秋の初め(2004年)賢治祭の開かれた岩手・花巻市を訪ねた。イギリス海岸(北上川)の畔に立ち、羅須地人協会の看板のある建物にしばし憩い、宮沢賢治の実家で命日の精進料理を頂いた。そして、イーハトーブと賢治が呼んだ町にあって、夢野久作を生んだ福岡の町を思った。
花巻の町はよそ者の目から見ると、賢治一色である。町全体が賢治という視点から読み直されたテキストといってもよい。さてわが町、福岡はどうか。久作資料館もなければ近代文学館もない。福岡の町を久作的視点で読み直せばいかなることになるか、と思っていた時にこの本に出会った。
多田茂治著「玉葱の画家青柳喜兵衛と文士たち」(弦書房)は、夢野久作や火野葦平の挿絵を描き、画家として詩人として異彩を放ちながらも三十代で夭折 した、博多人の評伝である。
私は、博多川端の青果問屋にして武道家、通称「蓮根屋」の青柳喜平を父とするこの画家のことを、正直知らなかった。いや、それとは知らずに見た一枚の絵だけにはその色とともに強烈な印象が残っていた。その喜兵衛による夢野久作の赤っぽい肖像画を、私はこれまで久作の自画像だと思い込んでいたのだ。
この二人の背後をみれば、筑前勤王党から玄洋社までの血脈・人脈が地下茎のように横たわっている。周知のように、久作の父、杉山茂丸は。頭山満とならび明治・大正政界に隠然たる影響力を持った怪人であり、喜兵衛の父は頭山らを育てた向志塾の高場乱と同じ流派の武道家である。
浅からぬ因縁ながら、二人は久作の新聞連載小説「犬神博士」の挿絵画家として出会い、その関係は久作の早すぎる死によって断ち切られるのだが、玄洋社的なるもの、あるいは強大な父の桎梏から逃れるようにして文学や絵画に向かった二人の才能は暗示的である。
本書は、喜兵衛の交友関係を周辺の文学誌によって丹念に掘り起こし、政治から文学まで様々な光源を交差させ、今、福岡の風土が失ったものを、陰画のように照らし刺激的である。