幻を組織する人──『苦海浄土』第二部『神々の村』を読んで

石風社刊 『出版屋の考え休むににたり』「石牟礼道子ノート」より
福元満治
2025/06/27

『神々の村』は『苦海浄土』三部作中第二部にあたるが、第三部『天の魚』刊行後およそ三十年という、変則的な経過を経て出版されている。その辺りの事情については、単行本巻末解説(渡辺京二)に詳しい。渡辺氏は、『神々の村』について、「水俣病とは何であったか、そのことをこれだけの振幅と深層で描破した作品はこの『第二部』以外にこれまでもこれからもあるはずがなかった」と記し、三部作の構成について次のように評している。

「『第一部』が「ゆき女聞き書き」に代表されるように、彼女の天質が何の苦渋もなく流露した純粋な悲歌であり、『第三部』がトランス状態で語られた非日常界であるとすれば、『第二部』は水俣病問題の全オクターヴ、その日常と非日常、社会的反響から民俗的底部まですべて包み込んだ巨大な交響楽といってよい」

『神々の村』が描いているのは、水俣病事件史としては、一九六八年の国の公害認定から六九年の患者家族によるチッソ提訴(患者家族の一任派と訴訟派への分裂)、七〇年五月の補償処理委員会会場占拠、同年十一月のチッソ株主総会乗り込みまでの期間ということになる。

 本書は、水俣病事件史と「運動」の時間的流れを一つの軸として記述され、患者・家族の苦難を抱えた日常やその思いを核に、水俣病をめぐり責任回避や傲慢な対応をとるチッソ幹部や国の官僚たち、また患者・家族を支援する市民組織や労働組合、さらに患者・家族を誹謗中傷する住民などあらゆる人々が群衆劇のように登場する。それらは時間を自在に行き来し、相互に響きあい、ノイズをも吸収しながら壮大なスケールの世界として描き出されている。それゆえ本書は、読み手の視線・関心によってさまざまに多義的な相貌を見せることになる。そのことは、水俣病問題の多義性・多様性というよりは「逆説的で重層的豊かさ」というものを思い知らされることになるのだが、本書が描かれた視点は一貫していて、それは次のような人々のものである。

「学校教育というシステムに組みこまれることのない人間という風土。山野の精霊たちのような、存在の原初としかいいようのない資質の人々が、数限りなくそこにいる。愚者のふりをして」

 存在の原初としかいいようのない愚者のふりをした人々とは、近代的な知によって理念化された「大衆」という存在のことではない。近代的な枠組みとしての、「知識人と大衆」という対概念ではすくい上げることのできなかった非知的な存在のことを、著者は次のように記す。

「ありとあらゆる賤民の名を冠せられ続け、おのれ自身の流血や吐血で、魂を浄めてきたものの子孫たちが殺されつつあった。かつて一度も歴史の面に立ちあらわれることなく、しかも人類史を網羅的に養ってきた血脈たちが、ほろびようとしていた」

 石牟礼道子という表現者は、『苦海浄土』だけでなくそのあらゆる作品の中で、「かつて一度も歴史の面に立ちあらわれることなく、しかも人類史を網羅的に養ってきた血脈たち」のことを描き続けてきたのだと思うが、著者のこの言葉の前に、「知識人と大衆」という言葉を置いてみると、如何にこの対概念が貧しく見えることか。しかも戦後の労働運動から市民運動まで、あらゆる左翼的な政治運動というものが、この対概念の呪縛の外にでることがなかったことに思い至ると、なにか寒々としたものが背筋に走る。

 本書を、運動論的な視点で読むことは邪道である。本書の作品としてのモティーフも作品としての魅力もそういうところにはない。しかしそれを承知で、あえてそのことに触れてみたい。

 著者は、次のように述べている。

「一人の人間に原罪があるとすれば、運動などというものは、なんと抱ききれぬほどの劫罪を生んでゆくことか。人の心の珠玉のようなものをも、みすみす踏みくだかずにはいないという意味で」

