人生を遊びなおす

重松博昭
2025/03/19

 そろそろ終わり方を考えねば、人生もだがその前に養鶏。つくづく嫌になった、日本という国の鈍感さ、傲慢さが。農業を一体なんと考えているのか、自然消滅を願っているのか。まともな飼料が手に入らない。小・中米と米ぬか。そもそも人間様が食べる米さえ危うくなっている。作る人、後継者がいない。条件のいい平野部でさえ。まして山間部は鹿と猪と竹林に占領されつつある。
 農業だけではない。中小商工業のほとんどが地域社会から消えつつある。車がなければ買い物もできない。できたての豆腐やパンや圧搾法の菜種油、産地直送の大きな四角の茶箱に丁寧に保管された緑茶も(かつてはお茶屋さんが上山田に2軒あった)、新鮮な野菜や魚も手に入りにくくなった。
 オカラも耳パンも魚のアラも調達できない。これら地域社会の中で不要になった捨てられるものを存分に生かしてこそ、放し飼い・平飼い養鶏は大地・地域に根付いた確かなものになる。米ぬかは必ずしも廃棄物ではないが、このわが拾イズム養鶏の要(かなめ)ともいうべきものだ。大量にあるはずなのに手に入らない。地域の精米所は激減したし、大精米工場を持つ農協もなぜか回してくれない。オカラ・米ぬかを密閉して嫌気性発酵、あるいは米ぬかに台所の残り、水に浸した耳パン、野菜くず、腐葉土等々を混ぜ好気性発酵させる。これらを飼料の柱にすれば穀物も魚粉もかなり少なくて済む。落葉樹の下(冬は日当たりが良く夏は涼しい)、土の上に放し、常時青草をふんだんに食べてもらえば、鶏たちは健康に、薬剤も不要に。この50年、鳥インフルエンザはもちろん、伝染病の被害はない。安全で質の高いかつ比較的安価な卵を供給できる。
 私はなぜか利が絡んでくると気弱になる。値切ることも高く売りつけることもどうにも苦手だ。養鶏を始めた最初だけは、1個10円の時代にエーイと30円を強行したが、これだって大都会の消費者相手に「元祖純自然卵」1個百円のほうが経営的には成功したかもしれない。ごく大雑把な話だが、私の少年時代、昭和35年頃、卵も豆腐もアンパンも一つ10円だった。その後、まともな豆腐もアンパンも百円以上に。ただ私としては地元の1人2人でもいいからうちの卵を食べてほしかった。そのぎりぎりの線が30円かなと思ったのだ。
 なぜ卵だけが物価優等生か、卵製造大工場が出現したから。外界から遮断されたケージに何千何万羽、安価な輸入トウモロコシ・大豆粕・魚粉90パーセントの「完全栄養食」(+薬剤)…だがこれも難しくなってきた。肝心の輸入トウモロコシが高騰、そもそも安定供給できるかどうか。大豆粕も魚粉も。さらに鳥インフルエンザ…土、風、日光から隔離された輸入飼料に頼り切った養鶏そのものが根本的見直しを迫られている。
 
 ところで、巨大科学技術がますます急速に「進化」し、特にAI、生成AI…で世の中すべてが回っているかのような昨今、なぜ私はこの地に移り住み土の暮らしを始めたのかとつらつら考えることがよくある。すでに1960年、70年代あたりから、「科学技術」教、「進歩」教は社会全体に圧倒的浸透力、影響力を持っていたように思う。巨大科学技術が産みだす新「文明の利器」を何が何でも享受することこそが「進歩」だった。「進歩」は絶対だった。土からコンクリートへ、創るから消費するへ。より多く、より早く、より楽に、よりクリーンに。その社会全体の圧倒的流れから、私は落ちこぼれたかった。土の上に。自身の全身全霊で生き直したかった。
 今も本質的には変わっていない。私は生きることは、生命の冒険・遊びだと、何かのためでも何かよりでもなく、生きることそのものが何より大切だと考えている。冒険・遊びの醍醐味は身体性・直接性だろう。登山にしろ極地探検にしろ、生命と生命、生命と自然の直接のふれあい、葛藤がなければ、観光旅行でしかない。非日常に飛び出す必要もない。日常の生活、生命活動そのものが冒険・遊びなのだ。自身の心身(頭)をフルに使って自身の生を創ることこそ最高の冒険・遊びだろう。あまりにも間接的「情報」(「教え」といったほうがいいか)が溢れすぎてはいないか。それも何から何まで至れり尽くせりの「正しい」支配者・神のような「情報」が24時間。生成AIの登場に至っては、すべてお任せしていれば万事よしってな風向きだよねえ。人間は余計なことを考えなくていい。これぞ現代物質文明の極みかな。身体ばかりか頭(心)を使うことさえ放棄するのだから。何もしないで済む、生きないで済むことが「進歩」なのだから。
 
 数日前、苦渋の選択をした。ヒヨコを入れないことにした。なにしろ小米もヌカも、このままだとあと1、2か月持つかどうか。輸入トウモロコシとフスマ(小麦の外皮)で補うしかない。早ければ半年、遅くとも1年半で養鶏をやめるしかない。これまでウチを支えてくださった皆様一人一人には、なんとも残念というか、寂しいというか……
 でも雑草園が隠遁生活に入るわけではありません。背水の陣で身体的・直接的土の暮らしを究めたい。耕さない「雑草農法」で四季の野菜と花(特に芋・豆類)、クルミ、栗、柑橘類、柿、梅、ビワ、椎茸、椿(油)…鶏は最終的には10羽、20羽程度、身の回りの食べ物で。草、腐葉土、ミミズ、台所の残り等々、産卵率は2、3割かな。薪・太陽熱温水器、太陽光発電、雨水…
 ご迷惑でなければ1、2か月に1度くらいは「山の暮らし」「雑草園から」と、あればおすそ分けの野菜等をお届けしたいと思っています。もちろんウーフも続けるつもりです。これはノン次第。念のため、まだ最低数か月は卵の配達は続けます。どちらにしろ末永いお付き合いを。 

2025年3月22日
 
 
 
 

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