』講談社文庫)に拠っている。
ところが、そう喋った後からどうにも落ち着かないものが残った。つまり、ルポルタージュではない、というのにはそれ程の抵抗はないのだが、「フィクション(虚構)」と言ってしまったことが、引っかかっていた。また最近、新聞記者による『苦海浄土』の解説の冒頭、「苦海浄土は、いまでは小説に分類されている」という内容の一文に出会った時、軽いショックを受けてしまった。あきらかにこの記者は、渡辺さんの解説に引きずられているわけだが、渡辺さんが述べているのは、「作品成立の本質的な内因」からいえば、聞き書きでもルポルタージュでもなく、「石牟礼道子の私小説である」ということである。ややこしいが、初めから『苦海浄土』を小説として読むという「緊張の無さ」とは無縁である。私にとっては、渡辺さんのすぐれた評言を前提にしながら、『苦海浄土』が如何なる作品であるのかという問いが、あらためて残ったということである。
(二〇〇六年五月)