絵画の制作過程というものが、これほどスリリングなものだとは知らなかった。それはまさしく一個の「ドラマ」ですらあった。ああ、これほどの深い快楽(苦痛も含め)があるからこそ、画家たちは、自分の楽屋について語りたがらないのだ──と、私には思えたほどだった。
通常、私たちが絵に接する場合、それはすでに完成され、独立した一つの作品として提出されている。そこには、とりあえず作家は存在しない。あえていえば、作品にとって作家の存在は過剰な饒舌に過ぎない。つまり私たちが作家を必要とするのは、あくまでも作品のより深い理解のためだけである。その時、私たちは、作品の側からその作品の制作過程(時間)を、作家とは逆の流れに向かって遡行しようとするわけである。
そういう、絵画に対する素人の常識的な理解からすれば、映画『水俣の図・物語』(土本典昭監督、青林舎製作)は、秘すべき画家の制作理念と制作過程を、いともあっけらかんとドキュメントすることによって、それを一個のドラマにまで仕上げようとした記録映画である。
縦三メートル、横十五メートルの大障壁画『水俣の図』を描く丸木位里・俊夫妻は、『原爆の図』十四部作でつとに世界に知られる画家である。その後の画集『南京大虐殺』『アウシュビッツの図』とみてゆけば、両氏の制作態度の極めて明快なことがわかる。両氏は『原爆の図』以来一貫して、権力による民衆の虐殺を描きそれを告発しつづけてきたのである。位里氏は言う。「人民はいつも殺されてきた」と。両氏が水俣へ至る回路も、この『原爆の図』の延長線上にある。俊氏は言う。「水俣はゆっくりゆっくりひどいことが起こってくる。ヒロシマ、原爆なんです」
位里・俊氏の画業には、人類の歴史というものを、虐殺されたものの側から再構成してゆこうとする倫理的で強固な意志がうかがえる。それは両氏が世界を認識するために獲得したフレーム(枠)でもある。両氏にとっては、水俣病問題も、初めからそのような倫理的な枠組みでとらえられていたといえる。つまり両氏の「虐殺される人民」というフレームでみれば「ヒロシマ」も「南京」も「アウシュビッツ」も「水俣」も「その根っこの所では、ひとつ穴のムジナ」(俊氏)ということになる。
そういう認識のうえで、両氏は水俣の惨状を巨大な和紙に描く。水俣病におかされ、指が枯れ枝のように屈曲し、よだれをたらし座り込んでいる少女を中心に、死者や患者たちの群像が克明に描かれる。人だけではない。猫やカラスやタコなどあらゆる不知火海の生類たちも描かれる。俊氏が一人ひとりの人物をリアルに描き上げたところで、位里氏が縦横に墨を流して白い和紙を染めてゆく。その一つひとつの純粋に手仕事としかいいようのない動きが、私を静かに興奮させた。そして一枚の巨大な地獄絵が出来上がる。
いうまでもないことだが『水俣の図・物語』は、絵画という表現行為をモチーフにした記録映画である。ここでは水俣病という現実とストレートに向き合っているのは、丸木位里・俊という画家である。したがって、映画は水俣病の現実そのものではなく、画家が水俣病をどう作品化するかという問題、つまりいかなる回路でもって表現者が水俣に至るか、という問題を必然的に照らし出すことになる。
「苦海」としての水俣を描き上げた画家たちは、再び水俣現地を訪れ、二人の胎児性水俣病の少女に会い、その精神世界の深さにうたれる。その出会いが、位里・俊氏に「浄土」としての水俣、よみがえる水俣をこそ描かねばというように促す。画家は、二人の少女にまるまるとした赤ん坊を抱かせた母子像を描く。「希望」を象徴する幻想の母子像である。映画は、この母子像が描かれる過程で終る。
私は二人の画家の制作の過程には、ある種の興奮を感じた。だが、そこから決定的な刺激を受けるということはなかった。今、そのことの意味を考えている。
もちろん衝撃を受けたシーンもあった。皮肉なことに、それは絵画とは直接関係のない数秒のシーンだった。母子像のモデルになった二人の少女が並んで小さな部落の海辺を歩いていく。カメラがその後ろ姿を写す。二人は何ごとかを語らいながら、一瞬顔を見合わせ、フッフッと笑ったように見えた。それから漂うようにして二人の肩がコツンとふれて離れた。たったそれだけのシーンだった。
これは私の単なる思い込みかもしれない。ただ私には、人類史の闇をも抱え込んだ水俣の核心に至るには、「虐殺される人民、闘う人民」という倫理的フレームによってではなく、あの二人の少女の後ろ姿に間違いなく流れていた人類史の時間に至りつく回路を見つけ出す以外には、ないように思えたのだ。
(一九八一年十月)