風のように

重松博昭
2013/09/03

 八月半ば、朝五時過ぎ、ようやく闇の壁が林の奥へ溶け去った青白い世界に、ハッサンと第一歩を踏み出した。日の出までの一時間とちょっと、この猛暑の一日の中で唯一身も心も軽い貴重な時間帯だ。

 雑木林へと登る。右手の段々畑ではゴーヤだけが意気盛ん、左はナス、ピーマン、トマト等が、水はやらず草を刈って敷くだけだが善戦している。特に花オクラ、毎朝、透き通った黄が3つ4つ緑に浮かぶ。この花をさっと茹で、酢醤油で、なんとも優雅な歯ざわりだ。

 30分強、山を歩いた後、腐葉土を袋に詰め一輪車に乗せ、さらに刈った草を山のように積む。一輪車に引かれて山を下る。雑木林から飛び出したハッサンが私を追い抜き駆け下りていく。

 鷄小屋に草を放り込んでいると、早くも灼熱の太陽が現れた。どうにも重苦しい。精気が抜ける。目を伏せて歩いていると、家の北側に茂るいちじくの葉の奥に、赤紫に熟れた実を見つけた。甘味が濃く、深く、それでいて水のように爽やか・・・腹が据わり気がシャンとなる。

 大きなバケツに、米糠、腐葉土、台所の生ゴミ・・・さらにお盆のお供え物の落雁(らくがん)を水に溶かしたものを入れ、混ぜる。夏だと1日2日で発酵して甘酸っぱいいい匂いになる。

 お寺さんでは、このお供え物の始末に苦慮しているようだ。ゴミに出すのは畏れ多い。かと言って自身の胃袋に始末していては職業病まちがいなし。遥か昔の子ども時代、落雁は私の大好物だったが、今の子ども達はそもそも食べ物と思っているのかどうか。いっそ物ではなく金にして、まとめて食糧・医療など大変なところに寄付したら。日本全国集めたら相当な額になるだろう。仏様、ご先祖様の覚えもめでたいだろう。

 かつては我が家も随分この精霊流しのお供え物のお世話になったものだ。1970年代半ば、この頃は今と違ってお供え物も景気よく、川原に豪華絢爛に並べられていた。スイカ、ぶどう・・・缶詰、乾麺・・・クッキー、チョコレート・・・缶ビール、カップ酒、ウイスキー・・・、軽トラックに山盛り頂いたものだ。この「お供え物収奪作戦」を陣頭指揮したのが、「元祖拾イズム」氏だった。当時初老、細身、細面の下半分が豊かな灰色の髭に覆われていた。知的、気難しげな表情だが、澄んだ目が優しい。職安(現ハローワーク)の職員、雨の日も寒風の日も自転車で往復2時間強の通勤、いつもめぼしいものが捨てられていないか鷹のように目を光らせて。彼にとって拾うことは、廃棄物の生命を拾うこと、同時に自身の生命を拾うこと、自身とこの世界を再生させることだった。

 彼は「キリステ教」の教祖でもあった。もっとも信者はいたのかどうか。この日本社会全体にタバコの煙が充満していた時代に、反タバコ、反過剰冷暖房を掲げて独り職場で闘った。彼が一番切り捨てたかったのは「世間」だったのかも。「異」を排斥し、「下」を蔑視し、「上」にへつらい、ひたすら金を求め現実から逃走する馴れ合い徒党集団、「超大国ニッポン」だったのかもしれない。

 彼の魂は純で、痛々しいほどに無防備だった。彼が病んだ時、私は休息の場さえ提供できなかった。「もっとしっかりしなさいよ。」と、しっかりし過ぎて疲れ果てた人に言ってしまった。私も「世間」の一員でしかなかった。

 数年後、風の便りに、彼が若い友人と九重・阿蘇を自転車で旅していることを、さらに数年後、彼が天に駆け抜けていったことを知った。

 まるでオーブンの中で丸焼きされているような灼熱の日々に戻る。例年なら木陰に避難すれば気持ちよく過ごせるのだが、この夏は風がない。山の奥なら涼しいだろうが、そこにたどり着くまでに汗だくだ。

 文字どおり穴場があった。穴蔵というか、地下室というか、丸太小屋の床下。低いところは数十センチ、高いところは私の背丈ほど、全面土、三方が分厚い石垣だが風は抜ける。古畳を敷き、横になった。奥の暗がりに転がるじゃがいもになった気分、ひんやりとした土の気。

 盆から十日、ここで昼寝と読書、古今の大衆小説で最も人気の高い作品の一つ「モンテクリスト伯」、新訳が図書館にあった。作品全体はともかく、部分部分の、特に悪漢たちの暗躍の描写が鮮やかで陰影深い。どこかかなしい。フランスの貴族社会の話になると、とたんに瞼が重くなる。とことん非生産的・無生活臭、徹頭徹尾、金・地位・ミエ・テイサイ・安・楽・快(不快?)。文明人の性なんでしょうかね。

 うつらうつらと土の匂いに漂っていた時、ザワザワと霰のような感触、穴蔵のすぐ前の谷間の濃く硬い草の群れが、天から降り注いできた無数の光る雫を吸い込み、伸びやかに震えている。まるで冷たい光のシャワーだ。

 直後、忽然と世界が闇に落ち、光と音が炸裂した。

 まさに恵みの雨だった。八月下旬、天の底が抜けたような雨、雨、雨・・・。一気に山の気が秋になった。

                 8月26日

追伸

 まだまだ降り足らなかったよう。梅雨の半分くらいが3,4日で降った感じ

台風一過、一度戻った夏から再び秋へ。

 いよいよ、人参、白菜、キャベツ、大根、ほうれん草・・・と秋冬野菜の種まきが迫ってきた。         9月2日

石風社より発行の関連書籍
関連ジャンルの書籍