「自由と蜜蜂」上

重松博昭
2024/09/20

 最近、蜜蜂が来なくなった。以前は春の盛りに、丸太小屋の床下に放置していた空の巣箱に、巣別れした群れがいつの間にか住み着いていたものだが。梅やグミやスモモ、梨、柿、栗等々の花々に舞う蜜蜂もぐっと減ったような。

 最初に蜜蜂を飼ったのは、私たちがこの地に来て三年目の1976年4月上旬だった。早朝の1時間、久留米市へと軽トラックを走らせ「久留米養蜂」店舗前に着いた時まだ暗かった。用意されていた木製の巣箱(横43cm    縦44cm高さ34cm)二つを積み雑草園に戻った。白々と明けていた。蜜蜂は普通、夜は全員巣箱の中にいるので、早朝の暗いうちに出入口を閉めてなるべく早く運ぶ。もちろん夜間に運ぶ手もあるが、私は夜はお休みと決めている。あらかじめ南向きの緩い傾斜地の草を刈り、均し、ブロックを据えたその上に巣箱を下した。覆面布(ナイロン製で頭部は布、顔の周りは網)をかぶり、燻煙器(金属製の細長い薬缶みたいなものにフイゴが付いている)の中で紙、ぼろ布を燃やしフイゴを押し、口から出てくる煙をかけながら(蜂がおとなしくなる)巣箱の出入り口を開けすぐに後ろに退いた。何のためらいもなく無数の蜂たちが大空へと舞い上がっていく。

 実は私はまったく乗り気でなかった。大抵がそうであるように今度もノンが始めた。そもそも私は痛みにてんで弱い。あの分厚い蜂の群れに包まれた時の閉所感も悪夢のようだ。彼らにはこちらの思いがまるっきし通じない。喧嘩のしようもない。空気を殴っているようなものだ。ただただ逃げるしかない。

 そういう訳でほとんどの作業はノンにお任せしていた。初めてにしては健闘していたようで5月、6月とぐんぐん蜂は増えていった。蜜切り(採蜜)だけは私もやった。ヘルメットに覆面布、上下の厚いゴム合羽に長靴にゴム手袋の重装備で。温度湿度最高潮の梅雨入り直前の日中に。滝のように汗が流れ前が霧のよう。手足の動きも鈍い。ろくに燻煙器の煙も出ないまま(これがけっこう難しい)巣箱の上蓋を開けると、バチバチと蜂たちが飛び掛かってきた。さすがに合羽に針は通らない。中には横40cm強、縦20cm強、幅が2,3cmの巣が立てて9枚並んでいる。その一枚を両手で持ち上げ、びっしりと群がる蜂をゆすって落とす。さらに蜂たちの攻撃は激しくなる。なにしろ数も勢いも最高潮だ。その音と熱気にブワーンと包まれる。首と顎に鋭い痛み、面布の中に何匹か入っている。すべてほっぽらかして逃げた。面布を脱ぎ、刺さっていた針を除き、面布をかぶり直し、いざ出陣、もう執念で巣を強奪し人間小屋に逃げ帰った。ノンが手回しの遠心分離機にかけた。さらさらと流れ落ちる蜂蜜が息を呑むほどに美しい。一点の濁りもない天国的甘さだった。

 その後がいけない。新しい女王蜂が成長してくると、旧女王は大群を引き連れ逃げ出してしまうのだ。さらにダニの大量発生、そして秋のスズメバチの襲来で全滅してしまった。

  それから3,4年後のことだった。養蜂家の清水勝美さんとの出会いは。彼は40過ぎ、中肉中背のどちらかというと細身、昆虫学者といったほうがふさわしい風貌と博識ぶり、養蜂技術は第一級だった。蜂場の一つに行って驚いた。きれいに刈られた草原に整然と20ほど巣箱が並ぶ。よく乾いた籾殻を使うので燻煙が実に楽で安定し長持ちする。一つ一つの動作が悠然と無駄がない。何より蜂がケンケンと飛び掛かってこない。全体が流れのようだ。生き生きとして勢いがある。優秀な蜂群を選び、育て、増やしていかねばならないとか。

 表情もしゃべり方も穏やかだがこと養蜂に及ぶと目が光ってくる。理路整然とじっくりと話してくれる。蜂の生態はある意味数学的だ。第一巣からして精密な六角形だ。この巣房は働蜂房、雄蜂房そして小指の先のような形の女王蜂が出てくる王台にきっちりと分かれる。女王は一群に一匹、もっぱら産卵のみ、雄は交尾のみ、あとはすべて働蜂が担う。卵からウジ、さなぎ、成虫とそれぞれ日数が決まっていて、働蜂は産卵後21日で成虫になる。働蜂と女王と卵はまったく同じで巣房と餌の量が違うだけ。普通、蜂群が最高潮に達する春の盛り、王台が働蜂によって作られ、産卵から16日で女王は王台を食い破って出てくる。その前に王台のある巣を取り出し分けておかないと、旧王が群れのざっと半分を引き連れ逃げ去ってしまう。なーるほど、そういうことだったのか。

「このバリバリの資本主義社会ニッポンで、土地や建物や樹木や果物や野菜や花はほとんどが誰か(何か)の所有物ですが、花の蜜はすべて誰のものでもない。自由に採っていいんです。蜜蜂に侵入罪は問われませんしねえ」

 つまり巣箱を置く場所さえ確保できて、蜂が飛んでいける半径2㎞以内に蜜源さえあれば養蜂はできる。大都会のマンションでも。例えば大東京のど真ん中、皇居(大量の蜜を出すユリノキの群れがあるとか)周辺とか。 

 この無所有の身軽さが気に入った。なんて自由なんだろう。養蜂技術さえ身に付ければ日本各地に移住できる。場合によっては海外にも。ただし花を求めて日本縦断といった「転地養蜂」をする気はなかった。一か所に落ち着く「定地養蜂」でも菜の花やレンゲ、様々の樹木の花さえあれば十分やれそうだし、田畑や果樹等自分の食べるものを作れた方が楽しい。ちょうどこの頃、水の豊かな地に移り住みたいと思っていた。雑草園には流れ水がないし井戸も難しい。紀伊半島南端の奥地、大分県宇佐市熊、石垣島・・・近くでは英彦山、赤村・・・南米パラグアイでローヤルゼリーを採る養蜂をという話もあった。

 1980年晩秋のわがバラックの火事・全焼で、かえって他に移り住む気はなくなった。まずはこの雑草園で生き抜かなければ。蜂には力を入れた。養鶏から養蜂に切り替えたいと思った。

                                         続く    2024年9月12日

 

 

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