 これは水俣病患者互助会の会長であった篤実な老漁夫が、苦悶の表情のまま亡くなったことに対する著者の述懐の言葉である。昭和四十三年(一九六八年)の水俣病の公害認定を機に結成された患者互助会は、チッソが患者に示した「確約書」(水俣病の補償問題については第三者に一任し、その人選も結果も一任するという)をめぐって、「一任派」と「訴訟派」に分裂する。結果として「訴訟派」の患者・家族は世の脚光を浴びることになり、「一任派」の患者・家族は闇の中に沈むように私たちの視界からは退場してしまった。先の会長は、「一任派」としての責務を果たした後に亡くなったのである。私たちは、「訴訟派」の患者・家族に「正義」を見ることによって、「一任派」の人々にその影を見がちである。しかしことはそう単純ではない。

「訴訟せん人間ば、犬畜生のごついいよる。弱か人間ば犬になして、敵にまわして、市民会議は、なんばするつもりか」。労組のオルグ式に患者宅を回る市民会議のことを、会長は忌避したという。顔が「あのようにひきゆがんでいた」のは、分裂ということだけが原因ではない。「より深いところで文明の毒を注入された精神の土壌の苦悶」が滲み出たのだ、と著者はいう。

「動き出している運動体に対して、私一人の気持ちをいえば、集団というものになじまないものをひそかに持っていた」と記すように、石牟礼さんという人は、運動の人ではない。しかしその人が、次のようにも記している。

「市民会議の限界を補強する、もう一つバネのきいた行動集団を、いよいよ発足させねばならぬ時期になっていた。組織エゴイズムを生ましめない、絶対無私の集団を。(略)いっさいの戦術は、この国の下層民が、いまだ状況に対して公に表明したことのない、初心の志を体し、先取りしたものでなければならぬ」。さらに「これにかかわるとすれば、思想と行動とは、その人間の全生涯をかけたある結晶作業を強いられる。そのような集団をつくれるだろうか、つくらねばならぬ、とわたしはおもっていた」

 市民会議とは、水俣病対策市民会議のことである。市民会議は公害認定を機に水俣市に発足した、患者・家族の支援組織である。地元の教職員や市役所職員によって構成されていて「肩書き外した個々人の集まり」のはずだった。だが「組合用語が、それぞれの職種をつないでいるらしく、彼らはそれを手放さなかった」

 市民会議が発足して患者互助会と初会合をもった席では各組織の顔役が挨拶し、オルグやタンサンやキョウセンなどの言葉が連発された。それらの組合用語はばあ様たちの耳を素通りするばかりで、ばあ様たちの私語は「蟹たちが路地の日だまりや砂地に寄って泡を吹きながら、しわしわ囁き交わしているあののどやかな景色」のごときものになった。労組出身の革新議員は嘆息したという。

「ぜんぜん、会議にならんですな。婆さんたちゃ、井戸端会議に来とるようなぐあいですもんねえ。いやあ、しかし、彼らはソシキロンを知りませんからねえ」

 もちろん、市民会議に集まった労組員たちは、患者家族の苦境を理解しようとしていたのであり、良心的に支えようと考えたはずである。さらに労組員といえ、もとを辿れば漁民か農民の血脈に繋がるものであり、「存在の原初としかいいようのない資質の人々」と同様の資質や言葉を無意識の底に沈めていたはずである。

「既成オルグたちに、初心の含羞がないわけではなかった。けれどもひとりの人間が背負っている原罪が、集団の原罪となるときに、それはゆっくり倍音のごときを発して、もとの心音がかき消える」

『神々の村』に描かれた世界は、世俗の「運動」とは最も遠い世界である。石牟礼さんという人は、運動と最も遠いところにありながら、運動によっては決して表現されることのない幻を、組織しようと試みた人でもあるように思えるのである。

(二〇〇七年一月)

          

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