山椿

重松博昭
2014/03/18

 2月といえば、やはり梅だろう。一年中で最も寒い時期に花を咲かせ、春の盛りの直前、未練なく散る。
 まるで梅の花のような透明感が印象的だった。ドイツからやってきたMsアレクサンドラ(20歳)、底冷えの一ヶ月、よく耐えたと思う。妻がどこへと問うと、地球のすべてに行きたいと言って旅立っていった。
 彼女が残したドイツ料理を紹介しよう。まず「ブラートカートフェルン」、ポテト・バター・ベーコン。なんでこんな絶妙な、そしてポピュラーな組み合わせを、と不思議に思うくらい、わが家では初めての体験だった。素材の良し悪しがもろに出てくる。ベーコンは市販の豚肉のかたまりを妻が苦労して燻製にしたもの、及第点だったが、わが家のじゃがいもが残り少なく、味も落ちていたのが残念だった。ついでフリカデレン、豚ミンチ・卵・玉ねぎ少々をこね、外側にパン粉をまぶしバターで焼く。ハンバーグと似て非。乾いた濃厚な肉の味。
 3月1日、朝食後、JR筑前大分駅にMrフランソワ(29歳、フランス人)を迎えに。彼は待っていた。あご髭のがっしりとした長身、柔らかで澄んだ表情、日本語は少し、私の英語も少しだが、すぐに打ち解けた。妻とも意気投合、彼はエンジニアだが、将来を模索中、自給的農を視野に入れて、ここ日本では、広島、島根(浜田)、山口(防府)、高知(大歩危)と農家を回ってきたとか。
 昼食のキムチチャーハンをきれいに食べた後、草取り・鶏の草やり、そして妻のちらし、いなり寿司作りを手伝った。五右衛門風呂もすでに体験ずみ。
 翌早朝から、一つ一つの仕事を楽しげに力強くやってくれた。いつも私たちのことに心をくだいて。年はずっと若いが、私より大人だったような。年は関係ないなと、これはここ数年ウーファーさんたちと付き合ってきての実感なのだが、年は取ってもちっとも賢くなっていない、人生が分かっていないと、反省するでも悔やむでもなく、淡白に思う。
 私は必要に迫られた以外は、あまり相手の目を見ない。逃げている、避けているのでは必ずしもないと、近頃思っている。もちろん一対一で直(じか)に対しなければならない時はある。だが、後ろ姿を、全体を、存在を感じる方が、空(くう)を見つめながら、声を、匂いを、気配を感じる方が、魂と魂の交感ができるような気がする。互いに見つめ合うのではなく、大空を眺め、風に吹かれ、共に大地に汗を流している方が、異と異とが末永く共存できるような気がする。
 特に男と男の場合、それしか絵になりませんよね。高校のサッカー部の時からの無二の親友、玄が来た時もいつもそうだった。黙々と土を起こす。黙々と食べ、飲む。黙々としゃべると言えば妙だが、そうとしか言いようがない。彼は在日韓国人二世で、彼の父親はチェジュ島出身。彼らは私にとって、わが家族と同様に大切な人たちだ。
 簡単に、「韓国」、「朝鮮」、「日本」と括(くく)って欲しくない。その一人一人と接してないくせに、というより接してないからこそ、知らないからこそなのだろうが、「朝鮮人」、「韓国人」を誹謗中傷しないで欲しい。
 私達は人間としての品性、誇りを、立場の違う人々への、そして自分自身への、謙虚な覚めた目を取り戻さなければならない。

 フランソワは料理が得意なようで、3日目、夕食に肉パイを作るという。それを聞いて、妻と私は懸念の眼差しで顔を見合わせた。2010年の暮れから、やはりフランス人Mrマキシムが滞在して、丸太小屋の会の忘年会のために、「ラザニア」を作った。バター1本強、チーズもひき肉もそれ以上にたっぷりの絢爛豪華な一品だった。私達、会のメンバーは、彼が切り分けてくれた皿を恭(うやうや)しく頂き、待望のひとさじを口に入れた。一瞬の沈黙の後の感嘆のざわめき……。だが二口目を食べた人がいたかどうか。あまりに濃厚過ぎたのだ。
 幸い、フランソワの肉パイはバターも肉もあのラザニアの半分以下で、玉ねぎは多め、シンプルでさっぱりしていた。バターの香と生地のサクサク感が食欲をそそる。数日後の彼のアップルパイは参考になった。りんごを煮ずに、薄く切った生を丹念に並べカスタードクリームを流し込み焼く。

 彼が去った日の翌3月11日の早朝は冷えた。野や畑一面に湧くハコベ、カラスノエンドウ、キツネノボタン等の新緑が、青白い霜に固く凍てついていた。暗い雑木林のあちこちに、長い冬の間咲き続け、春になってさらに存在感の増した山椿の深紅が静かに息づいていた。
 まだ日の登らぬ東の山に向けて、私は手を合わせた。

                      2014 3・15

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